天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

2007年07月19日 | 文化・芸術

                          

        

 

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

 

新潟でまた地震があった。日本はそもそも地震列島とも呼ばれ、大陸プレートと海洋プレートがひしめきせめぎ合う地殻の上に国土がある。その上に生活する国民の運命の悲哀というべきか。いや決してそんなことはない。科学の発達した今日、地震による死亡事故などの大半は、国家と国民の危機管理能力の欠陥による人災である。

 

地震列島はその一方で、豊かな天然地下温泉を湧き出し、変化に富んだ美しい自然景観を造りだす。その天然の恵みは決して小さくはない。地下マグマの自然エネルギーを善用活用して国民の幸福に役立てるか、それとも、その前に、無力に手をこまねいて地震災害被害に泣くかは、国家と国民の危機管理能力しだいであるといえる。

 

日本などのような地震国では、そして、これほど深刻な環境問題を抱え込んだ現代においては、原子力発電以上に、国家プロジェクトとして強力に地熱発電の研究・開発に取り組まれるべきものである。地熱エネルギーの最大限の有効利用に取り組むべきである。そうしたことができないのは、科学技術などのハードの未発達に原因があるいうよりも、国家の組織機構に、政治や教育といったソフトに、国家の頭脳、その指導性に欠陥があるためである。経済産業省や国土交通省などの各省庁を横断して、欠陥の多い原子力発電に代わるものとして、地熱発電や太陽光発電、風力・海洋エネルギー発電などに強力に取り組まれていてよいはずである。

 

十余年前の阪神淡路大震災で、当時の村山富市首相の対応の遅れによる震災被害の拡大の教訓がいまだ十分に生かされていないように思われる。地震が起きてからの事後危機管理も充実させる必要のあることはいうまでもないが、不備を感じるのはとくに「事前の」危機管理である。

 

それにしても、ひとたび地殻が変動し、大地が揺らぐたびに家屋は倒壊し、そのために多くの犠牲者が出るというのはあまりにも惨めである。先の阪神淡路大震災でも、多くの家屋が全壊半壊し、その倒壊によって多くの人々が圧死した。そして、それに引き続く火災によっても多くの人が犠牲になった。今回の新潟沖地震ではそれほど多大な人的被害は出てはいないが、阪神淡路のような地震が来れば、日本のどこであれ、またふたたび家屋倒壊などに起因する大災害になりかねない。現代のような科学技術の発達した時代において、そうした人的被害を防ぎ得ないというのは、天災ではなく行政の不備による人災と考えるべきであろう。その根本的で重要な対策の一つに、住宅、工場、公共施設のさらなる耐震構造化を進めてゆく必要があると思う。

二十一世紀に入ろうという現代において、住宅家屋の倒壊による圧死というような後進的な災害が現代において繰り返されてよいのかという率直な印象を受ける。地震による被害が深刻なものになるのは、根本的には旧来の日本家屋の耐震構造があまりにも脆弱で、かつそれが放置されたままであるためである。それは素人目にもあきらかだろう。商店街を歩いてた婦人が商店の倒壊により下敷きなったり、また、お寺の屋敷が倒壊して老人が下敷きになって死亡するなどというのは決して天災などではない。商店や寺屋敷の建築物が耐震構造になってさえいれば防ぎえた人災である。

 

自然の威力を前に右往左往させらるのが人間の尊厳であるとは思わない。地震であれ台風であれそうした自然の威力に対抗し克服してゆくところに人間の尊厳があると思う。人間は神の子であり、「空の鳥と地の獣は海の魚とともにすべて人の手に委ねられている」(創世記9:2)。人間は自然の奴隷ではない。

国家の危機管理の問題である。危機管理には、事前危機管理と事後危機管理がある。以前と比較すれば改善されてきているとはいえ、とくに地震やテロ、戦争などの対策において、首相を頂点とした統一性のある事前・事後の危機管理対策が十分に構築されているとは思えない。とくにあまりにも貧弱なのが、「事前の」危機管理対策である。国家の頭脳としての意思決定と、その全国津々浦々への迅速な伝達を担う神経組織が十分に効率よく組織立てられているとは思えない。


 
これだけ国内に地震災害が多発することがわかっているのにもかかわらず、いまだ住宅や工場、原子力発電所などの公共施設の耐震化が十分に進んではいないようである。日本には地震に弱い老朽木造住宅がまだ1,000万戸あるともいわれている。建築基準法は改正されてきているとはいえ、こうした現状が放置されているのも、国家の危機管理能力の低さの現われではないだろうか。

 

こうした事前の危機管理対策が不十分であるとしても、それは日本の科学技術が未発達であるためではない。それよりも、縦割り行政や、公務員制度、旧弊の都道府県制度といった、危機管理を支える国家組織や体制機構など、政治や行政の劣悪さに起因する部分がはるかに多いのではないだろうか。国家を一個の有機体として、どれだけ美しく完全で効率的な国家体系にしてゆくかは国民自身の課題である。

 

その中でも、とくに緊急性のあるのは、震災による死亡事故の原因の大半を占める、旧来の木造日本家屋の老朽化した脆弱な住宅の耐震対策である。この弱点を克服しえていれば、地震後の火災発生件数も含めて、震災による圧死や焼死などの死亡者数もはるかに少なくなると思われる。

 

伝統的な木造家屋の耐震構造の弱点や欠陥を克服するために、国土交通省や産業経済省などが結集して、国家的な規模で「国民的家屋」のモデル住宅を開発すべきではないだろうか。それによって、震度8ぐらいの地震にも十分に耐える耐震構造を持ち、生活上の利便性、効率性も極めつくし、なおかつ伝統的な日本建築の美しさも生かした、日本の風土、自然景観とも調和したモデル住宅建築を、国民住宅(フォルクスハウス)として、二十か三十程度も提示できないものだろうか。それを国家プロジェクトとして、安藤忠雄氏などの建築家をはじめ、美術家、耐震工学者、宮大工など国家の頭脳を総結集して設計できないはずはないと思う。必要なのは強力なリーダーシップである。

 

かって、ヒトラーのナチス・ドイツの下で、国民車(フォルクスワーゲン)とアウトバーンが整備されたという。ナチスドイツの国家犯罪は真っ平ごめんであるとしても、日本においても、国民住宅(フォルクスハウス)が構想されてもよいのではないかと思う。それが普及すれば、少々の地震にもびくともしない国民性が培われるとともに、何よりも、この上なく醜くなった現代日本の自然景観、都市景観の改善が見られるようになるはずである。

 

