《いじめている君へ》春名風花さん
■君、想像したことある?
ぼくは小学6年生です。タレントだけど、ふつうの女の子です。
今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめてる子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。
いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身(ほしん)のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。
ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪(しゅうあく)なゲームで遊んでいるんだもんね。
ぼくもツイッターでよく死ねとか消えろとかブスとかウザいとか言われます。顔が見えないから体は傷つかないけど、匿名(とくめい)なぶん、言葉のナイフは鋭(するど)いです。
ぼくだけでなく、時には家族を傷つけられることもある。涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります。
けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。
いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力(そうぞうりょく)を持ってもらうことでしか止まらない。
いじめゲームをしている君へ。
あのね。キモい死ねと連日ネットで言われるぼくが生まれた日、パパとママはうれしくて、命にかえても守りたいと思って、ぼくがかわいくて、すごく泣いたらしいですよ。この子に出会うために生きてきたんだって思えるくらい幸せだったんだって。それは、ぼくが生意気(なまいき)になった今でも変わらないそうですよ。
想像してください。君があざ笑った子がはじめて立った日、はじめて歩いた日、はじめて笑った日、うれしくて泣いたり笑ったりした人たちの姿を。君がキモいウザいと思った人を、世界中の誰(だれ)よりも、じぶんの命にかえても、愛している人たちのことを。
そして、その人たちと同じように笑ったり泣いたりして君を育ててきた、君のお父さんやお母さんが、今の君を見てどう思うのか。
それは、君のちっぽけな優越感(ゆうえつかん)と引き換(か)えに失ってもいいものなのか。いま一度、考えてみてください。(はるな・ふうか=タレント)
◇
いま、だれかをいじめている君に伝えたいことがあります。
君は、ひょっとすると、家でつらい思いをしたり、以前に自分自身がいじめられたりして、嫌な経験をしたことがないだろうか。
そのはけ口として自分より弱い相手や、すでにいじめられている友達に対していじめたいという気持ちになっていないだろうか。
私は、仕事で、そういう例をたくさん知っています。
君のような気持ちは、実は、特別なものではありません。その証拠に、いじめは大人たちの世界でもよくあることなのです。
だれかをいじめると、ときには気分がよくなってしまうことがあります。進んでだれかをいじめなくても、いじめる側にいると、自分が安心できる面もあります。
でも、人をいじめることで得られる安心感は、たしかなものではありません。それをやめると、今度は自分が、いじめられるかもしれないという怖さがあります。実際はひどく不自由な気持ちで暮らすことになります。それは、大人の世界もまったく変わり
ません。
だけど、君には、ここで立ち止まって考えてほしい。大人になっても、だれかを傷つけるような人になりたいかどうか。いじめを続けることで、失われるものがたしかにあります。自分自身が大切で、かけがえのない人間であるという自覚が、いちばんに
損なわれます。
もし、それが大事だという感覚を失わずに、本当に自由な気持ちでいたいのであれば、どこかではっきりと気持ちを切り替えて、いじめをやめる勇気を持つことが絶対に必要です。
◇
遊びのつもりが命左右/作家-松谷みよ子
イソップ物語に、子どもにいじめられる池のカエルのお話があります。20年ほど前、いじめで死を選んだ子のことを聞いたときにこの話を思い出し、たまらなくなって詩を書きました。
<どうか石を投げるのはやめてくれ/君たちには遊びでも/私たちには/命の問題なのだから/わたしはいつも/心の中でさけぶのです/どうかやめて おねがいだから/わたしには いのちの問題なのだから>
そのころ、若い女性から手紙をもらいました。妹さんのことがつづられていました。妹さんは同級生からいじめを受けて深い心の傷を負い、こんなメモを書いていた。「わたしをいじめた人たちは、もうわたしを忘れてしまったでしょうね」
涙がこみあげてきました。わたしにもかって周囲の人から自分の生きてきた根っこを否定された経験があったからです。でも、彼らはこのことを案外すぐ忘れてしまっていました。
わたしの痛みはずっと消えなかった。ずいぶんたってから彼らと話す機会があって、つらい思いをさせたなあ、と分かってもらえたとき、やっと少し救われました。
いじめている子に何か感じてほしくて「わたしのいもうと」という作品を書きました。転校していじめられ、学校に行けなくなり、ツルを折り続ける女の子。いじめた同級生がおかまいなしに毎日楽しんでいるのに、ひっそりと死んでしまいます。「あそびたかったのに、勉強したかったのに」と書き残して。
相手がこんなに苦しんでいるというのにどうか気づいてください。そのことが、いじめられている子にとって、少しでも救いになるのです