以前は、「日本酒は辛口に限る」などと生意気なことを言っていた。
確かに、切れはよく、海鮮の味を邪魔することなく、飲むほどにほのかに甘みを感じるのは魅力。
でも別に「限る」必要はない。
出来の良い酒はそれぞれ特色を生かした魅力がある。
この宗玄生原酒。
冷やして飲んでもどっしりと心地よい香り。
しっかりと味がついた煮魚などと相性がいいと感じた。
個人の主観ですが。
温度があがるとまた香りが広がり、楽しませてくれる。
「純米に限る」というこだわりも、べつに「限る」必要はないと感じた。
ひそかに誕生日がやってくる。
骨折し、3か月入院した母親が退院し、療養生活の支援で始まり、
次男の手術立ち合い。
年末年始には自分の検査の日々を経て、想像を超えた大手術を経験した歳だった。
大手術を控えた入院前日、いわゆる最後の晩餐に選んだのは、実家の「唐揚げ」。
自分でも笑えるが、決して特別が欲しくなるわけでもなかった。
そういうものかもしれない。
術後の入院生活、退院後1月の自宅療養、4月からの職場復帰も含め、
毎日がチャレンジであり、ひたすら進歩、の毎日をくりかえし、今日にいたる。
本ががぜん面白い。
読みながら眠くならない。
歩いても、階段を少々駆け上がっても息が上がらない。
もちろん、いまだ不安定な部分も多く、不自由もあったりするが、
改善された部分がうれしい。
さて、今週から始まる次のステージ。
どんな楽しみが待っているのだろう。
心機一転とは、区切りをつけてよい方向に舵を切るようなそんな意味。
ここではそんな大仰なものではなく、新しい年を迎えたし、今日から仕事初めだったし、何か日常に変化を付けたいなくらいの軽い気持ち。
自分の部屋で夜のしじまに浸り、物事を考える時間があってもいいのではないか、どうせ考えるのなら、思うがまま、文章に残してみてはどうか。
そんな程度の話である。
さて、年末に、自分の部屋とか、職場であてがわれている仕事部屋とか、例年より少しだけ丁寧に片付けてみた。
うまく、というか、狙い通りに片付くと居心地が変わる。
頭の中も整理できたような、もっと言えば生活そのものが整ったような、そんな錯覚に陥る。
ところで、この「片付け」。
一言で「片付け」といっても、いろんなポリシーがあるようだ。
自分の場合、作業をするスペースを作ったり、動線を確保したり。
それによって、いかに機能的にモノを配置するか。
ここが最重要ポイントとなる。
「全然片付いてないやん。」
わかってない。
いかにひとつひとつのモノたちが、考え抜かれて、機能的に配置されているか。
それは人にわかってもらうためのことではないのでどうでもいい。
モノを視界に入らないようにどこかへしまう。
そういうポリシーの人もおられる。
そういう人がやる気になって家中を「片付け」はじめると厄介だ。
モノがなくなる。
とは言いすぎだけれど、何をどこへしまったのか、片付けた本人を含めて「わからない」ということがたまに起きる。
こうなるとやっかいで、家中を片っ端から捜索することになる。
捜索の果てにあきらめることも・・・。
目をつぶっても、手を伸ばせば目的のモノが取り出せる、という状態を理想とする自分にとってこれは苦痛であり、ストレスにほかならない。
ただこれはやはり人によってポリシーが異なり、自分も含めて曲げられない世界観の1つなので、安易に修正を求めてはいけないなとも思う。
世の中すべからく、「妥協点をどこに求めるか」。
これこそ究極のコミュニケーション能力ではないかと思うがいかがなものか。
整理整頓。
これをシステマティックに考えると、引き出し単位であれ、部屋の単位であれ、大まかに次の6つのステップが必要となる。
① 今あるものを一旦すべて並べてみる。
② 日常的に使うもの、日常ではないが必要なもの、すでに不要になってしまったもの、取っておいても使うチャンスのないものなど、
レベルの差はあれ、分類してみる。
③ 広い意味で不要と判断したものを容赦なく捨てる。
④ 埃を拭いたり、汚れを取り除く。
