いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

一度救われたら、永遠に救われるというのは本当か

2019-09-17 16:41:57 | 賛美の心

  聖書にこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:9-10)。多くの人はきっとこの二節をよく知っています。聖書のこの言葉のゆえに、多くの人は自分が主の御名を呼び、心の中で主イエス・キリストを信じることが、自分が救われたこと、しかも自分が一度救われたら永遠に救われ、もはやほかの救いを受け入れる必要がなくなることを意味している、と思っています。では、このような観点は神の働きについての事実に合いますか。一度救われたら永遠に救われるというのは本当ですか。

  真理を求めることによって、わたしは旧約聖書には「救い」についてこう述べられているのを見ました。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエ3:5)。「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(詩28:8-9)。この二箇所から分かりますが、律法の時代では、ヤーウェ神の御名を呼び、律法を守ったら救われました。律法の時代での神の仕事、およびこの仕事によってもたらされる効果を見れば、わたしたちは律法の時代で述べられている「救われる」がどういう意味かが分かります。周知のように、最初の人類は罪とは何かを知らず、人を殺し、みだらなことをし、姦淫し、近親相姦をし、偽りの神を拝んでも全然恥ずかしがらず、また良心のとがめを受けません。だから、ヤーウェ神は十戒と六百あまりの律法を発布されました。その目的は、最初の人類が罪とは何か、どんなことをすれば神に憎み嫌われ、打ち殺されるかを知ることです。イスラエル人はヤーウェ神の定めた律法と戒めのゆえに、神が何を憎み嫌うか、何が好きかが分かりました。そのため、彼らはことを行う時、神の要求にしたがって行うことができました。神の言葉を聞き、ヤーウェ神の律法、戒めを守る人たちは自分の信仰のゆえに、神の守りを得るようになり、天から下される火によって焼き殺され、石で打ち殺されることがなくなります。つまり、彼らはヤーウェ神の発布した律法、戒めを守るため、「救われ」ました。あの時の人は罪を犯せば、人の罪を償う燔祭をささげることができました。そうすることによって、彼らは贖われて死を免れました。これは、律法の時代の「救われる」の真意です。

  律法の時代の「救われる」と神の働きとの関係を知った後、わたしたちはそれを恵みの時代の神の働きと結びつけて考えましょう。そうすれば、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」という言葉の真意を容易に理解できます。律法の時代の末期、人はヤーウェ神の人に対する要求を知っていましたが、人の堕落した程度がひどくなったため、もう律法を守ることができなくなりました。彼らは悪い動物をよい動物と偽り、盲の動物や、足なえの動物や、最初に生まれたのではない動物をいけにえとして神にささげて、神をごまかしました。だから、あの時の人はもう罪悪の中に生きているようになりました。このままでいけば、人はきっと律法に背くために罪の中に死にます。そういうわけで、主イエスは来られた後、贖いの仕事をし、罪のない聖なる肉体をもってあらゆる人の罪を担われました。それゆえに、わたしたちが主の御名を呼び、主に悔い改めさえすれば、罪の赦しを得ることができます。そうなったら、わたしたちが罪を犯すために律法によって罪定めされて死ぬことがなくなります。こうして、主を信じるわたしたちは主イエスの贖いのゆえに「救われ」ました。これは、恵みの時代の「救われる」の本意です。

