週末は色々考えていました。
土曜日の午前中、読者の方からメールをいただいたのでね。
ごめんなさいメールでした。
その方がこのブログを読み始めたのは、出生前診断とか震災について私が書き始めてからだそうです。
というわけで検索してみましたが、震災についてはエントリ多すぎるので一つ一つリンクはできません。
出生前診断についての記事、これは私の考え方がよく出ていますね。
どういうことかというと、途中から読み始めたので、私が自分のセミナーにはよこはま発達クリニックの人に来てもらいたくないこととかおそらくその経緯とか知らずに参加していたとのこと。
結局やめるに至ったけれども時期がかぶったのは確かだから、ということでした。
やめた理由は元々違和感を感じていた上に、私が書いたように他になんとかなる方法が見つかったから。
色々あるんでしょうけど、その中には花風社がきっかけになったものもあるようです。
栗本さんのところも行ったとか。それまで小学生なのに肩こりとかあってでも過敏性があるので指圧とかだめだったんだけど、そういう問題が解決していったそうです。
つまり力の出し入れを覚えたということで、親子そろって身体の使い方がラクになったらしい。よかったよかった。
そして「10年目の」で知ったことは、「正解なんてないんだな」ということ。
そうそう。「治る」はアナログなアセスメントの向こうにあるからね。
わかっていただけてよかったですよ。
さて、これを読んで私は考えてみました。なぜ私がよこはま発達クリニックに通っている人に来てもらいたくなかったのか。
それは一種のアレルギーみたいなもんだと思うんですよ。理屈じゃないんですたぶん。
私はフィジカルな面では過敏性も花粉症もアレルギーもアトピーもありません。
逆にそういうのに苦しんでいる人は、私の感知しない何かを感知してそれに反応している。
そして「いいじゃない別にどこに通っていてもセミナーに来てくれるんだったら」とか「そういう人を受け入れなければ」とアドバイスしてくれる人は、アレルギーの人にアレルゲンのあるものを食べろと言うくらい無理強いしているのだとご理解いただければ幸いです。
でもそれには誤解もあったんだなとメールを見て思いました。
この方は面識があるけど、どう見ても「健常者に人権なし」ではない。
私のイメージでは、あそこに嬉々として通っている人は「頑張らなくていい」というちゅん平が最初にうんざりしたお題目を信じて、そして子どもが犯罪起こしても「世間の理解がないから悪い」と言って、被害者が健常者である場合謝罪一つしない、みたいな、そういう親ばかりのイメージでした。
でもこの方はそうじゃないです。全くそうじゃないです。
なんで私がそういう誤解をしていたかというと
通っている以上は嬉々として通っている以外の状態がないからです。私の場合にはね。
私自身は、「違和感があるけど・・・」と思いつつどっかに通ったりしない人だから。
なんだかすっきりしないけど他に頼るところがないから仕方なくとか
「仕方なく何かをやる」っていう時間が限りなく短い人なのですね私は。
だから行っている人は「頑張らせない」も「障害があるんだから犯罪起こしても被害者が我慢せよ」も含めて、心から賛同しているから行っているんだと思っていたのです。だったらそういう人とはつきあいたくないじゃないですか。同じ部屋にいて同じ空気を吸うとかいやじゃないですか。
でもそうじゃないんだな、ということがわかりました。
でもねえ、今はセグメント化時代なのだから
違和感があったらとっとと河岸を変えるか、別の河岸に出張して試してもいいと思いますよ。
うちなんかまず本を読んでみれば、合うか合わないか私と直接顔を合わせる必要なしに確かめられるんだしね。
と思っていたら朝こういう悲惨な記事を読み
ばっかみてえ、と思いました。率直に言って。
勝手に悲惨がってる感じ。
今後このおうちは犬の曲芸に邁進していくんでしょうかね。
それは自己責任だから別にいいけど
応用行動分析をいくら勉強しても、このお嬢さんが抱えている10日間の便秘なんて治りませんよ。
そうしたらご機嫌悪いまんまでしょうね。
まずはラクな身体を作ってあげるという発想の人は、花風社の本を読んでみてください。
