秋
久しぶりに散歩に出る。今年はいつまでも暑かった。いや、十月も半ばに入ろうとする今日ですらまだ暑い。それでも高い青空には秋の気配を感じさせる風が吹き、地上の稲田では稲穂はほとんど刈り取られてしまった。仲間に置き去りにされたように所々に曼珠沙華が寂しげに咲いている。
重々しく垂れていた稲穂たちが、お百姓さんたちに残酷にも刈り取られてしまったあとに、彼らに代わって畑に彩りを添えているのはコスモスである。彼女は秋桜とも書く。そんな日本名も悪くはないけれど、原語の意味を生かしたよいネーミングはないものだろうか。宇宙の秩序を連想させるような哲学的にしてなおチャーミングな名前でこの花を呼ぶことができれば、哲学愛好家としてはうれしいけれど、まあ、コスモスのままでもいいか。
去りゆく彼岸花は別名、曼珠沙華。この花がサンスクリット語では「天上の花」を意味するらしいことは昨年に初めて知ったばかりである。その妖しげな赤はいかにも毒にも薬にもなるこの花らしい。
この花が日本の歴史にはじめて登場するのはいつの頃だろう。西行などの歌集にはこの花は登場しないようであるから、当時にはインドからもまだ移植されてはいなかったようだ。しかし、仏教の方はとっくの昔にこの極東の日本にも伝来しているのに、どうして、仏教を代表するようなこの花が一緒に持ち込まれなかったのだろうか。西行たちが生きた平安や鎌倉の時代に彼岸花が咲いていれば彼らが詠み落とすはずはない。調べればわかるのだろうけれども、そこまで関心はない。また何かのついでに知るきっかけもあると思う。
それにしても本当に和歌に合い、日本の秋の風情をよく象徴するのは、やはり秋の七草である。萩、ススキ、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗などのような、淡泊な色彩の花々が日本の秋の夕暮れにはよく似合う。その一つにもこの秋は出会えるだろうか。初秋であればとにかく、晩秋にまで咲き残っているとすれば、彼岸花は少し毒々しすぎるようにも思う。