  主イエスの罪祭を得たら、安全になり、主イエスの再来の時、きっと主と共に宴席に着き、主と共に幸せを享受することができると、多くの人はそう思っています。では、罪の赦しを得たわたしたちが神の一度の贖いのゆえに永遠に「救われる」というのは本当ですか。実は、わたしたちが主イエスを信じることによって罪の赦しを得たことは、わたしたちが罪を持たなくなることを意味しているのではありません。わたしたちの罪性はやはりわたしたちの内側に存在しています。わたしたちはやはり常に罪を犯し、自制できずに、「自分のためを考えてくれない人には、天地の罰が当たる」というサタンの処世の哲学によって生きます。名誉、地位、利益のためには、わたしたちは争い合い、殺し合います。今、人と人は互いに欺き合い、互いに腹を探り合って暗闘します。サタンの哲学によって生きているため、人は利己的で傲慢で狡猾でおごり高ぶり、完全に正常な人性の中の良心、理知を失いました。天災や人災、迫害、患難が起こったら、人は神を誤解し、怨み、しかも神を裏切ります。長年主を信じたとしても、祝福を得ようという意図があり、働き、費やすと同時に神と取引します。人が労苦し、働くのはただ冠を得、天国に入るという祝福を得るためです。わたしたちはいつも主の言葉を実行できず、また全然神を畏れる心を持たないので、罪の中に生きていて、つらくてたまらないのです。そうだとしても、わたしたちは罪の束縛から抜け出す力を持ちません。それはローマの信徒への手紙第7章18節から20節で書かれているとおりです。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。ここから分かるように、わたしたちは主を信じることによって、罪の赦しだけを得、わたしたちの罪を犯すサタン的な本性はずっと解決されていません。わたしたちは罪の中に生きていて、自制できずに罪を繰り返して犯します。こうして、昼間に罪を犯したら、夜に罪を告白するという悪循環に陥りました。罪が支払う報酬は死です。わたしたちの罪が根絶されなければ、わたしたちは永遠に罪に苦しめられ、最終的にわたしたちの犯す罪のゆえに死にます。

  では、どんな人が神に救われて天の国に入ることができますか。ヨハネの黙示録第14章5節でこう預言されています。「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」。この節から分かるように、最終的に神の国に入る人はきよくて、とがめられるところがないのです。しかし、わたしたちは汚れていて、毎日罪を犯し、罪を告白します。それではどうして神の国に入ることができるでしょうか。罪祭のゆえに一度で永遠に「救われる」ことが可能だろうか。神は「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ11:45)と言われました。わたしたちが知っているように、神の本質は聖です。サタンに属するもの、罪に属するものはどうして神の国に残ることができるでしょうか。罪の中に生きている、汚れ、堕落したわたしたちが神に会ったら、神に打ち殺されるのではありませんか。これで分かるように、わたしたちが主イエスの十字架による救いによって、一度で永遠に救われることは不可能です。では、わたしたちはどうすれば本当に神に救われることができますか。わたしたちはまず、聖書にはどう書いてあるかを見てみましょう。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペテ一1:5)。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。……」(ペテ一4:17)。「この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼らがわが名を呼べば、わたしは彼に答え……」(ゼカ13:8-9)。聖書のこれらの言葉から分かりますが、十字架による救いを得たわたしたちは、終わりの時に現される救い、再来される主の裁き、そして神のさまざまな試練、精錬を受けなければなりません。神の裁き、試練、精錬によってこそ、わたしたちは罪性を取り除き、サタンの暗やみの権威と、利己的だという腐敗したサタン的性質を逃れることができます。そうなったら、人は恵みのために神を信じることがなくなり、神と取引することもなくなり、被造物の本分を尽くして神を礼拝し、真理を追い求め、命を得るために神を信じるようになります。もし、わたしたちの物事を見る観点、わたしたちの人生観、価値観が神の心にかなうようになり、わたしたちは神の義なる性質を認識して本当に神を愛し、神を満足させることができるようになり、堕落した性質が本当に変わった、神に新しく造られる人になるとしたら、わたしたちは精錬された後の、その三分の一の生存者の一員、神に良しと認められ、神に救われて、天の国に入る人になることができます。

  ヨハネの黙示録にこう書かれています。「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた』。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:6-8)。神の世の終わりの裁きを受け、神から真理、命を得て、罪悪を脱ぎ捨ててきよくなる人だけが、「輝く清い麻の衣を着せられた」人です。このような人こそ、神から与えられる永遠の救いと、天の国の中に携え上げられる資格を得られます。これで分かるように、「一度救われたら、永遠に救われた」ということは、人の観念、想像であり、全然成り立ちません。わたしたちが神の世の終わりに裁かれず、きよめられなければ、全然天の国に入る資格がありません。わたしたちがずっと自分の観念、想像を守って真理を求めず、神の世の終わりの働きを探求したり、調べたりしないなら、最終的にわたしたちはきっとこれらのもっともらしい宗教的観念によって葬り去られます。これは自業自得です!