⑤ しまう場所を再設計する。
⑥ 優先順位に基づいて配置していく。
①~③が整理。④~⑥が整頓。
とは言いながらこれも時間との闘い。根気との闘い。
しつこいようだが、世の中すべからく、「妥協点をどこに求めるか」。
もしかしたら、生活とは、「妥協点をどこに求めるか」のくりかえしなのか。
生きるとは・・・。
話が長くなった。
この辺で妥協しておきたい。
1.概況
きっとみなさん大変な思いをされているはずなのだけど、被災者の多くの方々が、当然のような顔をして24時間体制で支援活動に就いておられる。そのせいもあって(東北や阪神の時のように街全体が壊滅状態ということではないのでおよそ比較すべき話ではないが)ライフラインや交通機関の復旧は驚くほど早い。
またその反面、個人宅の復旧は立ち遅れている。多くの被災者が、「自分も被災したが、もっと大変な人たちがいる。」と言って避難所ボランティアなどの支援側に回ってしまうためで、熊本学園大学で避難所の指揮を執られている社会福祉学の花田教授によると、「もっと被災者意識を持ってもらわないといけない。自分も支援をうけていい立場なんだと認識していかなければ個人レベルの復興が進まない。」と心配されるほどだ。
ちなみに本学教授で天草に実家のある方によると、「熊本はそういうところ。妙に楽観的というか、自分のことは後回しみたいな気質がある。」ということらしい。
市街地の様子は、写真を数枚ご覧いただく方がわかりやすいかと考える。
水道も電気もガスも回復に至ってはいるものの、水道は地下水から導管していたり、ガスは一部地域またはプロパンガスでの復旧。電気も周辺の被災状況によっては途絶えていたりしてはいる。
2.物資支援と資金支援
その結果、市街地への物流がいち早く回復し、必要物資の運搬が進んでいる。結果、避難所への支援物資も全国から届いており、主だったスーパーマーケットも開店にこぎつけている。これによって不足するものは近くのスーパーに行けば手に入るようになった。
銀行機能も例えば被害の大きい益城町にある熊本銀行益城支店も4月末には営業を再開している。とはいえ、今後不足してくるのはやはり物資より現金、というのが正直な現実として現場の方々から漏れた言葉にあった。
こうした現実が背景にあり、県や市で、いったん支援物資の受け入れを中止するという発表につながったと考える。数多くの支援を経て、ようやく物資の不足は解消されつつあるということ。(もちろんすべての避難所に十分いきわたっているというわけではないが。)
今後、個人レベルで支援を送ろうとする場合、もちろんいろいろな考え方があるが、物資よりも現金、しかもなるべく避難所などに直接届く方法が望まれるのではないかと考える。
3.人手不足の問題
もうひとつの問題は、届けられた支援物資の、各避難所への仕訳と運搬。
熊本市内だけでも、市が把握している避難所だけで257か所もあり、県全体、さらに大分県も含めると相当数に及ぶ。私が訪問した熊本学園大学の避難所では、常時2名の市役所職員が詰めて対応しておられた(うち1名は緊急派遣された名古屋市職員の方だった!)。しかし、全避難所に職員を派遣していては、本来業務がストップしてしまうのも事実。限られた人数の中でどっちも優先させなければならないので、職員の方々も、自宅の被災を抱えながら対応に追われている。つまり、人手が足りない。
一方で、開設されたばかりのボランティアセンターには県外各地から多くのボランティアの方々が訪れているが、仕事を割り当てることができないまま終わってしまったり、県外ボランティアの受け入れをいったん中止してしまったりということが起きている。決してボランティアセンターの不手際などという問題ではなく、ましてや行政の怠慢ではない。
