天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

西行の歌、二首

2006年06月07日 | 文化・芸術

久しぶりに西行の歌を詠む。現代人の多くにとっては、ほとんど無縁の世界なのかも知れない。こうしたネットで、たまたま偶然に出逢う以外は。

 

年頃申しなれたる人に、遠く修行する由申してまかりたりけり。名残り多くてたちけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて、待ちつる甲斐なく、いかに、と申しければ、木の下に立ち寄りて詠みける。

1086 

心をば  深き紅葉の  色に染めて  別れて行くや  散るになるらん

 

駿河の国久能の山寺にて、月を見て詠みける

1087

涙のみ かきくらさるる  旅なれや  さやかに見よと  月は澄めども

 

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老いらくの恋

2006年06月01日 | 文化・芸術

在原の業平は、西洋におけるドン・ジュアンのように、色好みの男としてわが国において伝説化された男性である。そのいわれに大きな影響を及ぼしたのは、もちろん『伊勢物語』である。単なる口伝だけでは、これだけ深く広く業平伝説は伝わらなかっただろう。伊勢物語は、歌集であるとともに、在原業平という一人の男性を描いた、日本の原風景ともいえる物語でもある。

この歌物語は、元服したばかりの少年の初恋に始まり、異性の幼馴染たちとのさまざまな思い出から、青年時代の東国へのさすらい、また、仕えた主君の没落にともに涙をながし、身分違いの恋や別れた妻との再会、狂気じみた恋、田舎娘との恋など、献身や友情、さまざまな恋愛を遍歴し、そして、やがて病んで老い死に至るまでの、人間なら誰しもがたどる生涯の時間が、業平とおぼしき男性を主人公にして語られている。

そこで語られる物語は、多かれ少なかれ人間なら誰もが体験するような事件を内容としている。天真爛漫な幼少期から、異性への目覚めと恋、青年の出世欲と壮年期の挫折と不遇の中の失意など、千年や二千年の歳月では変わらない人間性の真実を明らかにしている。それらが日本語の美しい響きと描写とあいまって『伊勢物語』に古典としての価値を保っている。


業平の恋多き生涯の中でも、彼にとってもっとも切実な女性は藤原高子だった。その氏が示すように、高子は栄華を極めつつあった藤原家の出自であり、一方の業平自身は、平城天皇を祖父としながらも、父である阿保親王が「薬子の変」に連座したために、権力の中枢への道は閉ざされていた。それで、もてあましたかのような業平の男性のエネルギーは恋愛へと一途に注がれる。

特に、高子が、二条の后として清和天皇の女御として入内し、もはや手の届かぬ女性となってからは、その失恋のゆえに、業平の恋はいっそう奔放なものになった。

業平と高子との恋の軌跡は、伊勢物語の初めの数段にもよく記されている。第二段には男の愛した女は西の京に住んでいたとされている。実際に現在の西京区大原野にある大原野神社には藤原氏の氏神である「天児屋根命」が祭られているから、高子が少女時代をこの辺りで暮らしていたと考えてもおかしくはない。かっての右京区、現在の西京区あたりに藤原高子が娘時代を過ごしていたのかもしれない。

一方、業平の母であった桓武天皇第八皇女、伊登内親王が長岡京に住んでいたことは、第八四段の「さらぬ別れ」に記されている。だから、業平が青少年期に母と一緒に長岡京に住んでいたと考えれば、かっての長岡京と西の京は隣どうしだったから、業平と高子は幼い頃に目と鼻の先で暮らしていて、第二十三段「筒井筒」に記録されているように、業平と高子は幼馴染だったかもしれない。

また初段の「初冠」に記されているように、少年業平が、奈良の京、春日の里に狩に行ったときに出逢ったとされる美しい姉妹の一人が高子であったのかもしれない。春日野には、春日神社があり、この神社は藤原氏の総本社だから、高子がこの地で生まれ、幼少の時期を姉と一緒に暮らしていた可能性はある。それに洛西の大原野には今も春日町という地名が残されているし、奈良の春日野も京都の大原野のいずれも、藤原氏とはゆかりの深い土地である。ただ、物語そのものには業平と高子のなりそめは記されてはいない。

奈良の平城京から長岡京に遷都されたのは延暦三年(794年)、そして、それからたった十年後にはさらに、平安京へと遷都されている。都の真中を貫いていた朱雀大路あたりにはまだ十分に屋敷も整っておらず、新しく遷された都はまだ建設の途上についたばかりである。そうした時代に業平も高子も生きていた。