そうして現代日本人の殺伐とした精神構造を反映するかのような、むき出しの電柱と電線と雑然とした雑居住宅の醜悪さそのものも改善され、癒されてゆくのではないだろうか。それとも願わくは、地中海の美しい海に照り映えるギリシャの町並みと同じ美しさを、この日本に再現することを夢見るのは、かなわぬ一夜の夢物語に過ぎないか。

 

 

柏崎刈羽原発の防火体制 05年に不備と指摘 IAEA(朝日新聞) - goo ニュース

「補強する金なく」高齢者の家に犠牲集中…中越沖地震(読売新聞) - goo ニュース 

 

 

 

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バッハの言語――②無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

2007年07月18日 | 文化・芸術

バッハの言語―――②無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

 

Milstein's Last Public Concert at 83 Years Old: Chaconne (7.1986)

ヴァイオリンという弦楽器が奏でる響きが伝える世界は、純粋抽象の天上の世界で、時間的な系列における啓示である。その表現技法のおそらくこの上なく困難なこの楽曲を、たんなる技巧に陥ることなく、質朴だけれども深い彫りで骨太く演奏しているのは、円熟を迎えたロシアのヴァイオリン奏者ナタン・ミルシテイン。たった一丁の弦楽器ヴァイオリンが、主題とその変奏の反復のなかで、ヴァイオリンの持つ可能性を極限に至るまで引き出しすかのようにその魅惑的な声で歌う。

バッハの自我の感情の、明朗、活発、苦悩、歓喜などの無限の起伏が、音の連続と断続、対立と混交の中でさらに高みへと上りつめながら、時間の終焉に向かって私自身の自我と絡み合い、やがて一体化しながら流れてゆく。ヴァイオリンが、ここではバッハの魂のもう一つの声となって響いてくる。優れた作曲には天衣無縫という言葉があるように、思わせぶりな天才ぶった技巧や創作の跡はない。職人芸のようにすべてが自然で、破綻がなく神の創造物のようにそこにある。

それにしても音楽を、このもっとも抽象的な芸術を分析するのはむずかしい。的確に音楽作品の精神を分析し、把握し、評価するには長年の修練を要するのだろう。しかし、多くのカンタータを創作したバッハには、その歌詞による詩的表現に通じることによって、バッハの音楽の抽象的な内面の表現も、その象徴的性格の把握にもより明確に慣れることも容易になるだろう。それゆえソナタやパルティータにおける純粋な器楽演奏による精神的な内面性の表現についても、バッハの音楽の形式における絶対者の把握へと導かれやすいのではないだろうか。


もちろん、音楽は音楽として、ソナタやパルティータにおいては言語は音楽との結びつきがとかれ、自由により純粋に音調そのものとして、内面的な主観を表現するようになる。それゆえ、純粋音楽という「言語」を通じてのもっとも抽象的な感情把握には、もともとの天賦の感覚とさらなる高度の修練とが求められるに違いない。バッハ自身も、この器楽曲を練習課題曲としても作曲したのではないだろうか。それによって、バッハは今日においても最大の音楽教育者であり続けている。バッハの受容と止揚は、現代の日本でも最重要な課題であると思う。今日においてもそれなくして新しい音楽芸術の創造は不可能ではないだろうか。それはちょうどバッハがヴィヴァルディたちを梃子にして自分の芸術を完成させたのと同じだと思う。

 

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冬の旅

2007年05月30日 | 文化・芸術

冬の旅

朝から雨、昼過ぎには時折激しく降り、ひと時収まったが、また夜になって再び降り始め、雷光さえ差し込んだ。

久しぶりに古いレコードで「冬の旅」を聴く。ハンス・ホッターの声。
詩人は冬に旅に出る。強い風、凍る涙。意識もかすんでゆくなかで詩人は故郷を思い出す。
詩人は故郷を離れた後悔を歌う。 
 
   菩提樹

村の門のそばに泉があり、
そこに一本の菩提樹が立っていた。                                  私はその木陰で、夢を見た。
多くの甘美な夢を。

私はその樹皮に刻んだ。
多くの愛の言葉を。
その言葉は、歓びにつけ悲しみにつけ、
私をいつもそこに連れて行く。

今日もまた、私は旅行かなければならない。
深い夜を通り過ぎて、
そこは闇の中で、
私はなお見つめなければならなかった。

そして、菩提樹の枝はざわめいていた。
私に呼びかけるように。
私のところにもどっておいで、若者よ。
ここにこそあなたは憩いを見出すのよ。

冷たい風は吹き付ける。
私の顔に真っ向から。
帽子は頭から吹き飛ばされたが、
私は振り返ろうともしなかった。

今や私には多くの時間が過ぎ、
あの場所からも遠く離れている。
そして、私の耳にはいつもあのざわめきが聞こえてくる。
あなたはあの場所にこそ憩いを見出せたのに。

 

Am Brunnen vor dem Tore
Da steht ein Lindenbaum:
Ich traeumt' in seinem Schatten
So manchen suessen Traum.

Ich schnitt' in seine Rinde
So manches liebe Wort,
Es zog in Freud' und Leide
Zu ihm mich immer fort.

Ich musst,auch heute wandern
Vorbei in tiefer Nacht,
Da hab' ich noch im Dunkel
Die Augen zugemacht.

Und seine Zweige rauschten,
Als riefen sie mir zu,
Komm' her zu mir Geselle,
Hier find'st du deine Ruh'!

Die kalten Winde bliesen
Mir grad' ins Angesicht,
Der Hut flog mir vom Kopfe,
Ich wendete mich nicht.

Nun bin ich manche Stunde
Entfernt von jenem Ort,
Und immer hoer ich's rauschen:
Du faendest Ruhe dort!

  Der Lindenbaum

  Der Lindenbaum

 

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toxandoriaさんとの議論

2007年05月15日 | 文化・芸術

 toxandoriaさんとの議論

toxandoriaさんのブログ(『toxandoria の日記、アートと社会』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514)を読んで、それにコメントをお送りしたところ、次のようなコメントを返していただきました。こうした議論に多少の興味を持たれる人もいるかと思い、記事として新しく投稿しました。toxandoriaさんに許可はえていませんがよろしくお願いします。もし不都合のようでしたら消去します。


そら『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。

それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。

私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。

現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには厳しくないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。

あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。


       そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』 (2007/05/15 15:04)

 

 toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。

ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?

