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Helmut Kentler (2 July 1928 – 9 July 2008)
親のない子供たちを小児性愛者の養子に…
戦後ドイツで行われた「おぞましすぎる試み」
ヘルムート・ケントラーは、ドイツの権威ある性科学者として知られていた。そんな彼が行っていたのは、親のもとで育つことができない少年たちを小児性愛者の養子にするという、国家お墨付きの実験だった──。
少年たちの人生を犠牲にした実験の背景には何があったのか。被害を受けた男性のインタビューを交えながら、米誌「ニューヨーカー」が長編ルポを掲載した。 2017年、ベルリンに暮らすマルコと名乗るドイツ人男性は、幼少期に会った覚えのある大学教授の写真を新聞記事の中で見つけた。最初に気づいたのは、その薄い唇だった。ほとんど見えないほど薄い唇が、子供心にも不快だったことを思い出す。 そして記事を読んだマルコは、写真のヘルムート・ケントラー教授が、ドイツを代表する著名な性科学者であったことを知って驚いた。その「ケントラー実験」に関する調査記事によれば、ケントラーは1960年代後半から、育児放棄された子供たちを小児性愛者の里親のところに送り込んでいたという。 実験はベルリン州政府によって認可され、資金援助もされていた。1988年にケントラーが州政府に提出した報告書には、実験が「完全な成功」だったと記されていた。 マルコは里親の家で育ち、その養父は頻繁にマルコを連れてケントラーの家を訪ねていた。マルコは現在34歳。1歳の娘がおり、育児を中心に日々過ごしている。記事を読んだときのことをマルコはこう話す。 「頭の隅に追いやりました。何も感じないように。そしていつもと同じように何もしなかった。ただ、パソコンの前に座っていました」 日焼けした肌に引き締まったあご、豊かな黒髪、左右対称の面長の顔。映画俳優になれそうなルックスをしたマルコは、大人になってから泣いたことはただの一度しかないと言う。 「もちろん、目の前で誰かが死にそうになっていたら、何とか助けたいと思いますが、そのことで感情的になることはないと思います。自分には壁があるんです。感情は、その壁にはね返されてしまうので」 一緒に暮らす美容師の恋人がいるが、子供の頃のことを話したことはない。仕事もしていない。郵便配達の仕事に就いたことはあるが、数日で辞めてしまった。
なぜならエンジニアだった養父、フリッツ・ヘンケルに似た人に街で遭遇するたびに、自分が本当はこの世にいないような、心臓が止まったかのような感覚を覚え、世界が急に色を失ったように感じるからだ。そんなときはしゃべろうとしても、声がまるで自分のものではないかのように感じられる。
ケントラーの記事を読んでから数ヵ月後、マルコはその記事を書いたゲッティンゲン大学デモクラシー研究所の若い政治学者、テレサ・ネントウィグの連絡先を調べた。そのときは好奇心と同時に、恥ずかしさを感じたという。電話に出たネントウィグに、マルコは名乗った。「(ケントラーの)影響を受けた者」だと。 彼の養父は、ケントラーと週に一度は電話で会話を交わしていた。つまり、心理学者でハノーバー大学の社会教育学の教授だったケントラーは、マルコの理解を超えたところで、本人が思うよりもずっと深くマルコの養育に関わっていたと思われる。 ネントウィグは当初、ケントラーの実験は1970年代で終わったものと考えていた。ところがマルコは、彼が21歳になる2003年まで里親の家にいたと語った。 「すごくショックを受けた」というネントウィグは、マルコから何度となく「僕がこの話をするのは、あなたが初めてだ」と言われたという。 子供の頃、マルコは自分の環境が普通だと思い込んでいた。「こういうことは起こるもの」だと、「世界は、食うか食われるか」だと自分に言い聞かせていた。だが今、彼は「ずっと、政府に監視されていたことに気づいた」という。 それから数週間後、マルコは里親家庭で一緒に育った兄弟のひとり、スヴェンにコンタクトを取った。二人はヘンケルの家で13年間共に過ごしている。マルコはスヴェンのことが嫌いではなかったが、特につながりは感じていなかったと話す。ほとんど、まともな会話をしたこともなかったという。 自分たちが実験対象であったことをマルコはスヴェンに伝えたが、彼はよく理解できないようだった。 「長年ああいう環境にいたことが、僕たちから『考える』という習慣を奪ったのだと思います」
