目紛しい二週間だった。
頭の片隅に置いてはいたが、突然起きると人間は慌てふためいてしまう。
昨日、祖母の病状説明が在った。
主治医は祖母の回復力に驚いていた。
「おばあちゃん、此のお歳で元気になられましたね。普通なら其の儘弱って意識は混濁します。右手足は未だ力強くは動きませんが、ちゃんと動きます。今は高カロリー注射を行ってます。飲み込みですが此処に麻痺は見られません。此れだけの大きな脳梗塞でよく回避したなぁと驚いています。リハビリ次第で食事も出来る様になります。お歳がお歳ですので、何処迄回復するかは何とも云えませんが。此処での急性期治療はほぼ終わります。ご自宅での介護は大変だと思いますので、回復期リハビリテーション病棟を手配してみます。紹介状を書いて数カ所当たって、受け入れて貰えれば良いのですが、高齢ですので断られるかも知れません。回復期リハビリテーション病棟は、将来機能回復し、自宅へ戻れる可能性が在る患者さんが中心ですので断られるかも知れません。1番のネックは、自力で食事が出来るかどうかです。今後も自力での食事が出来ない様であれば、療養型医療施設と云う選択肢も在ります。何れにしてももう少し様子を見ながら、移転先に此方で当たってみます。宜しいですか?」
主治医の方から、何とも心強い言葉を貰った。
悲観的な見解が無かったのである。
吾はもう、主治医にお任せする事とした。
素人が右往左往してみた処で碌な事にはならない。
此処は一つ専門家に任せるのが賢明である。
面談の後、病室の祖母に会いに行った。
丁度ベッドで横になっていた。
普段は自ら起き上がって、窓の外を眺めているらしい。
言葉ははっきり出ないが、看護師さんとは頷いたり、片言の言葉で遣り取りする迄になっていた。
吾が祖母に向かって
「婆さん来たよ」
と声を掛けると、声とも云えぬ声音で応じてくれた。
最初不安だった。
吾を目の前にしても意識朦朧としていて無反応なのではないか…。
だが、吾の呼び掛けや話し掛けに力強く頷いてくれた。
此方の云う事がはっきりと理解で来ていた。
「婆さん、此れからは何も心配要らへんで。俺はちゃんと食事も摂ってるし、仕事も心配要らん。大丈夫や。そろそろ帰るわな。又来るからな」
其れを聞いた祖母は力強く頷きながら手を挙げて答えてくれた。
また泣いた。
涙が溢れて止める事が出来なかった。
婆さんが愛おしかった。
と同時に吾の無能さが腹立たしかった。
婆さんを此処迄追いやってしまったのは、吾の甲斐性の無さが招いたのだと…。
祖母は、今年の10月が来て満100歳になる。
大正、昭和、平成、令和の時代を生きて来た。
10代の頃に嫁いで、姑や小姑の嫌がらせに耐えて4人の子供を育て上げた。
併し、其の連中は祖父母に目もくれず、好き勝手して県外に散らばってしまった。
其れ以来、音信は無い。
吾の母は祖母の長女だが、何処に行ったかは知らぬが野垂れ死んでしまった。
まぁ、此れ等の穀潰しは捨て置いて話を戻そう。
祖母は病気に発症したと云うよりも、肉体の限界が来たと思う事にした。
実際、主治医も同様の事を話しておられた。
婆さん、充分働いて来た。
自分の事よりも、常に他を優先して来た。
此れからは自分の身を案じてくれ。
残された余生は、一緒に穏やかに暮らそう。
祖母から受けた恩は、一生懸けても、否、何度生まれ変わっても返し切れない程の恩を貰った。
吾が出来る恩返しが在るとすれば、此れからの人生を正直に生きる事であろうか。
心配を掛ける生き方だけはすまいと心に誓った。