日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。

恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。

京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。

記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。

古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は古代ローマ文化との接点が気になっています。

メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。』 (2007/05/15 17:37)

 


 

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教育の再生、国家の再生

2007年05月09日 | 文化・芸術

教育の再生、国家の再生

今の安倍内閣においても、教育改革は内閣の最重要課題に位置づけられている。それは現在の安倍内閣ばかりではなく、歴代の内閣においても教育の問題は最重施策として取り上げられてきた。前の小泉首相は、郵政改革で頭がいっぱいだったから、教育の問題はそれほど自覚されなかったかもしれないが、その前の森喜朗元首相の内閣でも、文部科学省に教育諮問委員会を作って教育改革を目指していた。森喜朗氏でさえそうだった。森喜朗氏は文教族の国会議員としても知られている。

確かに国家の再生には教育の再生が前提になるだろう。しかし、教育の再生には何が必要なのか。教育の再生には、国語教育の再生が必要であり、国語教育の再生には、なにより哲学の確立が必要であると思う。だから、少なくとも国家の再生といった問題に関心をもつ者は、まず哲学の確立によって国語教育の再生をめざし、国語教育の再生によって教育の改革を、そして教育の改革を通じて国家の再生を計るということになる。教育の再生は国語教育から、ということではないだろうか。


江戸時代から、日本には「読み書き、ソロバン」という教育上の標語があって、この標語の教育の核心をついた普遍的な真理は、今日においても意義があるだろうと思う。読み書く力を十分に育てることが教育の根本的な課題であることは今日でも同じだと思う。


読む能力は、知識や情報を外部から吸収するのに不可欠であるし、書くことによって、自らの意思を社会や他者に向って発信することができる。この二つの能力は、個人が充実した社会生活を営んでゆく上で不可欠のものであるし、また、どれだけ高いレベルでそれらの能力を育成できるかが、個人の生涯を意義のあるものにできるかどうかも左右するのではないだろうか。


確かに、現在の学校教育でも国語教育がおろそかにされているとは思わないし、生徒たちの国語能力の向上に向けて、それなりの努力は行われていると思う。朝の授業前の読書の時間は多くの学校で普及しているようであるし、作文の時間などで文章を書くトレーニングもそれなりに行われている。


ただ、それでもなお、日本の国語教育における「読書の訓練」は生徒たちの自然発生的な意欲や努力に任せられたままで、読書の技術などは、まだ学校の現場では洗練されも高められもせず、充実してはいないようだ。もちろん日本の教育の伝統としても確立されてはいない。それは、多くの人々から指摘されるように、今日の大学生がまともな論文を書けないということにもなっている。

だから日本で世界的に通用する学術論文を書くことができるのは、リテラシーという言葉で「言語による読み書きできる能力」が長年の伝統の中に確立されている欧米などの海外に留学して、そこで教授などから専門的な論文教育を受けて、論文の書き方に「開眼した」という留学体験のある、大学の修士か博士課程の卒業者に多いのではないだろうか。この点で今日なおわが国の普通一般教育や大学や大学院での論文教育は充実していないようにも思われる。


この事実は、かなり高名な日本の学者、教育者の文章が実際に拙劣であるという印象からも証明されるのではないだろうか。論文教育はいわば科学研究の方法論の一環として行われるべきものであり、その核心は、論理的思考力であり、哲学的な能力の問題である。自然科学系の有名な学者であっても、その文章に現われた認識や論理の展開で、正確さや論証力に劣っている場合も少なくないように思われる。


いずれにしても、これだけ学校教育の普及した国民であるのに、果たして、それにふさわしいだけの国語能力が確立されているだろうかという問題は残っていると思う。実際の問題として、一般的に国民における読み書きの力は、(自分を棚にあげて)まだまだ不十分だと思う。


それでも、今日のように、とくにインターネットが発達し、ブログなどで比較的に簡単に個人が情報を発信できるようになったので、なおいっそうそうした能力は求められると思うし、また、その能力育成のための機会も容易に得られるようになったと思う。多くの優れた学者の論説文もネット上で容易に読めるようになったし、また、語学力さえあれば、自室にいながらにして世界中の著名な科学者、学者の論文も読むことができるようになった。一昔に比べれば、翻訳ソフトなども充実して、語学能力の育成もやりやすくなったと思う。


蛇足ながら、私自身は文章を書くときに注意すべきこととしては、次のようなことを心がけるようにしている。それは、思考の三要素として、「概念」「判断」「推理」の三つの項目にできうるかぎり注意して書くことである。


「概念」とは、一つ一つの用語を正確にして、それぞれの言葉の意味をはっきりさせることであり、

「判断」とは、一文一文の「主語=述語」の対応が正確であるか「何が何だ」をはっきり自覚することであり、

「推理」とは要するに、文と文のつながりのことであり、接続詞や副詞などが正確に使われて、一文一文に示された判断が、論理的な飛躍や誤りがなく、必然的に展開されているか確認することである。

そんなことを検討し反省しながら書くようにしている。しかし、文章を書く上でこんな基本的なことも今の学校では教えられていないのではないだろうか。

なかなか、理想どおりにそれを十二分に実行できずに、現実にはご覧のような悪文、駄文になってしまっているのは残念であるにしても、これからも引き続き改善してゆくべき課題であると思っている。

今日の記事も、また、「教育の再生」や「国家の再生」といった大げさな標題を掲げてしまったけれども、多くの人がブログなどを書いてゆくなかで、「言語による読み書きできる能力」、、、いわゆるリテラシーを高めてゆくのに、こんなブログの記事でも、少しでも役に立てば幸いだと思っている。

 

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セザンヌのりんご

2007年02月20日 | 文化・芸術

セザンヌのりんご        拡大図

人間はなぜ絵を描くのか。絵や景色などは、ただ楽しめばよいものを、こうした不粋な問いでしらけさせてしまうのも、哲学愛好者の悪い癖なのかもしれない。

それにしても、なぜ人間は絵を描くのだろう。いや、単に絵だけではなく、音楽を作曲し、詩や小説などの文学を創作する。芸術を創作し、楽しむ。猿などの動物たちがそんなことを楽しんでいるとは考えられないから、それは人間だけの特性であり、特権であると言える。

人間はなぜ芸術にかかわるのか。それは根源的な問いでもある。この問いには、さまざまな答えが用意されるだろう。そこに、回答者の数だけの人間観が現われる。あなたならどのように答えられるだろう。

それは人間が神の子であるからだ。あるいは少なくとも、人間が精神的に神に似せられて造られたからだ。神が世界を創造したように、人間も神に似て、神のように世界のなかに自分の創造物を刻もうとする。それが芸術行為にほかならない。神が創造の御技を楽しむように、人間も芸術作品の製作と鑑賞を楽しむ。神も人間も精神的な存在だからである。そこに祈りも会話も成り立つ。

人間が人間として世界に登場して以来、歴史的にも芸術においてさまざまの創作に従事してきた。その中でもとくに近代絵画の扉を開いた画家としてセザンヌは知られている。なぜ、セザンヌの芸術が近代のとば口に立つのか。それは画家セザンヌの精神がもっとも近代人のそれだったからである。