その二条の后、高子がまだ「春宮の御息所」と呼ばれていた時、小塩山のふもとにある大原野神社にお参りになったことがあった。その折に、近衛府の役人としてお供したのが、すでに年老いた業平だった。晩年の彼は右近衛中将になっていた。昔愛した女性の乗った御車のお供をして、彼女手ずから禄を賜ったとき、業平はどんな気持ちだったろう。彼はお礼に

大原や  小塩の山も  今日こそは  神代のことも 思ひいづらめ

と詠んだ。

この時の業平の気持ちは、わざにぼかされて明らかにされていない。しかし、この歌にこめられた業平の心は、

藤原氏の子孫であるあなたがお参りする今日こそは、大原野神社に祭られた藤原氏の祖とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のお供して天から降臨された神代の昔のことを思い出していらっしゃるでしょう。そのように私も、あなたと共に過ごした昔のことを思い出すでしょう、というのである。

晩年の業平は、「近衛府にさぶらひける翁」といかにも老人のように記されているけれども、このとき業平はまだ五十歳になるかならずかだった。高子はまだ三十歳前後だったはずである。当時にあっては、今日のような寿命の尺度ではなく、五十歳も過ぎれば、能面の翁のように、すでにもう相当に老人扱いだったのだ。この歌は老年になって知った恋を詠んだものではない。昔恋した女性を眼前にしながら、晩年の業平が若かりし日の恋を追憶しているのである。
 

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遊女の救い

2006年05月09日 | 文化・芸術

 

ようやく連休が終わった。桂川の土手をバイクで走っていても、美しい新緑が眼に沁み入る。新緑のきれいな季節になった。

先日、たまたま日経新聞を読んでいたら、その文化面に、たぶん五月三日の記事だったと思うけれど、河鍋暁斎の「地獄太夫と一休」の絵について、どこかの学芸員による解説コラムが掲載されていた。

一休禅師は室町時代の僧侶であるが、河鍋暁斎は幕末から明治にかけての画家である。江戸、明治期の画家が、室町の一休宗純と遊女の地獄太夫を題材に絵を描いている。

そのコラムの解説によると、地獄太夫という女性は、もともと高貴な家の──武家らしい──生まれであったが、悲運にも泉州堺の遊郭に身を落とすことになった。誘拐され、身代金代わりに売られたとも言う。江戸時代のみならず先の戦前までは、日本には遊郭は存在したし、戦争ではそうした女性は慰安婦と呼ばれたりもしていた。

太平洋戦争後、日本から少なくとも公娼制が廃止された。もし、それが敗戦によるものとすれば、それだけの価値はある。もちろん現在においても、実質的な「遊郭」は、今もその名前だけを変えて存在しつづけているけれども。

遊女という「職業」は、人類の歴史と歩みを伴にしている。聖書の福音書の中にも、姦通を犯して石打の刑にされかかった女が救われた話や(ヨハネ第八章)、イエスの足を涙と髪で拭った罪深い女性の話が出てくる。(ルカ第八章)

遊女の境遇は「苦界」とも「苦海」とも呼ばれたりする。そして、女性がそうした世界に身を沈めるのは、多くの場合「お金」のためである。貧困のためであったり、借金を身に背負ってそうした世界に足を踏み入れる場合も多いのだろうと思う。ドストエフスキーの小説『罪と罰』のソーニャもそうした女性の一人だった。

今、サラ金業者のアイフルがその強引な取立てのために、金融庁から業務停止の処分を食らっている。聖書の中では、すでに数千年前にモーゼは、同胞からは利息を取ってはならないと命じている。(レビ記第二十五章、申命記第二十三章)。同国人から暴利と高利を貪る現代日本人とどちらが品格が高いか、藤原正彦氏に聞いてみたいものだ。サラ金や暴力金融の取立てから、売春の世界に余儀なく落ちる女性も少なくないのではないか。10%以上の金利は法律で規制すべきだ。それが悲劇をいくらかでも減らすことになる。まともな政治家であれば、そのために行動すべきである。サラ金から政治献金を受けて、高金利を代弁するサラ金の走狗、あこぎな政治屋でないかぎり。

一休和尚となじみになった地獄太夫も、自らを地獄と名乗ることによって、彼女自身の罪を担おうとした。一休はそうした彼女を、「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうだ。しかし、一休は現実に彼女を解放することはできなかった。そんな言葉だけの慰めが何になる。

遊女の隣にあって、一休和尚が骸骨の上で踊っている姿は、すべての人間の真実の姿である。骸骨が、肉と皮を着て、酒を食らい宴会で踊っている。仏教ではこんな人間界を娑婆とも呼んでいる。

