樹庵のお気楽ナビ

チビデビル ルックと
天使キャラ セントの日記です。

「清らかな厭世」 言葉を失くした日本人へ

2009年09月01日 | 本と雑誌

作詞家の阿久悠先生
(別にご縁はございませんが、私にとって師と仰げる方は先生と呼ばせていただきます)
が亡くなってこの夏で2年が経ちました。

この本は2007年10月初版ですから
その秋には出版されていたものですが、樹庵は何をしていたのか。
この夏、また例によってAmazonをぶらぶらしていて、見つけたのでございます。

芸能人の書いた本とか、話題になりますが、つまらなくて買う気になりません。
これは、もちろん稀代の作詞家の書いたモノですが、
読むまではどこかで芸能人とか芸能界とか、
そういうイメージがあって興味はなかったのです。
つまり芸能界って派手で見かけだけでチャラチャラしてて、
だから作詞家だってやっぱり派手で、売れる詞を書くことだけを考えているような、
そういう人もいると思います。阿久先生もそんなイメージだったんですよね。

ただ、私も末席の方で同じように言葉を生業にしているものでして、
最近特に言葉に対して考えることが多いもので、ちょっとのぞいてみたんです。
そして、びっくりしました。いや、ほんとに。
阿久先生の、言葉に対する真摯さです。(失礼ですよね、こんなこと今頃言うやつなんて)

何当たり前なこといってんのと言われても、
正直樹庵は驚きましたよ。

特に「第2章 たかが言葉されど言葉」はここに全部載せたいほどです。
でもそれもできないのでせめてタイトルを。

エエとかハイとかウンとか 自分で自分に返事する これ 会話かね  
大人ってのはね 会話の中に 擬音を使わないものなのだ   
Vサインが奪った言葉を取り戻すのに 何年かかると思いますか   
フニャフニャのしゃべりを フニャフニャのまま文章にしても 言文一致とはいわない

どれも、ほんと小躍りしたくなるようで(あら?私だけ?)嬉しかったです。
他にも 
選択肢が無数にあるって それはまやかし 選択肢は生きるだけだよ    
若い者はほっといても若者だが 大人は努力なしでは 大人になれない  

などなど。
もし、これを読んで心がふるえた方は、どうぞこの本を読んでみて下さい。


「ファーブル昆虫記の虫たち」

2009年08月12日 | 本と雑誌

今年99歳の熊田千佳慕先生の画集のような絵本です。
絵本好きの樹庵が最近絵本を買ってないなと思っていたんですが、
いきなりこれを5冊買ってしまいました。
3日前にネットで知って、突然買いたくなってね。

原寸と同じ大きさの本だということですが、
ファーブル昆虫記の文章が載ったこの絵を見ていると、
生きてるものが愛おしくなりますね。
もちろん昆虫記ですから、出てくるのは昆虫ばかりですよ。
みんなきれい、美しい。

この本を見ながらふと、
「虫たちの住めなくなった地球に、人間が住めるはずがない」という
養老先生の出てくるCMの言葉を思い出しました。
ミツバチの世界で今、異変が起きています。
アインシュタインも
「ミツバチがいなくなったら人類は滅びる」といいましたよね。

庭の蝉時雨を聴きながら、複雑な思いになる樹庵でした。

熊田千佳慕展が
8月12日から24日まで松屋銀座で開かれています。
9月9日から21日まで京都高島屋でも。
お買い物のついでにご覧下さいまし。


「猫語の教科書」

2009年08月03日 | 本と雑誌

「トマシーナ」に続き、ポール・ギャリコの猫のお話です。

だけどこれはなんかタイトルが違うような気がするんだよなぁ。
いくら「猫の」「猫による」「全国の猫のための教科書」だと言っても、
当の猫は人間のタイプライターを使って打ったというのだから、
猫語で書いてあるとはいいにくいし。
猫語の教科書じゃ、英語の教科書と同じで 
This is a pen. 
みたいなもんじゃないかと思っちゃうじゃないですか。

ところが、目次を見てびっくり。
第1章は人間の家をのっとる方法ですよ、あなた。
Σ(゜Д゜;)
This is a pen.どころではないっす。

第2章人間ってどういう生き物?では
男性については
「男性は、コツさえつかめは、操縦は簡単です。」
女性については
「けっして、(くりかえしますけど)けっして、
男性をおだててモノにする方法を奥さんに使ってはダメ。
うまくいくはずがないんだもの。
なぜなら、奥さんは前から猫と同じ方法で、
ご主人をあやつっているからです。」
でございますよぉ。()

その他、タイトルで面白いのは
第15章別宅を持ってしまったらとかね。 (大笑)

猫は話になるねぇ~。 (・∀・) 


「ターシャ・テューダー 最後のことば 人生の冬が来たら」

2009年07月18日 | 本と雑誌

以前、「ターシャの庭づくり」をご紹介しましたが、
ターシャ・テューダーは去年の6月に亡くなりました。
これは最後のインタビューとのことです。

なんといいましょうか。もう92歳生きるということは、
それも自分がやりたいことを全部やっての92年ですから、
それだけで大変な重みがあるわけです。
もちろん、すべてが最初から上手く行ったわけではありません。
ご長男さんがおっしゃる通り、みんな「隣の芝生」は良く見えるだけで、
彼女も大変なご苦労があったとのことです。
ちなみに、「隣の芝生」は英語では
「Far pastures look greener(遠くの牧草地は緑に見える)」
というのだそうです。