他人が自分をどう思っているかは重要なのか

2019-09-16 16:24:46 | 賛美の心

  まっちゃんは小さな馬です。最近気分が落ち込んでいます。それはなぜですか。わたしたちは先週に起こったことから話しましょう。先週、草原で競走が行われました。参加したい動物はみな参加できます。まっちゃんはふだんも、草原の有名な足の早い馬です。だから、皆さんはまっちゃんが優勝できると思っていました。まっちゃんも自分が正常に発揮すれば、優勝者になるのには問題がないと思っていました。そういうわけで、彼は知らせを受けると、試合場で優勝を勝ち取ろうと手ぐすね引いていました。

  試合が行われたあの日、日当たりがよく、風が穏やかで日がうららかでした。動物たちは早々と試合場に行きました。草原は非常ににぎやかでした。審判員の号令一下、試合に参加する動物たちは命がけで前へ走りました。初めのうち、まっちゃんははるか先頭を切るのでした。ほかの動物が自分に大きく引き離されたのを見て、まっちゃんは傲慢になりました。「草原では、自分は本当に足の最も早いものだな」と、彼は走りながら考えていました。この考えのため、彼は考えれば考えるほど浮き浮きし、考えれば考えるほど得意になり、まるで自分が大勢の動物に取り巻かれているという場面を見たかのようです。彼が夢中になって考えているところへ、小さな馬うっちゃんはさっと彼のそばを通り過ぎました。最終的に、まっちゃんは傲慢のため、優勝する機会をみすみす逃してしまいました。

  優勝者になれなかったまっちゃんは気分が落ち込んでいて、毎日うなだれています。友達たちと遊ぶ勇気もありません。なぜなら、彼は友達たちが彼の失敗のゆえに彼を軽蔑していると思っているからです。特に友達たちがうっちゃんを取り囲む時、彼の心はもっと暗く、つらいです。皆さんが陰で自分をあざ笑うのではないかと、彼は自制できずに邪推します。友達たちが三々五々集まる時も、彼は皆さんが自分のことについて論じているのではないかと邪推します。長い時間がたった後、まっちゃんは極端に消極的です。彼は閉鎖的になり始め、己を偽り始めます。心が非常にもろいですが、うわべでは強いように見せかけます。他人が自分をどう思っているかをあまりにも気にするので、まっちゃんはつらくてたまりません……。

  実は、動物たちは全然まっちゃんをあざ笑いません。まっちゃんが優勝者になれなかったからといって、彼を軽蔑することはしません。このすべての苦しみが生じるのはすべてまっちゃん自身のせいです。

  多くの時、わたしたちはまっちゃんのように、他人が自分をどう思っているかを非常に気にます。名誉を得る時、あらゆる人が自分を重く見、崇拝し、自分を取り巻くことを切望し、他人が何を言っても自分に言及することさえ望み、あらゆる栄光を自分と関係づけます。失敗し、つまずく時、他人が自分を軽蔑し、あざ笑うかどうかを気にし、他人がなぜこんな言葉を言うか、なぜあんな目つきで自分を見るかさえ推測し、さまざまな思いがけない考えが次々と出ます。

  なぜこれらのばかばかしい考えが現れますか。わたしたちはサタンに腐敗させられた後、虚栄に執着し、メンツが何よりも重要だと思っているからです。メンツを愛するため、わたしたちは他人の自分に対する評価が非常に重要だと思うようになります。わたしたちは考えてみましょう。他人が自分を悪く評価したところで、それがなんだというのですか。自分があらゆる人に褒められることは、本当に自分がよいことを意味していますか。たとえあらゆる人に軽蔑されたとしても、あらゆることで神の心を満足させることができれば、神に尊ばれる者になれます。それは他人に褒められ、重視されることより百倍、千倍よいのではありませんか。これについては、主イエスがわたしたちにこう教えられました。「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタ6:17-18)。

