18世紀、中国文化への憧れが強く、中国絵画や画譜を写した作品が多かった時代、
書を学ぶように山水風景や名所絵の「形を継いでいく」狩野派が主流だった時代に、
実物写生を重んじて「写生画」というジャンルを切り開いたのが円山応挙です。
折しも医学、本草学、博物学など、海外からの実証主義的学問の流入もあり、
実物を正確に写し取る絵画が求められる時代でもありました。
漢詩や漢文の教養がなくとも、見るだけで楽しめる応挙の写生画は多くの人に受け入れられ、
門下生も多く集まって「円山派」が形成されました。
「四条派」の祖と言われる呉春は、与謝蕪村に学び、のちに応挙の画風を学んだことで
応挙の写生画に、瀟洒な情趣を加味した画風を確立したと言われています。
呉春とその門弟たちの住まいが四条にあったため四条派と呼ばれ、
京都の主流派になり、その流れは近代の竹内栖鳳、上村松園へと繋がっていきます。
(参考資料:円山応挙から近代京都画壇へ(図録))
応挙プロデュースの立体曼荼羅とも言われる「大乗寺障壁画」については、また後日。
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