少年たちは、養父から性的な虐待を受けながら洗脳されていた
幼い頃のマルコは、テンプル騎士団のふりをするのが大好きな、活発な男の子だった。時おり保護者なしでベルリンの街に出かけることもあり、1988年、5歳のときに道路をひとりで渡ろうとして車にひかれた。マルコの怪我は軽傷で済んだ。だが幼児がひとりで事故に遭ったことに、ベルリン州管轄のシェーネベルク青少年福祉事務所が目をつけた。
当時のケースワーカーは、マルコの母親が「子供に充分な関心と愛情を注ぐことができていないように思える」と証言している。パレスチナ人難民だったマルコの父親とはすでに離婚し、ソーセージの屋台で働いていた彼女は、自分ひとりでの育児に苦労していた。マルコと兄は汚れた服を着て、毎日11時間も託児所に預けられっぱなしだった。
ケースワーカーは、マルコを「家庭的な雰囲気」の里親に預けることを勧めたという。その際マルコについては、やんちゃだが魅力的で「感化されやすい」と報告している。
当時のケースワーカーは、マルコの母親が「子供に充分な関心と愛情を注ぐことができていないように思える」と証言している。パレスチナ人難民だったマルコの父親とはすでに離婚し、ソーセージの屋台で働いていた彼女は、自分ひとりでの育児に苦労していた。マルコと兄は汚れた服を着て、毎日11時間も託児所に預けられっぱなしだった。
ケースワーカーは、マルコを「家庭的な雰囲気」の里親に預けることを勧めたという。その際マルコについては、やんちゃだが魅力的で「感化されやすい」と報告している。
マルコは、ジュークボックスやその他の電化製品の修理で生計を立てていた47歳の独身男性、ヘンケルの家に割り当てられた。ヘンケルにとって、マルコは16年間で8人目の里子(すべて男児)だった。1973年、ヘンケルが子供を預かり始めた当時を知る教師は、彼が「常に男の子たちに触れようとしていた」と話している。
その6年後、ケースワーカーは、ヘンケルが里子のひとりと「同性愛関係」にあるようだと報告した。だが検察官がそのことについて捜査を始めようとしたところ、ヘンケルの「恒久的な顧問」と称するヘルムート・ケントラーが介入し、ヘンケルを擁護したのだ。このパターンはその後も何度となく繰り返されたことが、800ページにも及ぶ里親としてのヘンケルに関する報告書に残されている。
ケントラーは著名な学者であり、性教育や育児に関する何冊もの書籍の著者であり、ドイツの一流紙やテレビ局でもしばしばコメントが引用されるような人物だった。「ディー・ツァイト」紙はケントラーを「ドイツを代表する性教育の権威」と評している。
そんなケントラーは、ある「研究プロジェクト」を通して知ることになったヘンケルという人物に関する「専門家の見解」を、大学のレターヘッドが付いた便箋にしたためていた。彼は手紙の中でヘンケルの育児法を称賛している。その一方、彼の自宅というプライバシーを侵害して「バカげた解釈」を展開した心理学者を糾弾した。
そうして犯罪捜査は打ち切られた。
その6年後、ケースワーカーは、ヘンケルが里子のひとりと「同性愛関係」にあるようだと報告した。だが検察官がそのことについて捜査を始めようとしたところ、ヘンケルの「恒久的な顧問」と称するヘルムート・ケントラーが介入し、ヘンケルを擁護したのだ。このパターンはその後も何度となく繰り返されたことが、800ページにも及ぶ里親としてのヘンケルに関する報告書に残されている。
ケントラーは著名な学者であり、性教育や育児に関する何冊もの書籍の著者であり、ドイツの一流紙やテレビ局でもしばしばコメントが引用されるような人物だった。「ディー・ツァイト」紙はケントラーを「ドイツを代表する性教育の権威」と評している。