  他人が自分をどう思っているかは重要ではありません。他人が自分をどう思っているかを推測することは愚かなやり方です。毎日わたしたちに臨むすべての人、事、物は御座におられる神に許されるものです。神は意義のないことをなさいません。もし誰かが本当にある事のためにわたしたちを軽蔑しても、それは大したことではありません。他人がどのようにわたしたちを扱っても、彼の理由があります。他人がわたしたちに不満を持っていることは、わたしたちに悪いところがあることを証明します。わたしたちが賢い人であれば、謙虚に受け入れ、そして反省し、自分を認識すべきです。そうすれば、わたしたちはこれまでに気づいていない多くの問題を発見できます。こうして、このような批判、非難はかえってわたしたちの成長を促す有利な道具になります。

  とにかく、自分は人としての道をちゃんと行い、神の前で生き、神が毎日按配してくださる人、事、物を受け入れ、自分の観念、想像にかなわないすべてのことにおいて真理を求め、神の意志を求め、得るべき真理に入るべきです。最終的に、神の支配、按配に従うことができるという効果を達成すればいいです。他人が自分をどう思っているかなどは、実は全然重要ではありません!

 


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クリスチャンの恋愛-遠距離恋愛の辛さを和らげる

2019-09-15 17:52:52 | 賛美の心

遠距離恋愛には不安な思いをさせられました
  「あなたとあなたの彼氏はもうしばらく顔を合わせていないけど、彼に他の彼女がいるのが心配じゃないの?」「あなたとあなたの彼氏は電話でしか話さないけど、どれだけの間好きでいられるの?」「遠距離恋愛をしている人の中で愛し続けられる人はどれだけいるのかしら?覚悟しておいた方がいいわよ」私と彼氏が遠距離恋愛を始めて以来、こんな声が頻繁に聞こえてくるようになりました。

  このような声に動揺した私はイライラして、食欲を失い、寝不足になり、だらだらと仕事をするようになりました。特に、彼氏は人気者で、近くに仲良しの女友達が2人いることを考えると、私は一日中、「彼は遠距離はしんどいなんて感じてしまわないかしら?彼は私を捨てて、他の誰かを選んでしまわないかしら?」、などとよからぬことを考えてしまい心配になりました。

 

  私は彼氏を失いたくありませんでしたが、彼の側にいたわけでもありませんでした。私はどうするべきでしょうか?

  私は増々不安になって、疑い深くなっていきました。私は彼と話をする度に、その日は何をしたのか、誰とチャットをしたのか、何処にいたのか等と質問攻めにしました。私は彼のFacebookのパスワードを聞いて、チャットのログを確認したり、Skypeのページを見せて欲しいとも頼みました。彼がぺージを見せてくれると、私は彼が誰とチャットをしたのかを見ようと目を見開いてページ全体を素早く確認しました。

  以前私たちが一緒だった時、彼はいつも側で私を慰めて、私の面倒を見てくれたので、私はとても安心でした。今私たちは離れて暮らしているので、安心感はなくなってしまいました。彼を失うことを恐れた私は彼にもっと大事にしてもらうとしてすねたり、怒ったりしました。しかし、私のこの振る舞いは彼をとても悲しませ、困らせてしまったのです。

  ある日の午後、私の彼氏がこうメッセージを送ってきました:「今日の夜10時に屋台で友達とゆっくりしながら夜食を食べてくるよ。」私はこう返事しました:「オッケー、帰りが遅くならないようにね。」

  翌日の朝、私は彼の友達がインスタグラムに投稿した最新の画像を見てみると、なんと彼らは昨晩お酒を飲みにバーに行っていたことが分かりました。その瞬間、私は心配になり、どうしてよいのか分かりませんでした。私はこう思いました:「どうしてバーに行くって正直に言ってくれなかったのかしら?友達以外にも誰か一緒に行った人がいたってこと?女の子かしら?」私は気持が動転しました。私は、「いや、何も知らないふりをする必要があるわ。それとなく探ってみて彼がどう説明するか見てみよう」、と思いました。