土曜日の午前中、読者の方からメールをいただいたのでね。
ごめんなさいメールでした。
その方がこのブログを読み始めたのは、出生前診断とか震災について私が書き始めてからだそうです。
というわけで検索してみましたが、震災についてはエントリ多すぎるので一つ一つリンクはできません。
出生前診断についての記事、これは私の考え方がよく出ていますね。
どういうことかというと、途中から読み始めたので、私が自分のセミナーにはよこはま発達クリニックの人に来てもらいたくないこととかおそらくその経緯とか知らずに参加していたとのこと。
結局やめるに至ったけれども時期がかぶったのは確かだから、ということでした。
やめた理由は元々違和感を感じていた上に、私が書いたように他になんとかなる方法が見つかったから。
色々あるんでしょうけど、その中には花風社がきっかけになったものもあるようです。
栗本さんのところも行ったとか。それまで小学生なのに肩こりとかあってでも過敏性があるので指圧とかだめだったんだけど、そういう問題が解決していったそうです。
つまり力の出し入れを覚えたということで、親子そろって身体の使い方がラクになったらしい。よかったよかった。
そして「10年目の」で知ったことは、「正解なんてないんだな」ということ。
そうそう。「治る」はアナログなアセスメントの向こうにあるからね。
わかっていただけてよかったですよ。
さて、これを読んで私は考えてみました。なぜ私がよこはま発達クリニックに通っている人に来てもらいたくなかったのか。
それは一種のアレルギーみたいなもんだと思うんですよ。理屈じゃないんですたぶん。
私はフィジカルな面では過敏性も花粉症もアレルギーもアトピーもありません。
逆にそういうのに苦しんでいる人は、私の感知しない何かを感知してそれに反応している。
そして「いいじゃない別にどこに通っていてもセミナーに来てくれるんだったら」とか「そういう人を受け入れなければ」とアドバイスしてくれる人は、アレルギーの人にアレルゲンのあるものを食べろと言うくらい無理強いしているのだとご理解いただければ幸いです。
でもそれには誤解もあったんだなとメールを見て思いました。
この方は面識があるけど、どう見ても「健常者に人権なし」ではない。
私のイメージでは、あそこに嬉々として通っている人は「頑張らなくていい」というちゅん平が最初にうんざりしたお題目を信じて、そして子どもが犯罪起こしても「世間の理解がないから悪い」と言って、被害者が健常者である場合謝罪一つしない、みたいな、そういう親ばかりのイメージでした。
でもこの方はそうじゃないです。全くそうじゃないです。
なんで私がそういう誤解をしていたかというと
通っている以上は嬉々として通っている以外の状態がないからです。私の場合にはね。
私自身は、「違和感があるけど・・・」と思いつつどっかに通ったりしない人だから。
なんだかすっきりしないけど他に頼るところがないから仕方なくとか
「仕方なく何かをやる」っていう時間が限りなく短い人なのですね私は。
だから行っている人は「頑張らせない」も「障害があるんだから犯罪起こしても被害者が我慢せよ」も含めて、心から賛同しているから行っているんだと思っていたのです。だったらそういう人とはつきあいたくないじゃないですか。同じ部屋にいて同じ空気を吸うとかいやじゃないですか。
でもそうじゃないんだな、ということがわかりました。
でもねえ、今はセグメント化時代なのだから
違和感があったらとっとと河岸を変えるか、別の河岸に出張して試してもいいと思いますよ。
うちなんかまず本を読んでみれば、合うか合わないか私と直接顔を合わせる必要なしに確かめられるんだしね。
と思っていたら朝こういう悲惨な記事を読み
ばっかみてえ、と思いました。率直に言って。
勝手に悲惨がってる感じ。
今後このおうちは犬の曲芸に邁進していくんでしょうかね。
それは自己責任だから別にいいけど
応用行動分析をいくら勉強しても、このお嬢さんが抱えている10日間の便秘なんて治りませんよ。
そうしたらご機嫌悪いまんまでしょうね。
まずはラクな身体を作ってあげるという発想の人は、花風社の本を読んでみてください。