そんなケントラーは、ある「研究プロジェクト」を通して知ることになったヘンケルという人物に関する「専門家の見解」を、大学のレターヘッドが付いた便箋にしたためていた。彼は手紙の中でヘンケルの育児法を称賛している。その一方、彼の自宅というプライバシーを侵害して「バカげた解釈」を展開した心理学者を糾弾した。
そうして犯罪捜査は打ち切られた。
初めてヘンケルのアパートに行ったとき、マルコはすごいと思った。政治家や作家も多く住むベルリンの閑静な住宅街、フリーデナウの目抜き通りに面した古い建物の3階にあったそのアパートには、5つの寝室があった。そこにはすでに16歳と24歳の里子が住んでいたが、2人とも特にマルコに関心は示さなかったという。
それよりもマルコが嬉しかったのは、廊下の隅に置かれたケージにいた2匹のウサギと遊んだり、世話をできることだった。ヘンケルは、青少年福祉事務所宛ての報告書に、当時のマルコについて「与えられるほとんどのものに対して喜びや興奮を示した」と書いている。
数ヵ月おきに、ヘンケルは自宅から約300キロ離れたハノーバーで教鞭を取るケントラーの元に、子供たちと一緒に車で出かけた。ケントラーにとって、それは子供たちを観察し、「子供たちが自分たちの過去について話すのを聞き、彼らの夢や恐怖、願いや希望を知り、どのように感じ、そしてどのように成長しているのかを確認する」機会だったと書き記している。
ケントラーを訪ねた際に撮られた1枚の写真では、上まできっちりとボタンを留めた白いシャツのポケットにペンを挿したケントラーと、その隣でダイニングテーブルに座り、ボーッとして退屈そうなマルコの姿が確認できる。
マルコがヘンケルと暮らし始めて1年半が経った頃、スヴェンがやってきた。彼はベルリンの地下鉄駅でたったひとり、肝炎でぐったりしているところを警察に発見されたのだ。ルーマニア出身だという当時7歳のスヴェンは、ひとりで物乞いをしていたという。
スヴェンが「おそらくこれまで一度も親と良好な関係にあったことがない」と判断した青少年福祉事務所は、ベルリンで里親を探した。その際、ベルリン自由大学のクリニックの医師らが、「本件のように難しいケースにはヘンケル氏が最適」と推薦した。
それよりもマルコが嬉しかったのは、廊下の隅に置かれたケージにいた2匹のウサギと遊んだり、世話をできることだった。ヘンケルは、青少年福祉事務所宛ての報告書に、当時のマルコについて「与えられるほとんどのものに対して喜びや興奮を示した」と書いている。
数ヵ月おきに、ヘンケルは自宅から約300キロ離れたハノーバーで教鞭を取るケントラーの元に、子供たちと一緒に車で出かけた。ケントラーにとって、それは子供たちを観察し、「子供たちが自分たちの過去について話すのを聞き、彼らの夢や恐怖、願いや希望を知り、どのように感じ、そしてどのように成長しているのかを確認する」機会だったと書き記している。
ケントラーを訪ねた際に撮られた1枚の写真では、上まできっちりとボタンを留めた白いシャツのポケットにペンを挿したケントラーと、その隣でダイニングテーブルに座り、ボーッとして退屈そうなマルコの姿が確認できる。
マルコがヘンケルと暮らし始めて1年半が経った頃、スヴェンがやってきた。彼はベルリンの地下鉄駅でたったひとり、肝炎でぐったりしているところを警察に発見されたのだ。ルーマニア出身だという当時7歳のスヴェンは、ひとりで物乞いをしていたという。
スヴェンが「おそらくこれまで一度も親と良好な関係にあったことがない」と判断した青少年福祉事務所は、ベルリンで里親を探した。その際、ベルリン自由大学のクリニックの医師らが、「本件のように難しいケースにはヘンケル氏が最適」と推薦した。
マルコとスヴェンはそれぞれ異なる役割を担っていた。スヴェンは、従順で愛情深い「良い息子」。一方のマルコはずっと反抗的だったが、それでも夜になり、ヘンケルが寝室に来て抱擁を求めたり、ベッドに入る前に彼が歯を磨くのを待っていたりするときは、それに応じるしかなかった。
「それしか知らないから、受け入れていただけ」とマルコは言う。
「そこで起こっていたことが良いことだとは思っていなかったけど、普通だと思っていました。食べ物みたいなものかなって。食に対してそれぞれ異なる好みがあるように、性に対する好みも違うのかなって」