  しかし、疑いをかけて喧嘩はしないと彼氏に約束したことを思い出した私は彼に何も聞かないよう自制する努力をしました。しかし、自分を抑えていると私はさらにイライラしていきました。彼に対する疑惑が頭から離れないので、私は彼にこうメッセージを送りました:「昨日どこに行ったの?家にはいつ帰ったの?インディアンパンケーキはどうだった?陽性食を食べてから体調は大丈夫?」

  彼は私のメッセージに返事せず直接電話してきてこう言いました:「又俺のこと疑ってない?行く予定にしてた屋台は昨日閉まってたんだよ。友達が歌を聴きながらリラックスしたいって言うからバーに行ったんだよ。」彼の説明を聞いた私は恥ずかしくなりました。どうして私は彼を信用しなかったのでしょう?

疑うことが癖になってしまった時
  次第に、彼氏を疑うのは癖になってしまいました。ある日、私の彼氏は仕事の後に電話でこう聞いてきました:「小さい金の亀(飾り物)を売ってる場所知ってる?」又しても彼を疑った私は躊躇しながらこう聞きました:「金の亀は裕福になりたい人が買うものよ、あなたも同じこと期待してるんでしょ?」

  私がこう質問したのを聞いた彼はイライラしたようにこう言いました:「お前はいつも何らかの推測をしてくるな。理解できないなら大それた推測なんかするなよ。俺が金の亀を買いたいのは、それが安定性のシンボルだからだよ。物事は安定性をもって行うべきだってことをそれを使って自分に言い聞かせたいだけなんだ。それだけなんだよ!」

  彼が私はいつも彼を疑っていると言うのを聞いて、私はとても腹が立って彼にこう叫びました:「そうよ!疑ってるわよ、だってあなたのこと信用してないもの。私は毎日あなたから捨てられるんじゃないかって思っているのよ。辛いのよ、分かる?どうやってこの辛さを取り除けばいいか教えてよ。」

  数分の沈黙の後、彼は私にこう言いました:「お前と別れようと思ったことなんか一度もないよ。でも、俺のせいで辛い思いをしているなら、お前の辛さを和らげるために別れるしかないよ。」

  その瞬間、私はとても怖くなりました。なぜなら、彼は私と別れるつもりだったとは言わなかったからです。そして、私は自分の問題を省みずにはいられませんでした。突然、私は最近の自分の行いは私たちに辛さばかりをもたらしていたことに気が付きました。これは私が望んでいたことではありませんでした。しかし、私はどうすればよかったというのでしょう?

 

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終着点について

2019-09-14 20:10:25 | 賛美の心

  終着点に関する話になると必ず、あなたがたはその話を特に真剣に受け止める。あなたがたは全員この話題について特に敏感である。好ましい終着点に辿り着くために、神にひれ伏すのを切望する者もいる。あなたがたが切望する気持ちはわたしにも理解でき、それを言い表すことは不要である。あなたがたは自分の肉が災いに陥ることは絶対に望まず、それにも増して長く続く罰を将来受けることを避けたいと考えている。もっと自由に快適に暮らすことを望むのみである。ゆえに、終着点の話になると、あなたがたは殊更心配になり、十分注意しないと神の怒りを買い、然るべき報いを受けるかもしれないと大いに恐れる。あなたがたは自分の終着点のためであれば、躊躇なく妥協してきた。また、あなたがたのうちかつて不従順で軽薄であった多くの者が、突然極めて優しく素直になり、その素直さは寒気がする程である。いずれにせよ、あなたがたは皆素直な心を備えており、終始わたしに対し、非難であれ虚偽であれ、信心であれ、隠しだて無く心を開いてきた。全体的に、あなたがたはわたしに対しそうした心の奥にある重要な物事を極めて腹蔵なく「告白」してきた。無論、わたしもそうした物事を回避したことは無い。なぜなら、それはわたしにとって普通の事となったからである。あなたがたは心労の末に神の承認を得るよりも、むしろ終着点のために火の海に飛び込むほうが良いと考えているであろう。わたしがあなたがたに対して独断的すぎるということではなく、あなたがたの信心はわたしの行うあらゆることに直面するには特に乏しいということである。わたしの言う事を理解できないかも知れないので、簡単に説明する。あなたがたが必要としているのは、真理といのちではなく、自分の行動原理でも無く、いわんやわたしが骨折って行う働きでは無い。あなたがたが必要としているのは、富や地位、家族、結婚など、すべて肉にあって持っている物事である。あなたがたはわたしの言葉や働きを完全に軽視しているので、その信仰をひとことで概括できるが、それは「半信半疑」である。あなたがたは自分が完全に専心している物事を得るためなら何も厭うことは無い。しかし、神への信仰に関する事のために全てを捨てることが無いことをわたしは知った。むしろ、あなたがたは単に比較的に忠誠で真剣なだけである。最大限に真剣な心の無い者は神への信仰における失敗であると言うのはこのためである。よく考えなさい。あなたがたのうちに失敗が多くあるであろうか。 