市街地では、先述の通り、すでに被災者を含めた数多くの市民ボランティアの方々が活躍しておられるのも事実だが、熊本学園大学に詰めておられる市職員の話によると、「各避難所の情報収集が追い付いていない」ことが背景にあるという。「市内だと特に東区」。もちろん市外の山間部においては、交通網の復旧も進まず、情報不足が顕著に発生している。「そういう避難所において何が不足していてどんな人材が必要かという情報をつかむための人が一番ほしい。」とは復興にあたり奮闘している市職員として正直な言葉だと推察する。
余震が毎日数回も続く中、容易には山間部へボランティアを派遣できない。仮に余震が落ち着いたとしても地理に不案内な県外のボランティアを役割ごとに配置し、現場へ案内する人手を割けないのが今の熊本の現状なのだと思われる。
がれきの片づけは各家庭で進んではいる。住宅街のあちこちに積み上げられたがれきゴミがそれを物語る。いずれ、家具や家電などの家財道具が流通ベースで不足してくるであろうことは想像に難くない。避難住宅の建築も一斉に進む時が来る。そうなると必然的に建築業者の不足、木材や瓦などの建材不足などが考えられる。もちろんこれらは個人的な支援レベルで解決可能な問題ではない。
4.今後の活動
熊本学園大学のように、スタッフの飲み水が明らかに不足している場合は、今ある水を直接届けることを予定している。送るにあたっては配送料などの資金調達も必要なので、引き続き募金活動は行っていく必要がある。
その後については、定期的に熊本学園大学総務課様を窓口に、刻一刻と変わりつつある現地の情報を得ながら、より現実的で継続的な支援につながるような活動を行っていきたいと考える。
西尾城はもともと鎌倉時代に足利氏3代当主である足利義氏が築城したとされる。
義氏が承久の乱で武功を立てて、吉良荘を支配することになり、西条城を築城した。
西条城という名は、旧矢作川を境に、東側を東条、西側を西条と呼んでいたことに由来する。
義氏の長男が、吉良氏を名乗り、室町時代に西尾という地名が使われ始めたようだ。
以降長く吉良家は続き、かの赤穂浪士の討ち入り後も、
家は改易されたものの再興、存続し、細々と幕末まで続いたらしい。
そこで西尾城。
二の丸に天守を持つという、特殊な構造を持つ。
この、天守と見間違える建物は、本丸の角にそびえる丑寅櫓。そう。やぐら。
とはいえ、内部に入り、階上に上がると、天守に登ったような気分になる。
二の丸跡は、復元の途中で、敷地跡と、天守台までが復元されている。
抹茶と城。そして三河湾を見渡す景色。
西尾市は、一色のウナギだけでない、魅力満載の町でした。
その存在を知ったのは小学生の頃。
しかし、その頃の志段味地区は、山。森。雑木林。
小学生の手におえる地域ではなかった。
最近、宅地造成が進み、そのための再調査や再発掘が行われ、
俄然、全国的に注目を浴びている。
遺物の数々が名古屋市博物館の常設展に加えられたことを知り、
行ってみることに。
ガイドをしておられた方と、守山区の古墳の話で大いに盛り上がり、
志段味大塚古墳はちょうど今、発掘が行われているので機会があればぜひという言葉を受け、
午後から早速行ってみた。
帆立貝式古墳と呼ばれる前方後円墳の一種。
その後円部の発掘現場。
葺石(ふきいし)と円筒型埴輪が確認できる。
さらに前方部を墳丘頂上より。
大正12年に京都大学によって発掘調査が行われ、石室2室が確認された。
その時に、馬具や刀剣など出土したらしいが、現在どこにあるかは不明らしい。
発掘を行っている方々から興味深い話もたくさん聞くことができ、
実に充実した成果を得ることができた。と思う。
今日は仕事を早く切り上げて、灼熱の中、別荘地のような池までサイクリング。
そして散歩。
帰りにナフコで買い物をして、数kgの荷物を背負って帰り道。
パンク。
荷物が重すぎたのか、そもそもの体重が重すぎたのか・・・。
久々にバドミントンでした。
ほんの2時間なのに、これが結構な運動量。
そして今回は、あれ?新顔。
近くで見るとよく知った顔。
ともに少年野球のコーチとして頑張った仲間ではないですか。
奥様もよく知ってますよ。
後で聞いた話では、バド部部長のときちゃんと古いつきあいなのだとか。
ともあれ、多少は減量に役立ったかな。