スヴェンの部屋のドアが開いていて、そこに彼の姿がないときは、何が起こっているのかもわかっていた。ただ、ヘンケルの行為について二人で話すことは一度もなかった。「それは完全なタブーでした」とマルコは振り返る。
ある晩、マルコは台所から持ち出したナイフを枕の下に隠して寝たことがあった。ベッドに近づいてきたヘンケルはそれを見つけると、すぐさま後ずさりしてケントラーに電話をかけ、受話器をマルコに渡したという。
「それしか知らないから、受け入れていただけ」とマルコは言う。
「そこで起こっていたことが良いことだとは思っていなかったけど、普通だと思っていました。食べ物みたいなものかなって。食に対してそれぞれ異なる好みがあるように、性に対する好みも違うのかなって」
スヴェンの部屋のドアが開いていて、そこに彼の姿がないときは、何が起こっているのかもわかっていた。ただ、ヘンケルの行為について二人で話すことは一度もなかった。「それは完全なタブーでした」とマルコは振り返る。
ある晩、マルコは台所から持ち出したナイフを枕の下に隠して寝たことがあった。ベッドに近づいてきたヘンケルはそれを見つけると、すぐさま後ずさりしてケントラーに電話をかけ、受話器をマルコに渡したという。
「壁の後ろに悪魔がいるんだ」と取りつくろおうとしたマルコに、ケントラーは祖父のように穏やかに接した。そして「悪魔などいない」と説得されたマルコは、ナイフをヘンケルに渡したのだった。
マルコの母親と兄は月に1回程度、ヘンケルの家にマルコを訪ねることが許されていた。だが「問題を引き起こす」ことを理由に、ヘンケルに直前にキャンセルされたり、面会時間を予定よりも短くされたりすることが多かったという。面会後にマルコがおねしょをする、学校で集中できなくなる、文字や数字を逆に書くなどの問題行動を示したからだった。
「まるで、何もかもが無意味だと訴えているかのようです」と、ヘンケルは手紙に書いている。そしてケントラーは青少年福祉事務所に対し、「マルコの教育の成功が、母親と数時間過ごすことによって犠牲にされている」と警告した。
一方でマルコの父親は、そもそも会うことを認められていなかった。マルコから父親に殴られたことがあると聞いたと、ヘンケルが報告していたからだ。ヘンケルによれば、マルコは父親をひどく恐れており、「街中でアラブ系の男性に遭遇しただけで、怖いことを想像し始める」ということだった。
マルコの教師らは、週1回2時間の小児セラピストによるセッションをマルコに受けさせることを勧めた。だがヘンケルの束縛がきつく、彼が常に隣室に立ち会って耳をそばだてていたという。
「まるで、何もかもが無意味だと訴えているかのようです」と、ヘンケルは手紙に書いている。そしてケントラーは青少年福祉事務所に対し、「マルコの教育の成功が、母親と数時間過ごすことによって犠牲にされている」と警告した。
一方でマルコの父親は、そもそも会うことを認められていなかった。マルコから父親に殴られたことがあると聞いたと、ヘンケルが報告していたからだ。ヘンケルによれば、マルコは父親をひどく恐れており、「街中でアラブ系の男性に遭遇しただけで、怖いことを想像し始める」ということだった。
マルコの教師らは、週1回2時間の小児セラピストによるセッションをマルコに受けさせることを勧めた。だがヘンケルの束縛がきつく、彼が常に隣室に立ち会って耳をそばだてていたという。
あるとき、ヘンケルの知らないうちにセッションが始まったことがある。それに気づいたヘンケルが部屋に飛び込んできて、セラピストの顔を殴ったことをマルコは覚えている。学校の心理カウンセラーはスヴェンにもカウンセリングを勧めたが、記録によれば、ヘンケルは心理テストを受けさせることさえ拒んだ。
「私のところにいる限りは許さない!」。そうヘンケルは叫んだという。「スヴェンに何か問題があると言いたいなら、私の保護下でなくなってからにしてほしい」(これを聞いたスヴェンは、ヘンケルに「それって僕をよそにやるってこと?」と動揺した様子で尋ねた)。