  神への信仰における成功は人々の独自の行動により達成されるということを知らなければならない。人々が成功せずに失敗する場合、それもまた本人の行動が原因であり、他の要素の影響が原因ではない。神を信じるよりも困難で苦労を伴う事柄を成し遂げるためなら、あなたがたは何でもするであろうし、その事柄を極めて真剣に扱うであろうと思う。過ちをおかすことさえも嫌うであろう。これらはあなたがた全員が人生に注ぎ込んできた絶え間ない努力である。あなたがたは自分の家族を欺くことが無いであろう状況において、肉にあるわたしを欺くことすら出来る。これがあなたがたの一貫した振る舞いであり、人生に適用する原則である。あなたがたはわたしを欺くため、また美しく幸福な終着点を得るために、依然として偽りの姿を創っているのではないのか。あなたがたの信心と真剣さは一時的なものでしかないことに気付いている。あなたがたの志とあなたがたが支払う代償は今のためだけであり、そのときのためではないのではないのか。あなたがたは美しい終着点を確保するために、最後に一つの努力をするだけでいたいと思っている。あなたがたの目的は取り引きをすることのみであり、真理に対する負債を抱えないようにすることではなく、とりわけわたしが支払った代償を償還するためではない。つまり、自分の聡明さを用いる用意があるだけで、戦う覚悟はない。それがあなたがたの心からの願いではなかろうか。あなたがたは自分自身を隠してはならず、またそれ以上に、自分の終着点のために食事や睡眠が出来なくなるほど頭脳を苦しめてはならない。最後にはあなたがたの終着点は既に定められているというのが本当ではないのか。あなたがたは開かれた正直な心でもって出来る限り自分の本分を尽くし、そのためなら喜んで何でもする覚悟をもたなければならない。あなたがたが述べた通り、その日が来た時、神のために苦難を受けて代償を払った者を神が虐げられることは一切無い。このような信念は保つ価値のあるものであり、決して忘れてはならないものである。あなたがたに関してわたしの気が安まるのは、こうするよりほか無い。さもなければ、あなたがたに関してわたしの気が安まることは無く、あなたがたは永遠にわたしの嫌悪の対象となるであろう。あなたがた全員が自らの良心に従い、わたしのために全てを与え、わたしの働きのために出来る限り努め、わたしの福音の働きに対して努力の生涯を捧げるならば、わたしの心はあなたがたのために歓喜して飛び跳ねるのではなかろうか。あなたがたに関してわたしの心は完全に安らぐことが出来るのではなかろうか。あなたがたに出来ることは、わたしが期待する事のうちごく僅かでしか無いことは残念である。それならば、あなたがたはどうして厚かましくも自分が望む物事をわたしに求めることが出来るのか。

  あなたがたの終着点と運命は、あなたがたにとって極めて重要であり、由々しき懸念である。十分注意して行動しなかったならば、それは終着点が無くなり、運命の破滅に等しいとあなたがたは考えている。しかし、努力が自分の終着点のためだけであるならば、それは空しい努力であることにあなたがたはこれまで気が付いたことがあるだろうか。そのような努力は本物ではなく、虚偽である。その場合、自分の終着点のために努力する者は、最終的に失敗するであろう。なぜならば、神への信仰における人々の失敗は偽りに起因するからである。わたしは媚びへつらわれたり、熱狂的に扱われるのを好まないと前に述べた。わたしは、わたしの真理や期待と向き合う正直な者を好む。それ以上に、わたしの心に出来るだけ配慮し、わたしのために全てを捨て去ることの出来る者を好む。わたしの心が慰められるのは、こうした場合のみである。今、あなたがたに関してわたしが嫌う物事はいくつあるであろうか。今、あなたがたに関してわたしが好む物事はいくつあるであろうか。あなたがたが自分の終着点のために示したあらゆる醜悪さに気付いた者は誰も居ないのだろうか。