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マディソン郡の橋(2)

2005年12月07日 | 文化・芸術
 

 

小説や映画や演劇では、思想や哲学と異なって、感覚によって捉えられることのできる具体的なイメージを通じて、具体的な形象を通じて、何らかのメッセージを伝えようとする。このメッセージというのは、少なくとも何らかの思想であり抽象的なものであって、単に感覚だけではそれは捉えきれない。意識と言語をもって思考し、何らかの観念を捉えることのできる人間だけがこのメッセージを、思想を捉えることができる。

この作品では、フランチェスカとキンケードが出会ったのは一九六五年の夏で、場所はアメリカ中部のアイオワ州のマディソン郡ということになっている。映画もそのように舞台が設定される。こうした具体的な舞台設定の上に、登場人物の言葉と行動の全体によって作者のメッセージが伝えられる。

このドラマが伝えようとしているメッセージとは何か。それは、彼らがはじめて夕食をともにして、キンケードがアフリカでの撮影体験をフランチェスカに得意げに語って聞かせている場面で「自然には課せられた道徳はない。それが美しい」と言っている。おそらくこれが、この作品の、原作者の、あるいは監督としてのクリントイーストウッドの主題だったのだと思う。

この映画の標題にもなっているように、橋はこの物語の象徴として用いられている。屋根つき橋が──これは実在する橋らしくてローズマン橋というらしい──がこの物語の象徴としての役割を果たしている。橋はいわば、河川の両岸をつなぐものである。その意味で、人間もまた本来、人類として同じ一つの実体であったものが、男性と女性に分かれ、それが再び、恋愛において、性関係において出会い一体化するのである。キンケイドとフランチェスカは、彼らの人生の中でこの出会いのときに、初めてこの一体感を、キンケイドは一心同体といっていたが、経験する。それは自然の持つ生命力の最先端の現象である。だからそれは、豊かな大地の生命力を象徴するアイオワ州の農村地帯の、生命力のもっとも旺盛な夏の出来事として描かれる。

しかし、一方で個人はまた人間として、人類として、社会的な倫理的な存在である。だから、いくらキンケードが芸術家気質のデーモンな衝動に駆られて一ヶ所に定住できず、家族礼賛のアメリカの保守的な気分に反論しても、彼らの人間的で自然的な本性が完全に解放されることはないのである。この二律背反は人間の置かれた宿命でもある。この二律背反の関係が一方に損なわれたとき、社会の掟によって裁かれる。

特にその共同体が狭く、親密で濃厚なものであればあるほど、掟は強く人間を縛る。彼女の近隣に住む不倫を犯したルーシーが、町の人々の噂によって殺されたように。それは人間の本来的な自然的な生命力を押し殺すものである。

フランチェスカは、それまでアイオワの田舎の農家の主婦として暮らし来た彼女の生活の中で、彼女の自由な自然的な欲求を、家族のために、夫のために子供たちのために、押し殺して生きてきた。それが、キンケードとの出会いによって、たった四日の間だけ解放される。

しかし、彼女のこの解放が、もし、アイオワの農村の単調で狭い家庭生活からさらに完全に解放されるものになったとき、それはもはや、解放でも自由でもなくなってしまうのをフランチェスカは知っていた。なぜなら、キンケードとの一体感、解放感、その自由な意識は、農村の狭い共同体の中での娘や息子や夫との束縛の多い不自由な生活があってこその自由であり、解放であったから。

だから、作中でフランチェスカが言ったように、キンケードとの愛がたとえ純粋で絶対的なものであっても、もし彼女が家族を捨て娘や息子たちと別れるなら、キンケードとの絆も長続きせず消えてしまうのである。だからこそ、フランチェスカはキンケードとの愛の絆をつなぐために、それが真実なものであればこそ彼と別れて残らざるを得ない。矛盾といえば矛盾であるがこれが現実である。

しかも、キンケードとの不倫の秘密は絶対に守らなければならなかった。それが一度明るみに出たとき、キンケードとの愛ばかりでなく、夫との夫婦関係も、思春期の子供たちの心も破壊され、家庭も崩壊せざるを得ない。そのことをフランチェスカはよく知っていた。だから、彼女はキンケードとの「永遠の四日間」を夫の生前のみならず、彼女の生涯の秘密にして置かなければならなかった。そうしてこそ、家族の平和が保たれるのである。だから、彼女の秘密を打ち明けることができたのは、「同病相憐れむ」関係で友情を交わしたルーシーだけだった。