近代人の精神とはどのようなものか。それは二人の人物に、ルターとデカルトの精神にそれを見ることができる。ルターは信仰における個人の自立を果たした人間である。そしてデカルトは、思考に存在の根拠を見出した人間である。彼らはそのような精神をもって神に、世界に、そして自然に絶対的に対峙した。(ここではその歴史的な由来は問いません。)

セザンヌもまた近代人として、自然を光と色彩の感覚で捉えようとした印象派の画家たちの跡を受けて、美術の世界に登場した。しかし、セザンヌは世界を単に感覚で捉えるだけでは満足できなかった。もちろんセザンヌは画家としてなによりも視覚の人である。モネたちの印象派のあとを受けて、光と色彩の価値は十分に知り尽くしていた。しかし、セザンヌが印象派に感じた不満は何か。印象派に欠けていたのは何か。それは堅固な構想力である。

印象派は世界を自然を光と色彩に分析しただけである。そして、外からの自然の美を、自分たちの感覚にただ感受するままにキャンバスに映したに過ぎない。それではまだ自然の真実を捉えきったことにはならない。光と色彩にあふれた自然の奥行きにはさらに何があるか。それは何をもって構成されているのか。それをセザンヌは追及した。そして、そこで彼が発見したのは、色彩の光学的な原理と自然の空間が球と円筒と円錐からなるという単純な原理の発見だった。

セザンヌは、絵画の世界ではじめて立体を、三次元を、空間を発見した画家であった。もちろん、ダビンチもレンブラントもかねて対象を物体を物体として描いてはいたが、対象を三次元の空間として分析してとらえたことはなかった。そこにセザンヌの近代人として知性が、その精神が明確に見て取れる。

しかし、セザンヌは単に分析に終始するのではなく、それを自我の意識において再構成しなおし、それを第二の自然として、みずからの自我の生産物として、自然から独立したセザンヌの独自の世界として、それを自然のなかに打ち立てるのである。それはあたかも近代世界で科学的な工業製品を芸術の世界で実現するようなものである。

セザンヌの絵画の世界では、一度は分析され分解された色彩と空間が、セザンヌが理想とする色彩と立体によってさらにふたたび再構成されて世界に置かれる。それは自然から感受した美を、印象派のように単に写し取るだけではなく、セザンヌみずからの自我によって分析され構想されて、人間の精神によって新たに創造された美として、より深い真実の美として主張されているのである。

   セザンヌの絵画は次のサイトでも楽しめます。

   Cezanne's Astonishing Apples

 

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短歌をはじめるべきか

2007年01月30日 | 文化・芸術

短歌をはじめるべきか

先日の1月25日で終わってしまったけれども、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して、佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていた。
第一回と第二回は記事も読んだはずだったけれど、さして興味も無く印象にも残らず、どんな内容だったかも忘れてしまった。調べればわかるはずだけれど、そこまでする気にもならない。

第三回の講座では、「口語・現代語のうねり」と題して現代短歌のかっての文語・古語の伝統からの変遷が語られていた。現代歌人として若山牧水も取り上げられ、彼の歌集『みなかみ』から、

  さうだ、 あんまり自分のことばかり考えてゐた、
  四辺(あたり)は  洞(ほらあな)のやうに暗い
 
という一首が取り上げられていた。和歌の中に読点を入れ、破調も極端で、こうした作品も現代語短歌の一つとされているらしい。伝統的な和歌の概念からすれば、おそらく、とうてい和歌とも呼べない作品だろう。

もちろん、若山牧水については、

  白鳥は  哀しからずや  空の青  海のあをにも 
  染まずただよふ  
                    『海の青』

といった学校教科書に掲載されていた歌などは記憶に残っている。紙面には、その他にも山崎方代、平井弘、林あまり、穂村弘ら四人の現代歌人の名前が取り上げられていた。こうした歌人は、短歌に造詣の深い人にはなじみの深い名前なのだろうが、和歌にはほとんど関心のない私には、いずれもはじめて聞く名前ばかりである。ただ私には、そんな現代短歌を詠んでみても、古い和歌のような豊かで深い情調を見出せず、よく分からない。たとい佐佐木幸綱氏が「現代短歌ベスト20」として取り上げていたとしても、賛同する気にはなれない。

私の知っている歌人とは、時々マスコミに登場する、黛まどかさんや(この人は歌人ではなく俳人だったか)、かって『サラダ記念日』で一躍有名になった、俵 万智さんとか、全共闘世代の女性歌人で大道寺なんとかさん(失礼ながらお名前を失念してしまった)ぐらいしか知らないし、そうした歌人、俳人の作品も実際にほとんど知らないような短歌音痴である。和歌については、西行のそれか百人一首か源氏物語や伊勢物語などの古典作品に登場するもの以外には全く関心はなかった。

ただ、それが少し心動かされたのは、「現代短歌ベスト20」の最後の第四回で、和歌と戦争とのかかわりのある和歌が取り上げられているのを読んだからである。  

その中で、佐佐木氏は三枝昂之氏の評論『昭和短歌の精神史』を紹介したあとで、『渡辺直己歌集』から、

     涙拭いて  逆襲し来る敵兵は  髪長き  
     広西(カンシー)学生軍なりき

     頑強なる  抵抗せし  敵陣に
     泥にまみれし  リーダーありぬ

という二句と、宮 柊二氏の歌集『山西省』から、

     おそらくは  知らるるなけむ  一兵の
     生きの有様を  まつぶさに遂げむ

を取り上げていた。これらの歌を詠んでいて、短歌の記録性と描写力に、あらためて感銘を受けた。短歌の専門家ではない私には、もちろん、これらの短歌の破調や音韻その他の表現技巧については評価できない。主観的な印象評価しか述べることしかできない。

ただ、これらの作品の中に、その歴史的な記録性と、それに遭遇した個人の心情が、さらに一昔前の流行語で言えば、人間の実存性が表現されていると感じたことである。とすれば、短歌によっても哲学の可能性を追求できるかもしれない。

また、ふだん絵画にせよ音楽にせよ芸術的な鑑賞からは遠い、論理と概念の世界に専念しようと志している者にとって、寸暇にでも芸術的な感興に浸れる短歌は貴重である。

それに西行などの作品をたんに分析、鑑賞するだけに終わるのではなく実作することによって、芸術的なあるいは宗教的な、さらには「哲学的」な「情操」をも記録し開発するのに有効であるようにも思われた。

それで、勇気を出して、恥の上塗りを覚悟で、実作を試みてみようかと思うようになった。また、それでブログの更新がマメになるかもしれない。その他、ボケ防止(短歌を専門に創作されている方には大変失礼)や思考の訓練にさえ、意義があるかもしれない。