  わたしの心の中では、肯定的かつ意欲的な心に苦痛を与えることを望まず、またとりわけ忠実に自分の本分を尽くしている者の勢力を減衰させることを望まない。それでもなお、あなたがた一人ひとりに対してあなたがたの不足や心の奥にある汚れた魂に注意を喚起しなければならない。その目的は、あなたがたがわたしの言葉に対峙したときに真の心を捧げられるように望むことである。なぜなら、人間のわたしに対する欺きをわたしは最も嫌悪するからである。わたしの働きの最終段階において、あなたがたが見事な成果を披露でき、完全に献身しており、もはや半信半疑ではないことを望むのみである。無論、あなたがた全員が好ましい終着点を得ることもわたしは望んでいる。それでもなお、あなたがたがわたしに対して排他的かつ最終的な信心を捧げる際に最善の決断を下すことというわたし自身の条件がある。ある者に排他的な信心が無い場合、その者は間違い無くサタンに重宝されるようになり、わたしがその者を使い続けることは無い。わたしはその者を家に帰し、その両親に世話をさせるであろう。わたしの働きはあなたがたにとって極めて有益である。わたしがあなたがたから得ることを望むのは、正直で肯定的な心であるが、現在に至るまでわたしの手には何も無い。考えて欲しいのだが、将来、わたしが依然としてこのような言いようの無い苦い思いをしているとしたら、あなたがたに対するわたしの態度はどのようなものとなるであろうか。わたしは現在と同様に親しくするであろうか。わたしの心は現在と同様に安らかであろうか。あなたがたは骨折って畑仕事をしたが一粒も収穫を得なかった者の気持ちが分かるだろうか。強く打たれた者の傷がどれほど大きいか分かるだろうか。希望に満ちていたのに誰かと仲たがいして訣別せねばならない者の苦渋を感じることができるだろうか。挑発された者の怒りを目にしたことがあるだろうか。敵意を向けられ欺かれた者の復讐に満ちた衝動を理解することが出来るだろうか。そうした者たちの精神を理解するならば、神の報復の時の態度を想像するのは困難ではないであろう。最後に、あなたがた全員が自分の終着点のため真剣に努力することを望むが、努力には虚偽的な方法は利用しない方が良いだろう。さもなければ、あなたがたにわたしの心は落胆することになるであろう。こうした落胆の結果、どうなるであろうか。あなたがたは自分をごまかしているのではないだろうか。自分の終着点のことを懸念しつつ破滅させる者は、全く救われることが無い。そうした者が憤慨したとしても、誰が同情するであろうか。とにかく、わたしは依然としてあなたがたが適切かつ良好な終着点を得るよう願うつもりである。それにもまして、あなたがたのうちに災いに陥る者が一人もいないことを願っている。


クリスチャン映画「福音の使者」 神の福音を伝えることはクリスチャンの責任だ 予告編 日本語吹き替え

2019-09-13 23:06:20 | 賛美の心

 

  キリスト教徒チェン・イーシンは主を長年信じ、終わりの日の主イエス・全能神をお迎えする幸運に恵まれていた。彼女は全能神の御言葉から、人類を一刻も早く救いたい神の御心と、被造物が果たすべく使命と責任を理解したため、福音を伝えて終わりの日の神の働きを証し始めた。その間、多くの都市や省に渡り、何度も宗教界からの抑圧と拒絶や中共政府による追跡と迫害に見舞われる。多くの苦難に遭う彼女だが、神の御言葉の導きの下、使命を背負い続け、危険を恐れず勇敢に前進する。


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