そして、生涯秘密を守り通すことによって、キンケードとの愛の絆も失わず、また、家庭も破壊することのなかったフランチェスカは、それぞれが何らかの危機にある夫婦関係の子供たちに、家族を守った母として、息子や娘たちからもやがて許され理解されるのである。そして彼女の亡骸は遺灰として、キンケードと同じように、二人が出会った橋の上から子供たちの手によって撒かれる。ただ死後においてだけ彼らの一体の愛は成就されるものだったから。

全体的に叙情的な作品であると思う。アメリカ人のもう一つの精神的な一面を知らせる。アイオワの暑い夏の日々も、農村の主婦の官能的な描写も優れている。このフランチェスカの心情と愛の同じものは、わが国にも中世の女性、皇嘉門院別当によって歌われている。

 難波江の 蘆のかりねの一夜ゆゑ 身をつくしてや  恋ひわたるべき

カメラの動きも被写体を美しく捉えている。もちろん、アイオワの夏の描写など、芸術作品としての完成度はさらにもっと追求できると思うが。

原作の小説はまだ読んではいない。買った本がどこかにあるのか、それとも買おうと思っていただけなのか。それもはっきりしないほど、昔に気にかかった映画である。また、機会があれば原作も読んでみたいと思う。いつのことになるかわからないが、いずれによ、ようやく映画は見終えたという気がする。

 

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マディソン郡の橋(1)

2005年12月07日 | 文化・芸術

(1)

この映画が封切りになったときに、見ようと思っていたのが、機会を失ってしまい、今日までいたったものである。なぜ見たいと思ったのかよくわからない。
この間たまたまビデオが手に入ったので、ようやく見ることができた。この映画の製作日は一九九五年であるので、すでに十年が経過してしまっている。原作も読もうと思って買って置いたはずなのに、そのことすらすっかり忘れてしまっているほどの昔のことになっている。

主演のクリント・イーストウッドは私たちの世代ではテレビ番組の「ローハイド」でなじみになった俳優として知られている。彼もその後は「ダーティ・ハリー」などその他のハードボイルド風の映画や西部劇で活躍していたようだが、あまり興味も持てず、私はほとんど見たことがない。


この映画は作家ロバート・ジェームズ・ウォラーのベストセラー小説を映画化したものであるという。主題は男女の愛である。ただ、普通の恋愛映画と違う点は、中年の男女の愛を描いている点である。男は離婚の経験者であり、そして、女の方には夫と娘と息子がおり、彼女は普通の家庭の主婦である。だから、当然に彼らの愛は不倫の愛である。

 

男は職業がカメラマンで自分の理想を追求して家庭を顧みない、──省みないということではないのだろうが、少なくとも妻にはそのように見られて、結局離婚している。そして、この主人公がカメラの魅力的な被写体を求めて、とある夏にアメリカ南部の州──アイオワ州の田舎町を訪れたことに始まる。そこで、たまたま道を尋ねたのが平凡な家庭の主婦フランチェスカ──彼女はメリル・ストリープが演じていた──だった。夫や子供たちは牛の品評会に彼女だけを残して出かけて、四日間を留守にしていたところから、二人の関係が始まる。


フランチェスカはもともとはイタリア出身の女性で、イタリアに旅行に来ていた夫と恋におち、結婚のためにアメリカにきたという設定になっている。しかし、彼女の幸福な家庭の生活範囲の狭さに、そしてまた、よくできた夫との平凡で幸福な夫婦関係に贅沢な倦怠を覚えていた矢先の出来事だった。


この土地を訪れた、よそ者であるこのカメラマン──キンケイドは、魅力的な被写体として「屋根のある橋」を探し出し、その道案内をたまたま時間に余裕のあった主婦フランチェスカに頼むことから物語は始まる。主婦は、行きずりのこの男に何か運命的なものを感じ、家族が誰もいない彼女一人が留守にしている家にキンケイドを泊める。もちろん、すでにこのこと自体は危険な行為である。実際にフランチェスカは、キンケイドがたまたま、彼女のイタリアの郷里に詳しかった因縁もあって、親しくなり、一晩の床を伴にすることになる。

物語の中には、ルーシーという彼女と同じ町に住む女性で、道ならぬ恋のために小さな町じゅうの噂の種になって、人々からもよけものにされている女性を登場させている。そのことによって、フランチェスカの行為の危険な結果を暗示している。二人の情事が知られれば、たちまち、ルーシーという女性の運命が、フランチェスカの運命にもなるのである。