この本で、印象に残ったこと2点。
ひとつは、本の後の方にあるターシャの写真です。
この写真は一部がブックカバーの後ろのページも飾っていますが、見開きで
枯葉のじゅうたんの上を薪を抱えるターシャと、
ターシャのまわりに集まるヤギ達の写真です。
これはもう、なんとも言えないです。
人生の冬支度をするターシャの姿が、どこか神々しくもあります。

もうひとつは、ターシャの言葉のひとつで、
これも本の帯にありますが、本書では
「大切なのは、それを成し遂げるという意志です。
本当に何かをしたいと望めば、きっとうまくいくはずですよ」
です。

ほんとうに望めば、きっとうまくいくはずというのは、
最近樹庵もターシャから見れば相当の若輩ですが、確かにそう思います。
望めばうまくいくなんて、そんなぁ~って思ってはいけません。
大切なのはその前の言葉です。
ほんとうに、望めばです。ほんとうに、です。
これがね、きっとできてないから望んだってうまくいかないんですよ。
ほんとうに望みましょう。

それにしても、私の印象に残った2点は、全部表紙にありました。
きっとこの本の編集者の方と同じように感じたのかもしれませんね。

今回から文字を大きくしました。
今まで小さい文字で見難かった方、ごめんなさいでした。


「トマシーナ」

2009年07月16日 | 本と雑誌

このブログを書き始めた頃、よくご紹介した河合隼雄先生の本の中で、
ポール・ギャリコの「トマシーナ」を知りました。
河合先生は無類の猫好きだったようです。
樹庵も生まれた時から同じ年の猫と過ごしましたから、猫は嫌いではないです。
ここ15年は犬派ですが、
ルッくんの猫への尽きない興味もあって
最近また猫さんたちとの交流も増えています。

マクデュイー氏は、
腕はいいが治すのも早ければ殺す(安楽死させる)のも早いという、
動物に対してさらさら愛情のない獣医だった。
人間に対してさえほとんど心を動かさない彼が、
唯一愛情を注いでいたのが娘のメアリ・ルーだった。
マクデューイ氏が獣医なんてね、だし、
彼の親友が牧師のペディ氏というのも、なんてね、である。
でも、そうじゃなかったらこの話はできない。

娘が可愛がっていたトマシーナを、
マクデューイ氏はろくに手当てもせず安楽死させてしまった。
メアリ・ルーは傷つき、心の中で父親を殺してしまう。
トマシーナは子供達が谷の空き地に作ったお墓に埋められる。
その谷には、「赤毛の悪魔」「いかれたローリ」、
あるいは傷ついた動物を癒すことができ、
天使や妖精と話ができるといわれる若い女性ローリが住んでいた。

…というのが、まあイントロとしては適当かと。

ここから先は、私が笑ってしまったところ。

このトマシーナさん、気位の高い猫で先祖はエジプト出身といわれるが、
トマシーナが死ぬのと入れ替わりにローリのところに現れたタリタという猫は、
いきなり
「わが名はバスト・ラー、ブバスティスの猫の女神。
第12王朝の紀元前1957年、セソストリス1世の御世に、
そして第13王朝においても、わらわはクフ王神殿の女神であった。」

とのたまって、ローリの取り巻きの猫たちをポカンとさせる。

タリタさん、いやバスト・ラーさんはローリを自分に使える巫女だとし、
狭くて小さい小屋を神殿だとし、
今でも十分に神通力が使えると思っているのだが、
どうも時代が変わった感じが否めない。
ローリが危険に向かって出かけていった時、取り巻き猫の1匹がいう。

「いかんな。良くないことが起きそうで、毛がぞわぞわと逆立つよ」
マードックがたずねた
「ローリをどうにか止められないのかい、タリタ?」
「できぬ。」
黄土色の猫は鼻で笑った。
「あんたもたいした神さまじゃねえな、ええ?」
あまりの憤りに、わらわはいっそ泣き伏したかった。
いやしき黄土色の牡猫ごときに、わが栄光を踏みにじられるとは。

最後はめでたしな物語ですが、突然現れ突然去っていく猫の神さま。
河合隼雄先生は、それを
「猫がたましいの顕現として見られることを如実に示していて、
さすがギャリコは上手いなと感嘆する。」

とおっしゃった。
それにしても、神さまも世が変わればいろいろとご苦労なさるのですね。

実はトマシーナを読むのは2回目です。
1回目は去年の春、高度医療センターに入院したイヴちゃんに
毎日面会に行く時に電車の中で読んだのです。
でも、今回読んでまったく新しい話なのでびっくりしたのと同時に、
あの時食い入るように読んだ箇所があるのですが、
それがどこだったのかわからないという不思議な思いをしました。
ローリが瀕死の動物を助ける場面だったのかなぁ。
もしかすると、私はその時そこだけを必死で読んでいたのかもしれません。
イヴちゃん、安らかに。