西行や源氏物語、伊勢物語や百人一首その他古典に登場する和歌、短歌はいずれも歴史的で奇跡的な名歌がほとんどである。それはそれとしても、たんに散文的な記録だけではなく、心情の起伏などをもふくめた「生活」を、短歌によって記録し描写することもそれなりに意義があるようにも思われた。07/01/29

それで、せっかちな私は早速作ってみることにした。

姉歯建築設計事務所によるマンションの構造計算書の偽造事件が一昨年あったばかりなのに、また新たに、水落建築士の耐震偽装問題が持ち上がっている。その建築士が設計したホテルがたまたま京都にあって、それを実際に目にしたときの気持ちを題材に「詠ん」でみた。短歌のルールにも全く無知のまま推敲もろくにせず。

耐震偽装で話題になったホテルを、ビルの窓より眺めて詠む。

     冬空の  ビルの窓より  耐震の  
     偽装記事なる  ホテル眺むる

大原野を散歩していたときを思い出して詠む。

     冬枯れの  大原野行き  聖霊の
     白き鳩舞う  逸話思ほゆ

どうかお笑いを楽しんでいただくだけでも。誰か添削指導していただければ幸いです。時間に余裕があれば練習してゆくつもりですが。
熱しやすく冷めやすく飽きっぽい私が三日坊主に終わらずに済むかどうか。最後に、アメリカ映画を見ていたときに思い出した愛好の恋歌一句をお口直しに。 こんな和歌を作れたらうれしいのですが。

   難波江の  蘆のかりねの  一夜ゆゑ 
                        身をつくしてや  恋ひわたるべき                                                                                                                                                                                『千載和歌集』皇嘉門院別当

定年退職を迎えようとされている団塊の世代の皆さんも短歌をはじめられればどうでしょう。恥じ掻きの仲間が増える?

 

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小野の篁の詩の事

2007年01月16日 | 文化・芸術

久しぶりの投稿。

撰集抄  巻八

  第一  小野の篁の詩の事

むかし、嵯峨の天皇が、西山の大井川のほとりに、御所をお建てになられまして、嵯峨殿と申しまして、とても立派にご造営され、きれいにお作り飾られるのみでなく、山水や木立がこの上なく素晴らしく、とりわけ心に残るようでございました。如月の初めの十日のころ、御門のはじめての御幸のございましたときに、 小野の篁が、お伴たてまつり申しあげましたが、御門は篁をお召しになられて、
「野辺の景色を、すこし漢詩に作ってたてまつりなさい」との仰せがありましたので、篁はとりあえず、

  紫塵嬾蕨人拳手、碧玉寒葦錐脱嚢

とお作りもうしましたので、御門はとてもご感動なさって、宰相にめしあげなされました。多くの人を飛び越して、その位におつきになられました。このうえなく名誉なことでございましたでしょう。
それにしても、篁が逝去した後、大唐の国から白楽天の詩などが送られて来ましたが、

  蕨嬾人拳手、蘆寒錐脱嚢

という詩がございました。詩の趣は篁のと少しも異なりませんが、言葉はいささか違っていました。当時の秀才の人々が申されたのは、篁の句はさらにすばらしいとお褒め申し上げました。

まことに、心言葉がすばらしいです。わらびが紫色であるので曲がっているようです。曲がっているので物憂い様子です。これは、また手を握っているようにも見えます。物憂いものは首をかしげるという文が、高野の大師のお言葉にございます。碧玉の寒き蘆の生い出ています様子は、錐が嚢から出てくるのに似ています。紫塵に対するに碧玉、嬾い蕨に向き合っている寒き葦、まことに面白いです。宰相公に召し上げられた主君の御心もすばらしく、世の中を照らしている鏡に塵もつもらないで、人の芸能を評価することにも曇りはございません、とてもとてもありがたいことです。
ですから、人を多く出し抜いて宰相に連なられたのに、誰一人として、悪しく言う輩などございましたでしょう。

 

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待賢門院堀河

2007年01月04日 | 文化・芸術

明けましておめでとうございます。

2006年が去り、新しく2007年を迎えました。

暖かい正月でした。温暖化がいよいよ体感されるようになってきたということなのでしょうか。昨日は小さいけれども真っ白な月が出ていました。

そんな月を見ても私には歌を詠む技量はありませんし、和歌を学ぶだけの余裕もないので、せいぜい、昔に西行などが詠んだ和歌をなぞって、その芸術的な感興を満足させることができるくらいです。もちろん、本格的に和歌を詠む練習などもできればいうことはないのでしょうが。しかし、これ以上恥の上塗りをしないことでしょう。

900年ほど前にこの同じ月を見て西行が詠んだ歌で代えます。

堀河の局 仁和寺に住みけるに、まゐるべき由申したりけれども、まぎるることありて程経にけり。月の頃、前を過ぎけるを聞きて言ひ送りける。

854 西へ行く しるべとたのむ 月影の そらだのめこそ かひなかりけれ                                                  

返し

855   さし入らで  雲路をよぎし 月影は  待たぬ心ぞ
    空に見えける


堀河の局という知り合いの女性が御室の仁和寺に住んでいたときに、いずれお訪ねしますと申し上げていましたけれど、忙しさにまぎれて時が過ぎてしまった。月の美しい頃、私が、その人の家の前を素通りしてしまったことをその人が聞いて、私に次のような歌を送ってよこしました。

浄土のある西方への旅路の道案内としてお頼み申し上げていたお月様(あなた)でしたが、空頼みでしかなかったのは、甲斐のないことでしたよ。

こんな歌をその人が送ってきましたので、私は次のような歌を詠んで送ってやりました。

お月様が空の雲路を素通りしたように、私があなたの家をお訪ねしなかったのは、私を待ってくれる心のないことが、月の光を待ち望む心がないように、空から見えたからですよ。


西行がこのようなつれない返歌を送った相手の堀河の局は、京都の西山あたりにも住んでいたことが記録されている。西行が上記の歌を詠んだときは、彼女は仁和寺あたりに住んでいたようだ。堀河の局が仕えていた待賢門院藤原璋子が鳥羽天皇の中宮であったことから西行と和歌を通じて面識ができたらしい。西行は北面の武士として鳥羽天皇に仕えていた。堀河の局も女房三十六歌仙の一人に数えられて百人一首に選歌されるほどの歌人だった。

