人は、現実を把握する事が中々出来ない生き物である。
吾は特にそうで、
「こうすれば必ず他人は共感して喜んでくれる」
と思い込んで、他人を不快にさせる事がしょっちゅうである。
此の悪い癖が直らぬ為、人望も無く、人脈も築く事が出来なかった。
本当に、どうしようもないくらいに状況判断が出来ない人間である。
自分ながらに腹が立つ。
吾は、こんな自分自身を呪うばかりである。
だが、こんな自分も本当の自分の或る一面なので受け入れなければならない。
さて、吾と同じ様に現状把握が出来ない独りよがりが世間にはいる様だ。
本当に気の毒である。
其れは、ウクライナに折り鶴を送って癒してさしあげようと意気込む人々がいるのをニュースで知った。
岐阜県揖保川町の某神社の神主さんがウクライナ大使館に送ろうとしたと云う。
千羽鶴を大使館に送って、戦争反対とウクライナ応援の意思表示だったそうな。
だが、やめたと云う。
千羽鶴は、「祈願」「願掛け」の意味も在る。
日本の文化でもある折り鶴の祈願(願掛け)。
此の神主さんは、フランス生活が長く、あの東日本大震災で被災地に千羽鶴が大量に送られて、支援物資の整理の妨げになって被災地を混乱に陥れた事すらも知らなかったそうだ。
其の無知のせいで、今回のウクライナへの折り鶴祈願をしようとしたが、神主さんが立ち上げているFacebookに、「現状を把握しろ!」とお叱りのコメントが殺到して断念した。
多く寄せられた批判に対し此の神主さんは、
「例えば、ご家族の中でウクライナの問題を考えながら鶴を折ることは、『自分がウクライナにいたらどうする?』『お父さんが戦いに行くとなったらどうする?』と想像を巡らせるきっかけになると思います。折り鶴を受け取る外国の方からすれば、『日本の人たちがこんなものを折ってくれたんだ!』と励みになる。日本の文化が持っている大切なことが、必要以上に蔑まれているなと感じます」
云っている事は解るが、此の思い込みが「親切の押し売り」と未だ気付いていないのだろう。
自分が良かれと思っている事が、他人も良いと思っているとは限らない。
ウクライナ大使館も、本当は感謝するのかも知れぬが、態々持って来られたら、中々断り難い。
もっと、思慮深くあるべきである。
折り始めた折り鶴の作業は継続するそうで、旅館に飾るそうな。
「宿に来るお客さんと一緒に、ウクライナの問題を考えるきっかけにしたいと思います」
祈願と云うものは、人知れず行うものである。
神職ならば、神前で唱える祝詞で戦争終結の祝詞をあげて頂きたい。
神主なのだから。
神職ならば、其れ位の事は知っておいて頂きたい。
お次も同様の独りよがりな方が、4200羽もの折り鶴を折って送るのだと云う。
此方は、断念する事はなく送る様だ。
埼玉県行田市の障害者就労移行支援施設「レイズアップ」の利用者40人が折り込んでいると云う。
4200と云う数字は何処から来たのかと云うと、ウクライナの人口だと云う。
一人一人に行き渡る様に送るのだと云う。
だが塚田真帆さん(23)、現状を見て頂きたい。
砲弾や銃弾が飛び交うウクライナの現状を。
地下やシェルターで震えながら、そして渇きと空腹で喘いでいる人々、砲弾や銃撃で怪我を負った人々に鈴付きの折り鶴を届けたところで渇きと空腹、怪我が癒える事は無い。
心も癒えない。
頓珍漢、的外れと云う言葉が在る。
折り鶴の祈願が悪い訳ではない。
ただ、現状にそぐわぬ行動は一向に効果は無いし、他人に負担を掛ける事になる。
塚田さん、吾の様に親切の押し売りをしてしくじらない様にして頂きたい。
前述の神主さんの様に、人知れず願掛けをして頂きたい。
若し吾が冒頭の神主と云う神職ならば、
◯神前(御宝前)又は拝殿の前に日本の日章旗とウクライナの国旗を掲げ、そして千羽鶴を一緒に吊るして、参拝者に祈って頂く
若し吾が後者の塚田さんの立場ならば、
◯募金を募ってウクライナ大使館へ届ける