この物語は、キンケイドとフランチェスカのたった四日間の恋が、その遺品の中に残された三冊のノートブックに記録されているのを彼女の死後になって読むことによって、初めて子供たちが知ることになっている。
映画では、すでにすっかり成人した娘と息子の二人が──そして彼ら自身も自分たちの結婚生活や恋愛関係にそれぞれに問題を抱えているが──そのノートブックを読むことによって、平凡な母親であると信じていたフランチェスカの知られざる一面を、四日間の日々を回想することによって知るという構成になっている。特に息子のほうは、父親を裏切った母親の行為を醜いものに思い、なかなか母を許せないでいる。

 

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レンブラントの自画像

2005年11月13日 | 文化・芸術
 


レンブラントは肖像画家としても有名である。それも、自画像を生涯にわたって書き残した画家として。上に掲げたレンブラントのもっとも若き日の肖像も、特に印象に残っている作品の一つである。

若い日に自分の肖像を眺めるということ、青年時代には誰しも鏡に深く見入ったりするものである。自意識に目覚め異性への関心が芽生えると同時に、自己自身への強い関心からナルシシズムに浸る時期だともいえる。そんなときに、特にレンブラントのこの絵もよく見た。彼の肖像画を見ることによって、自分を見つめようとしたのかもしれない。


レンブラントは生涯に多くの肖像画を描いた画家でもあるが、青年時代から晩年にいたるまで自画像に執着するほどに、自分に関心を持ち、自己を見つめようとした画家である。オランダ市民社会の中での画家としての成功の絶頂と、その後の破産による没落、ユダヤ人たちとの交流など、すでにレンブラントは、市民社会の、資本主義社会の浮き沈みを先駆的に体験していたといえる。成功した市民名士たちからの注文によって描いた「夜警」とか「解剖学講義」などオランダの豊かな市民生活の一場面を切り取った作品もある。

 

そうした波乱万丈に富んだ生涯の中でも、サスキアやヘンドリッキェなどの妻をモデルにして官能的な女性像も多く残している。レンブラントは酒と女で人生を享楽している自分の姿を描く一方で、特に「水浴の女」などでは女性の心と肉体のやわらかさと優しさを、池の静謐さのなかに美しく見事に調和して描いている。レンブラントは器量の大きな画家である。

 

また、聖書の中の物語に取材したエッチングの作品も多い。一本一本の躍動したその線の動きは、レンブラントの才能と修行をよく現している。十字架を背負った死の道行のキリスト、十字架を立てられるキリスト、十字架から降ろされるキリストなど。その絵の中に自分を描き込むことによって、キリストに対するレンブラントの立場も明らかにしている。レンブラントの時代となると、キリストもきわめて人間的色彩が濃くなって、文字通り人間イエスが描かれる。イエスの肖像すら描いている。

 

彼の絵画の特徴は、光の取り扱いにある。鑑賞者の視線の焦点に光を当て、そこだけを闇の中から浮かび上がらせることによって、見るものに人物の精神的な内面を映し出そうとする。特に、「ホメロスの胸像を眺めるアリステレス」では、光が当たって金色に輝いている白い豊かな絹の袖をまとったアリストテレスが、盲目の詩人ホメロスの胸像に、静かにその手を置いて、凝視している。印象深い作品である。その個性的なポーズは一度見ると忘れられない。

 

また、「箒を持った少女」という作品では、その絵を鑑賞する者を、あたかも向こう側から、少女が箒をかかえながら凝視しているように描かれている。ただ、眼だけはレンブラントの眼をして見つめている。それにしても、これらの作品にはなんとも言えない甘美さも漂っている。それは画面の全体としての暗色の中に、レンブラントが目立たず散りばめた色彩の輝きから来るのかもしれない。

 

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今日は中秋の名月

2005年09月27日 | 文化・芸術
 

 

今日は中秋の名月。しかし、今宵秋の夜空には月の面影はない。


中秋の名月で思い出すのは、かぐや姫のこと。かぐや姫の淋しさ。かぐや姫は、月を見ては泣いていた。翁が姫に月を眺めるなとどんなにいくら言い聞かせても、言うことを聴かない。そして、とうとう今日の八月の十五日になると、もう人目もはばからず激しく泣く。そして、姫がこの世の住人ではなく、月の都に父も母もいると言う。それでも、かぐや姫はすっかり月の世界の父母を忘れて、長年慣れ親しんだ翁、嫗との別れを悲しむばかり。

 