しかし、西行は待賢門院藤原璋子に惹かれたが、この歌に見られるように堀河の局にはさほど魅力を感じなかったらしい。

ただそれでも、堀河の局が西山に住んでいたときには、気にかけて訪れていた。その様子が次のように書き残されている。
   
ある所の女房、世を遁れて西山に住むと聞きて、たずねければ、住み荒らしたる様して、人の影もせざりけり。あたりの人にかくと申し置きたりけるを聞きて、言ひ送れりける

744   潮なれし 苫屋も荒れて うき波に 寄る方もなき あまと知らずや                          

返し

745  苫の屋に 波立ち寄らぬ けしきにて あまり住み憂き
   ほどは見えにき
   

西行は堀河の局を訪ねていったが、このときは行き違いで会えなかったようだ。この頃にはすでに藤原璋子の落飾に従って、彼女も尼になっていたらしい。

西行と鳥羽天皇や藤原璋子らの交流に素材を取った辻邦生の小説に『西行花伝』がある。機会があれば読んでみたいと思う。

とはいえ、概念論などを中心的なテーマとしているかぎり、なかなかそんな暇も取れそうにはない。いつのことになるやら。


たぶん今年も特別のことはないと思います。ただ去年よりさらに充実した一年を過ごせることを祈るばかりです。

1254  今はただ  忍ぶ心ぞ  つつまれぬ 歎かば人や  
    思ひ知るとて

本年もよい年でありますように。

 

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バッハ、カンタータ第25番

2006年12月23日 | 文化・芸術

カンタータ第25番

バッハのカンタータ第二十五番は、詩篇第三十八篇第四節のコラールを基礎に歌われている。

私の肉体には健やかなところがありません。あなたの激しい憤りのために。
私の骨にも安らぎはありません。私の過ちのために。
(詩篇第三十八篇第四節)

この詩篇第三十八篇では詩人はおぞましい疫病に冒されている。彼の肉体は爛れて膿み、悪臭を放っている。(第七節)
そのために、かって親しく付き合った友も、愛した人も今では自分から離れて去ってしまった。(第十二節)

それどころか、これを機会に敵は彼の命を付けねらい、彼を破滅に陥れようとうかがっている。(第十三節)

こうして、この詩人は不治の業病を患って、この世で考えられるかぎりの生き地獄の世界をさすらっている。

こうした悲惨な状況にある詩人の境遇は、マタイ受難曲思わせる悲しい旋律で合唱される。(第一曲)

それに応じて、次のレチタティーヴォでは、この全世界は無数の病人を抱え込む病院に過ぎないと説明される。子供も大人も病み穢れ、熱と毒で四肢を冒された病人に満ち満ちた病院の様子が、福音史家を思わせるテノールによって描写される。患者たちは人々からも見捨てられて、この世に身の置き所もなく、当てもなくさすらわなければならない(第二曲)
Die ganze  Welt  ist  nur  ein  Hospital  !

そうした救いのない世界で、彼の肉体の病を癒してくれるどんな薬も見当たらない中で、身と心を癒してくれる唯一の医者であるイエスに対する希望と願いが、苦しむ詩人のアリアのバスによって歌われる。(第三曲)

Du mein  Arzt, Herr  Jesu, nur  Weisst 
die  beste  Seelenkur.

しかし、この悩める詩人は、とうとうイエスの中に遁れ、そして清められ心も新しく強められて癒される。それで全心で命の限り感謝を捧げようと思う。ここでは明るいソプラノによって詩人の喜びが描写される。(第四曲)

続いて、救われた者のいっそう高揚した感謝の気持ちが、ソプラノのアリアで歌われる。(第五曲)

そして終局では、イエスの強い御手によって、まさに死の境にあった患いと悩みから解放された歓びと感謝から、人々は合唱によって、イエスを永遠にほめたたえるように勧める。(第六曲)

わずか10分たらずの小さな曲の中に、キリスト教の本質が美しく、心の中の対話があらわになる形で、その苦悩と感謝が、バッハのその芸術の天才によって、人々の心に刻み込まれる。こうしたカンタータを土台にして、彼の受難曲などが作曲されたのだろう。

聖書の詩篇も、もともと楽曲をともなって歌われたのだろう。中東の世界においてはもっと素朴な旋律だったと思う。バッハの場合は、詩の趣旨が見失われかねないほどに、その旋律はあまりに美しすぎる。ここでも罪の問題が人類の深刻なテーマであることには変わりはない。全世界は一つの病院である(Die ganze  Welt  ist  nur  ein  Hospital )と言う。

 

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『薔薇の名前』と普遍論争

2006年11月08日 | 文化・芸術
 

 

もう何年が過ぎただろうか。『薔薇の名前』という小説が、世界的なベストセラーになり、また、ショーン・コネリーの主演で映画化もされたことが記憶に残っている。

この小説の主人公である修道僧アドソの師はイギリス人のフランチェスコ会修道士でバスカヴィルのウィリアムといい、同じイギリスのフランチェスコ会修道士で唯名論者として知られていたオッカムのウィリアムと友人であったという舞台設定になっている。そして、異端審問官であり学僧でもある彼はまた、イギリスの経験論の祖ロジャー・ベーコンにみずから弟子として私淑していることになっている。

この小説は小説家ならぬイタリアの記号論言語学者にして文献学者でもあるウンベルト・エコの手になる作品である。それは一見書籍誌らしい小説で重層的な構造になっているらしいことである。ヨーロッパの修道院や教会の建築のように、石造りの城郭のように堅牢な歴史の風雪にたえうる小説のような印象を受ける。

それにしても興味をそそられるのは、もちろんこの作品が文献学者が書いた小説であるといったことよりも、この小説の中で、主人公アドソの師バスカヴィルのウィリアムの友人として、実在の唯名論者オッカムのウィリアムが取り上げられていることである。

唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。

私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。

この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。

たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。

バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。

それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。

この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。

この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。

話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。

この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。

だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。

しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)

これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。

それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。

これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。

ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。

唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。

小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公の修道僧メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。

それにしても、小説『薔薇の名前』はまだ本格的には読んでいない。何とか今年中には読み終えることができるだろうと思う。書評もできるだけ書いてみたい。映画もDVD化されているので鑑賞できると思う。年末年始の楽しみになりそうだ。

写真の白バラはお借りしました。著作権で問題あれば、削除いたします。 

2006年11月04日 

 

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荻の上風

2006年10月30日 | 文化・芸術
 

季節の変わり目を深く実感する今日のような日は、西行の歌を思い出す。秋の紅葉や春の花に触れては、西行の歌を介して世界を眺めたくなる。芸術家ならぬ私には、私の感性を芸術に形象化する技量はない。

日本にも歌人や俳人は多くいるが、その生涯の思想と行動について深く知りたいと思う者は少ない。西行はその数少ない一人である。私の見た西行の伝記をいつか書いてみたいというのは、いまだなお見果てぬ夢である。