かぐや姫は竹取の翁によって、竹筒の中から発見された。それからというもの、竹取の翁は竹の節々に黄金を見つけて、見る見るうちに富んでいった。そして、この愛らしい女の子は、たった三月の間に、竹のようにすくすくと成長して立派な女性になった。翁も姫を手塩にかけて育てた。

 

その容貌があまりに美しかったので、世間の男は身分の高いものも低いものも、こぞってかぐや姫に求愛した。しかし、かぐや姫は並みたいていの愛情では男たちの求愛に応じようとはしない。かぐや姫に求愛する五人の貴公子たちの言動は、色と欲に溺れる男たちの真実をユーモラスに伝えている。


多くの古典作品がそうであるように、この竹取物語は子供が読んでも、老年者が読んでも、それぞれ味わいがある。

 

子供の時に読む竹取物語は、まるでお伽噺のように空想を膨らませることのできる楽しい童話であり、青春期にあるものには五人の男たちの愉快な恋愛譚である。また、ある程度人生の経験を積んだものには、免れがたい宿命を悲しむ人間の、有限性を自覚させられる悲しい物語にもなる。竹取物語もまた、ダイヤモンドのように多様な屈折を内部に照り返す美しい結晶体である。

 

中秋の空に浮かぶ月は、一年のうちでもっとも大きく白く輝く。その季節の夏から秋への移り行きの中で、また、植生が萩やフジバカマやススキなどに変化する中に、秋空に浮かぶ大きく清らかな白い月を眺めて、仏教思想などの影響を受けた古代の貴族たちが、月の世界を浄土とし、地上を穢土と認めたとしても不思議ではない。

 

竹取物語もそうした発想のもとに組み立てられている。後半に至ってかぐや姫を迎えにきた月の都の王と思しき人は、実はかぐや姫が犯した罪のために、この「穢なき所」に流されて来ていたことを知らせる。

 

多くの色好みの男たちの求愛にも難題にかこつけて拒否し、その上、この地上の最高権力である帝の面会の申し出にさえも応じようとはしない。無理やりつれて行こうとすると光になって消えてしまう。かぐや姫は結局この世の人ではないから、どんなに優れた求愛者でも、この世の最高権力者、帝でさえ自由にならない存在である。そんなかぐや姫に翁は、さかしい人情から結婚を勧め、自らの富と出世の欲とも絡んで、かぐや姫に宮仕えさえ勧めようとする。

 

しかし、やがて贖罪も終え今は月に帰るべきときになり、やがて月から姫を迎えに来ると言う。かぐや姫は自分がいなくなることを翁が悲しむことがなによりつらいのである。翁もそんなかぐや姫を失うことは死ぬよりつらいと思っている。
かぐや姫は自分がいなくなることによって、翁や嫗が嘆き悲しむことに何よりも耐えられない。かぐや姫がもっともつらいのは、姫自身が取り去られる辛さよりも、自分がいなくなって、翁や嫗が嘆き悲しむことである。

 

それを伝え聞いた帝は、少将高野を勅使に遣わし、六衛府の侍たちにかぐや姫の身辺を厳重に守らせる。何千人にも上る兵士たちがが塀や甍の上でそして、部屋の前にも中にも蟻の這い入る隙もなく防備し、女房たちもかぐや姫をしっかりと抱きかかえている。このあたりの物語の描写は簡潔で見事である。それでも、かぐや姫は知っている。どんなに厳重な防備も効き目のないことを。どんなに翁が強がって見せても、無駄であることを。

 

そうしているうちに、とうとう天空から人が雲に乗って地上五尺ばかりのところに立ち連なって来る。それを見た兵士たちはすっかり腰を抜かして、呆然とし、痴れ者のようになってなすすべもない。

 

こうした簡潔で見事な描写は仏教経典の菩薩の来臨の描写の影響も当然にあるのだろう。ヨハネ黙示録の天上の礼拝の描写も思い出させる。むしろ、竹取物語は、仏教の経典や仏教説話などの発展と見るべきなのだろう。だから、その中の王と思われる人の言葉によってはじめて、かぐや姫が何らか罪を作ったがゆえに翁のところに降されたことが告げられる。しかし、罪も償われて、かぐや姫はいよいよ月の都に戻されようとしている。


その土壇場に及んでも、翁は月の都の王に対して、探しに来たかぐや姫は別の姫だとか、病気であるとか言い張る。いよいよ幼き知性の翁は無視されて、「かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。能はぬ事なり。早出だし奉れ」と絶対的な命令でかぐや姫は召し出される。

 

月の都の人には心配事も何一つなく、清らかで老い衰えることもない。月の世界は、人類が追い求めた不老不死の仙境を実現した、言わば、ユートピアの世界である。そんな世界に行くことはかぐや姫には少しも嬉しくはない。むしろ、汚き穢なき所で、老い衰える翁、嫗とそばにいたいという。
ここでは、ユートピアが否定され、色と欲と穢れに満ちた俗世間が肯定されている。人間は結局穢れなきユートピアには住めないのかもしれない。

 

月の都の人は「天の羽衣」と「壷に入った薬」を持ってきていた。その羽衣を着、薬を飲むと、もう人の心は失われ別人のようになると言う。かぐや姫はその事を知っているので、その前に一言帝に書き残しておこうとする。

 

ここに明かに示されているように、かぐや姫が月の世界に取り戻されるというのは、生の世界から死の世界へと移されることである。物語という形式を通じて、人間は死という絶対的な事実の前には完全に無に等しいことが知らしめられる。この死という絶対の有限を前にしては、どんな人間の嘆きも、執着も、富も色欲も、帝王の権力も、いっさいが無に等しいという絶対的な空しさが、物語という涙の教訓を通じて人間に悟らしめられるのである。

 

美しいかぐや姫を主人公とする一見メルヘンを通じて、人間は仏教的な悟りへと、断ち切れぬ富や地位への執着の断念へと導かれる。どんな人間にも絶対的に訪れる親しき人々との別れ、兄弟や両親、妻や夫との別れ、そして、なによりも自分との別れを、そして時にはかぐや姫のようなかわいい娘との別れの辛さへの心構えを、その準備を気づかないうちにさせるのである。これらの別れを前にして、人はかぐや姫のように泣かざるを得ない。

 05/09/18

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裁判官の人間観

2005年07月22日 | 文化・芸術

法の女神

 

近年司法の改革が進められて来た。昨年には裁判員法が公布され、五年以内に裁判員制度が発足することになった。よりよき司法制度に向かっての一歩前進として評価したい。昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、出来うる限りの多くの人の知恵、知識、経験を持ち寄って合議が行われれば、さらにいっそう正義と真実が実現されることになるだろう。市民が公共の問題に関心を持ち、認識を深めつつ公共の精神を培ってゆくのは良いことである。


とはいえ、現在の裁判制度のもとで下される判決の中には、首を傾げたくなるようなものも多い。1997年に神戸でおきたいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」に対する判決もその一つであった。この事件の犯罪者が14歳の少年であったということもあって、この特異な事件は世間の耳目を集めることにもなった。この事件を契機として、ますます凶悪化する少年犯罪にの傾向に対して、少年法の改正にも取り組まれることになった。事件に対しても判決が下されたが、少年は少年院ではなく、医療少年院に送致され、保護処分になることが明らかになった。そのときに、私は何かこの判決に不本意なものを感じたのだが、はっきりしないままに中途に放棄したままだった。


私が感じたそのときの違和感とは、要するにこの判決によっては正義が回復されないのではないかということから来るものである。この判決では、少年は犯罪者ではなく病人として、少なくとも一種の精神的な異常者として取り扱われることになる。しかし、これでは、犯罪と精神病理との区別を解消してしまうことになる。確かに、犯罪は一種の「精神的な病」といえるかも知れないが、しかし、少なくとも犯罪は肉体的な病理現象とは区別されなければならない。実際にこの判決で検討された協同鑑定書においても、少年が「普通の知能を有し、意識も清明で精神病であることを示唆する所見のないこと」を認めて裁判官もそれに同意している。

 

 もともと、犯罪とは精神的な機能においてはまったく「正常」な状態で実行されるものである。そうでなければそれは、もはや犯罪とは言えず、「病気」にすぎない。私には現在の裁判官がどのような人間観、刑法理論に基づいて判決を下す傾向があるのかよくわからない。しかし、裁判というのは、失われた正義を回復することが、根本的な使命である。欧米の裁判所の梁を飾っている、目隠しされた正義の女神の像が手に天秤を握っているのはこのことを象徴している。裁判官が医療者や精神的カウンセラーになってしまっては、裁判は裁判の意義を保てない。

 