松尾芭蕉や与謝野蕪村にないものが西行にはあると思う。芭蕉などは、私にとっては漢意(カラゴコロ)が強く、また現世的で、永遠の余韻が弱い。西行は仏教の影響を深く刻した歌人であったからだと思う。仏教思想が西行の和歌を深くしている。彼の歌には仏教の形而上学がある。

西行もまた多くの花を題材に詠んでいる。桜はいうまでもなく、紅葉、藤、なでしこ、菊、おみなえし、萩、桔梗、橘などそれぞれの季節に西行の思いを添えて詠んでいる。荻もまた秋を象徴する植物である。西行が秋風にそよぐ竹と荻に題材に取った和歌。二首。
おそらくこのふたつの歌は、同時に詠まれたものだろう。

   山里へまかりて侍りけるに、竹の風の荻に
   紛えて聞こえければ

1146 竹の音も  荻吹く風の  少なきに  たぐえて聞けば
   やさしかりけり

ある山里に参りましたところ、秋風が強くもなく、竹林の葉ずれの音も、あたかも荻の上を吹く風のように錯覚するほど、やさしいものでした。

   世遁れて嵯峨に住みける人の許にまかりて、 
   後の世のこと怠らず勤むべき由、申して帰りけるに、
   竹の柱を立てたりけるを見て


1147 世々経とも  竹の柱の  一筋に  立てたるふしは
   変らざらなむ

出家して嵯峨野に住んでいる人の許を訪ねて、怠らず仏道修行に勤め励むことなどを語らって帰りましたが、その人がわび住まいをしている庵に、竹の柱を立てていたのを見たことを思い出して詠みました。

西行は親友が出家して嵯峨野に隠棲している庵をひとり訪ねてゆきます。秋も深まりつつあります。よく晴れた日も夕暮れて、しかも、風もほとんど吹くか吹かずです。いつもなら、竹林のこずえを吹き渡る風も凄まじいけれど、今日は荻の上を吹く風のように、やさしく柔らかい。竹林に差し込む秋の夕日が、友を思いつつ道行く西行のわびしさをなおいっそうつのらせます。

友だちは、嵯峨野の山里に粗末な竹の庵を結んで暮らしていました。久しぶりの再会に、いろいろ話もはずみましたが、お互いに西方浄土に救い取られることを願って出家した身の上、この世の執着も煩悩も強いけれど、互いに仏道修行を勤めようと励ましあって別れました。その帰途、友だちの庵にまっすぐな竹を柱に据えていたのを思い出して、次のような歌を詠んだことでした。

あなたのお住まいになる庵の、竹の柱がまっすぐ一筋に立っていたように、あなたが悟りをめざした仏道修行の志も、いついつまでも変らないでほしいものです。

こうした歌からも、西行などが生きた時代―――平安、鎌倉期――に、人々がどのような世界に生きていたかを垣間見ることができる。当時の人々にとって、生は決してこの世限りで終わるものではなく、むしろ、死後の生のために現世を生きていたことがよくわかる。

嵯峨野は今もいたるところに竹林におおわれている。秋も深まった頃に荻の花の上を吹き抜ける風は西行の当時と同じだろう。

今までに見たもっとも美しい荻野原は、遠州灘近くにあった公園の、池のほとりで、秋の風に荻の穂花がそよいでいた光景。

2006年10月27日  

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アニエールの水浴

2006年10月01日 | 文化・芸術

スーラーは後期印象派の画家として知られている。

印象派がなによりも捉えようとしたのは光である。丘の上で風に吹かれながら日傘をさす貴婦人に注がれる陽光のきらめく自由な美しさ、水平線の彼方から霧を透かして朝日が上るとき、海原に揺らめき反映する赤い光の美しさを画布に捉えようとした。ルノアールやモネらの印象派の画家たちは型にはまりつつあった古典派の画家たちから離れて、色彩にあふれた自由な自然を再発見し、光の変転極まりない動きと色彩を瞬間において捉えようとする。


新興のブルジョアが機械と動力を用いた工業的生産によって豊かな富と作りだし、それによって自由と快楽に満ちた個人主義の都市生活を享受しつつあるとき、伝統的な貴族社会が崩壊して、かっての宮廷画家たちの長い徒弟修業の後に習得される古典的な技巧によって確立された様式美は、時代精神には合致しなくなった。


資本が産業や工業の世界で作り出す都市での豊かな富と自由な生活は、モネやマネ、ドガたちの絵画にも見られるように、古典的な技巧から絵画を解放し、色彩という人間の感覚と不可分な光を捉えることによって、精神は自由な色彩の表現へと、さらに、具象から抽象へと進もうとする。やがてそれらはカンデンスキーらの純粋抽象へ橋かけるものである。

絵画は線と面と色彩という二次元の世界で思想や精神を表現するものである。上の「アニエールの水浴」と呼ばれているスーラの絵は、セザンヌの水浴の裸婦たちのような、三次元の立体を色彩と線と面によって抽象化を力強く進める芸術家の対象把握と自然の理念化とは少し異なり、ロマン的な感情移入を色濃く残している。

キャンバス画面は、遠景の橋によって、上下1対2に分割構成され、さらに、左上から右下へと大きく伸びる対角線によって斜めに二分割されることによって、静かな画面に動きを呼んでいる。私たちの視線は導かれるようにして、画面の中央に座っている少年へと注がれる。

川辺の芝草の上に座し、あるいは寝そべっている男たちの視線はみなそれぞれ対岸へと向かっている。ただ、中央の少年の右脇にあって、背をこちらに向けて、胸まで浸かっている金髪の少年だけ、他の人物たちとは視線の動きが逆になっている。

画面右下で、川の瀬に半身を浸からせている小年の口に手を当てるしぐさは、水平と垂直の構図から漂う静寂の中に、何らかの音の響きを感じさせる。

画布の中の男たちのそれぞれの造形は互いに自由で独立的で共通性がなく、都会生活の中の孤独と不安を感じさせる。遠く橋の向こうにたちこめる煙りは、工場の煙突から吐き出るものだろう。スーラの精神的内面はすでに現代人のものを予感している。

習作

2005年09月10日  

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真珠の耳飾りの少女

2006年09月30日 | 文化・芸術

 

真珠の耳飾りの少女

拡大図

ここに描かれているのは、明らかに妙齢の婦人ではない。幼児でもない。少女である。まだ女性になる前の。彼女は振り返るようにして、私たちを見ている。

その二つの瞳の視線が交流するその焦点は、この絵の前に立って少女を見つめている私の眼の位置に合わせられている。そのことによって、平面の運命を免れないこの絵が、彫刻のような三次元の立体感をかもし出し、あたかもこの少女と、同じ時間、同じ空間を共有しているかのような存在感に捉えられる。