 裁判官の中垣康弘判事も、被害女児の両親の「少年を見捨てることなく少年に本件の責任を十分に自覚させてください」ということばを引用し、そして、「いつの日か少年が更生し、被害者と被害者の遺族に心からわびる日の来ることを祈っている」といいながら判決文を結んでいる。ただ、私がこの井垣判決で感じた疑問点は、そこには少年の更正のための配慮はあっても、失われた正義を回復するという、裁判官の ──それは国家の意思でもある──確固とした意思のないことである。犯罪とは国家の法(正義)を侵害することである。そして、犯罪者による正義への、法へのこの不当な侵害については、犯罪者が正当に処罰されることによって、犯罪者に刑罰が課せられることによって、法と正義が回復されるのである。また、犯罪者自身も正しく処罰されることによって人格として尊重されることになる。なぜなら人間の尊厳は意思の自由の中にあるのであり、犯罪者といえども善悪を知る存在であり、かつ、明確に悪を選択し、正義を侵害する選択をしたからである。

 

 神戸児童連続殺傷事件の判決では、女神の天秤は著しく傾いたままで、失われた正義の均衡は回復していないようにも思える。社会と国家の正義は破損されたままである。そして、再び、神戸の犯罪少年の崇拝者が最近になって同じ犯罪を犯した。裁判官は今回の十七歳の少年をどのように処断するのだろうか。

 

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自由とは何か

2005年07月22日 | 文化・芸術

自由とは何か

自由とは、空気のようなものである。それがなければ息苦しくて仕方がない。もし、それがなければ窒息してしまう。だが、それが有り余るほどあっても、そのありがたさに誰も気づかない。

 

自由とは、太陽の光のようなものである。それは闇を照らす。闇の世界が好きな蝙蝠やモグラの嫌うものである。自由の光の暖かさによって、生命は活発に行動し始める。自由のない世界は、氷の星のように、すべてが凍てついた死の世界である。

 

自由とは、水のようなものである。それによって喉を潤すように、精神は自由にあって憩う。水が高いところから低いところに流れるように、自由のあふれる故郷から、水に飢える乾いた砂漠に流れるように、自由を求める国民のもとへ流れて行く。誰もそれを押し止めることはできない。

自由は緑なす生命の大樹。

 

 

 

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概念とは何か①

2005年07月12日 | 文化・芸術

言語学や論理学において、「概念とは何か」という問題を解くことは、すなわち、「概念の概念を明らかにすることは、核心的な課題であると思っている。
もちろん、私たちは、別に、概念の何たるかを特に問題にすることがなくとも、不自由はなく、日常的には自由に思考しながら、さまざまな問題を解決しつつ暮らしている。 」

しかし、少なくとも、言語や思考の本質を明らかにすることを目的とする哲学においては、その中心的な問題が「概念」にあることは言うまでもない。少なくとも、私にとってはそうである。


ここでは、特に二人の思想家の概念論について触れながら、私自身の概念観を深めて行きたいと思う。


一人は、マルクスである。マルクスは「概念」の発生、あるいは形成について、おおよそ、次のように説明している。(今、マルクスの『経哲草稿』が手元にないので、直接マルクスの考えを紹介することが出来ないが、参照出来次第ここに引用するつもりでいる。)「多くの事物を経験的に観察して、たとえば、バラや菊やナデシコなどを見て、それらが、いずれも緑色の葉や茎や根を持ち、また、色鮮やかな花を咲かせ、また、その生育に、光や土壌、空気などの共通の条件を必要としている。人間はこのように、経験を通じて個別的な事物を比較類推しながら、それらに共通の要素を抽出し、抽象化して「概念」を作る。そこから、たとえば「植物」という概念を形成する。」大体、マルクスの概念観はそのようなものであったと思う。そこでは、青年マルクスは概念を思考の形式、あるいは、一般的な表象として理解しているだけである。

それに対して、ヘーゲルの概念観はそこにとどまらない。もちろん、ヘーゲルの概念にはそうした意味も含まれるのであるが、さらに、概念を事物の運動の魂、主体として捉える。この概念観が、多くの唯物論者をしてヘーゲル批判に駆り立てることになった。

ヘーゲルはそうした誤解を招くことを知りながら、──概念について次のように規定している。「概念は自立的に存在する主体的な力として自由なものである」(小論理学§160)ヘーゲル自身がはっきりと述べているように、概念を単に思考の形式、もしくは単なる表象と見る見方は、概念についての低い理解であり、むしろ、概念は、「あらゆる生命の原理であり、したがって絶対に具体的なものである」とされている。おそらくチョムスキーらの生得観念もこうした概念観に共通するものを持っていると思われる。そして、唯物論者は、こうした概念観に異を唱えているのである。

ヘーゲルにあっては、概念は単に形式にとどまらず、同時に具体的な内容でもある。そして、また、ヘーゲルは「絶対者は概念である」と定義する。絶対者が神の論理的な規定であることからすれば、ここでは宗教的な「神」の表象が、「概念」として捉えられている。(小論理学§161参照)

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