少女は私を見ている。その瞳も、鼻も、やさしくあどけなく開いた色鮮やかで健やかな唇も、まだ小さく幼っぽく清らかで柔らかい。かといって幼児のそれでないこの少女の小ぶりな顔は、これからの彼女の成長を暗示するかのように、まだ開き切っていない莟のようにかわいらしい。内に静かに秘められた成長するエネルギーを感じる。

この少女のふたつの瞳は何を見ているのだろう。声を掛けられて振り返った一瞬を捉えたようなこの瞳は、否応なく私に彼女と二つの精神の出会いを自覚させる。それは、この絵に描かれた少女の心の、短い履歴を一瞬の内に想像させ、また、一方で、世の中の塵と芥に薄汚れてしまった私自身の過去の来歴を思い出させる。この体験は作品にこめたフェルメールのテーマなのだろう。

この少女は、教会に飾られたマリアではなく、地上に降りてきて私たちと生活をともにする少女マリアである。フェルメールはこの少女の面影に、明らかに聖母マリアを見ている。私たちの世俗の中のどこかに生きるマリアを思い出させる。

漆黒の闇のなかに、画面の左から差し込む光に照らし出されて浮かび上がる少女の肖像は、レンブラントの肖像画の技法と同じである。ターバンの先端と彼女の胸と背中によって、二等辺三角形に画面の中に大きく揺るぎなく据えられた構図は、単純で骨太く落ち着きを感じさせる。

トルコの民族衣装風の青いターバンと、銀の耳飾りの輝きと、白い襟は、互いに響きあって、この少女の純潔を印象づける。たしか白と青は伝統的にマリアを象徴する色彩ではなかっただろうか。

フェルメールという画家は、きわめて寡作な画家である。日本では人気のある画家である。この少女像はモナリザほど高貴ではないが、それだけ親愛感を抱かせる。さまざまな折りに触れたい名品である。

 

 

 

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雅歌第八章

2006年07月04日 | 文化・芸術

雅歌第8章

1.(娘)
もしあなたが、私の母の乳房を吸った私の兄弟でしたら、
外であなたを見つけて口づけしても、誰も私をさげすまないでしょう。

2.私が育った母の家に、あなたをお連れして、
ぶどう酒やざくろ酒の、かぐわしい飲み物を差し上げましょう。

3.あなたの左手は私の頭の下に、右手は私を抱きしめて。

4.エルサレムの娘たちよ。私はあなたたちに誓ってお願いします。どうか、愛がおのずから望むまでは、ことさら起すことも目覚めさせることもないように。


5.(女たちの合唱)
恋する者に抱かれて、荒れ野から上ってくるのは誰ですか。

(娘)
りんごの樹の下で、私はあなたを呼び覚まします。
あなたの母はここでみごもり、苦しみのなかから、あなたを産みました。


6.
あなたの心に、私を印章のように刻み、
あなたの腕に、 私を印章のように刻んでください。


(女たちの合唱)
愛は死のように強く、妬みは墓のように残酷です。
愛は炎をあげて燃える石。激しく火花を散らす。

7.どんな大雨もそれを消し鎮めることは出来ない。
どんな洪水もそれを流し去ることは出来ない。
もし人が、住む家を抵当に入れて愛を買おうとするなら、
その人はさげすまれる。

8.(娘の兄弟たち)
私たちには幼い妹がいる。まだ乳房もない。
妹が求婚された日には、私たちはどうすればいい。

9.もし妹が城壁ならば、その上に銀のやぐらを建てよう。
もし妹が城門ならば、レバノン杉で打ち固めよう。

10.(娘)
私の胸は城壁で、乳房は二つの塔。私の愛しい人の眼には、それは歓びと安らぎです。

11.(女たちの合唱)
ソロモンはぶどう園をバアル・ハモンというところに持っていた。彼はそれを農夫に貸した。彼はぶどうの収穫のためにソロモンに銀貨一千を納めた。

12.(農夫たち)
ぶどう園は私たちのもの。ソロモン様、ぶどう園からの銀一千はあなたに、銀二百は農夫たちに。

13.(若者)
園に住まう愛しい人よ。友はあなたの声に耳を傾けています。どうか、どうか私にもあなたの声を聴かせてください。

14.(娘)
急いで、愛しい人。香り草の生える山にいる雄鹿や小鹿のように。

 

雅歌第八章注解


雅歌は、「ソロモンの歌」とも訳される。全篇はギリシャ歌劇のように、小さな戯曲としても味わえるのではないだろうか。

登場人物

若者(ソロモン)

合唱するエルサレムの女たち 

娘の兄弟たち

農夫たち

第八章はその最終章。とうとう最後になって、愛し合っている若者(ソロモン)と娘はお互いを見つけ出す。それまでは二人は互いを求めても見出せず、恋の病に冒され患ってさまよっていた。

とうとう恋する憧れの人ソロモンを見つけた娘は、彼を自分の生まれ育った母の家にいざなう。ソロモンは娘の本当の兄弟のようで、街角で口づけしても気にとめる人はいない。

娘は、母の家、自分の育った部屋に、取って置きのザクロ酒やぶどう酒をソロモンに用意している。それは彼女の愛の証し。しかしまた、娘は愛みずからが望むまでは、ことさらにそれを眼ざませることのないように、エルサレムの女たちに誓わせる。

娘は若者にいだかれて荒れ野を上って来る。そこに一本のりんごの樹があった。知恵の実をつけるりんごの樹。そのりんごの樹の下は、若者の母が身ごもったところ。そこで、娘は自分の愛が若者の身と心に刻まれることを願う。

愛とはどのようなものか。エルサレムの女たちは歌っていう。
愛は死のように強く、愛の妬みは墓のように残酷であると。
その熱情は炎のように燃え、大雨も洪水も消し鎮めることができない。
その愛を金で購おうとする者は軽蔑される。


娘の兄弟たちは、妹の純潔を心配してどう守ろうかと気遣う。しかし、娘は自分の乳房が若者を慰めることを知っている。
ソロモンはぶどう園をもっていた。そして、その管理を農夫たちに任せていた。そこから、地代としてソロモンは銀貨一千枚を得、農夫たちには労賃として銀貨二百枚を手渡す。

若者は、ぶどう園に住まう娘のきれいな声を聴きたいと思い、娘は早く若者が羊を世話する山から、小鹿のように自分のもとに駆け降りてくることを願っている。

ユダヤ人たちはキリスト者と同じように、自分たちを娘になぞらえ、若者ソロモンの愛を、父なる神の彼らへの愛の象徴と見る。若いソロモンの愛はまた、イエスの愛の前表でもある。


雅歌も黙示録のように、シンボルとして比喩として事柄を表現しようとしていて、その注解は難しい。どこまで正確を期せるかどうか。

 

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