青少年福祉事務所に宛てた手紙の中で、心理学的評価をしなければならないなら「私の知見以上の洞察は得られないと思われる」から、自分が担当するとケントラーは主張している。
また別の手紙では、ヘンケルは確かに「厳しくて怖い」人物のように見えることもあるが、「単純な人間には、心に深い傷を抱えた子供たちと暮らすことはできないことを考慮していただきたい」と訴えた。「ヘンケル氏が当局から必要としているのは、信頼と保護である」
「私のところにいる限りは許さない!」。そうヘンケルは叫んだという。「スヴェンに何か問題があると言いたいなら、私の保護下でなくなってからにしてほしい」(これを聞いたスヴェンは、ヘンケルに「それって僕をよそにやるってこと?」と動揺した様子で尋ねた)。
青少年福祉事務所に宛てた手紙の中で、心理学的評価をしなければならないなら「私の知見以上の洞察は得られないと思われる」から、自分が担当するとケントラーは主張している。
また別の手紙では、ヘンケルは確かに「厳しくて怖い」人物のように見えることもあるが、「単純な人間には、心に深い傷を抱えた子供たちと暮らすことはできないことを考慮していただきたい」と訴えた。「ヘンケル氏が当局から必要としているのは、信頼と保護である」
マルコが9歳のとき、母親はマルコとの面会時間を増やしてほしいとベルリン地裁に申し立てた。一方で父親は青少年福祉事務所に対し、「なぜ息子がアラブ人としての教育を受ける機会を奪われ、他人の家族のもとで育っているのか理解できない」と訴えた。
父親はまた、「養父の振る舞いを激しく非難した」とケースワーカーは書き残している。だがマルコの母親はすでに「子供の最善の利益に従って行動する」という合意書に署名していたため、決定権は福祉事務所にあった。
審理が行われたのは、マルコが10歳の誕生日を迎える1ヵ月前、1992年3月のこと。判事はマルコと2人きりで話そうとした。だがドアのすぐ外に控えていたヘンケルが、マルコに向かって「脅されたら叫べ!」と言ったという。マルコ自身も発言を指導されていたようだったと語る。
マルコは判事に対し、「パパ」と呼ぶ養父は自分を愛してくれているが、実の両親はそうではなかったと言った。そして判事が今後も母親との面会を望むか尋ねると、「しょっちゅうでなくていい」と答えた。「1年に1回ぐらい」が望ましいとマルコは言い、その場には「必ずパパもいてほしい」と主張した。なぜなら実父を恐れているからで、今はパパがいてくれるおかげで、「たまに夜に怖くなる」以外は安心しているからだと話した。
審理後、ケントラーは判事への手紙に次のように書いた。
「子供の最善の利益のために、今後2年間は、母親も含めた実の家族とマルコの面会を停止することが、絶対に必要だと考える」
父親はまた、「養父の振る舞いを激しく非難した」とケースワーカーは書き残している。だがマルコの母親はすでに「子供の最善の利益に従って行動する」という合意書に署名していたため、決定権は福祉事務所にあった。
審理が行われたのは、マルコが10歳の誕生日を迎える1ヵ月前、1992年3月のこと。判事はマルコと2人きりで話そうとした。だがドアのすぐ外に控えていたヘンケルが、マルコに向かって「脅されたら叫べ!」と言ったという。マルコ自身も発言を指導されていたようだったと語る。
マルコは判事に対し、「パパ」と呼ぶ養父は自分を愛してくれているが、実の両親はそうではなかったと言った。そして判事が今後も母親との面会を望むか尋ねると、「しょっちゅうでなくていい」と答えた。「1年に1回ぐらい」が望ましいとマルコは言い、その場には「必ずパパもいてほしい」と主張した。なぜなら実父を恐れているからで、今はパパがいてくれるおかげで、「たまに夜に怖くなる」以外は安心しているからだと話した。
審理後、ケントラーは判事への手紙に次のように書いた。
「子供の最善の利益のために、今後2年間は、母親も含めた実の家族とマルコの面会を停止することが、絶対に必要だと考える」
ケントラーはまた、マルコは特に、悪い見本となる実家族の男性メンバーとは距離を置くべきだと訴えている。そして父親の話をするときにマルコの気分が変わることを指摘した。マルコの実父とは面識がないにもかかわらず、ケントラーは彼を権威主義的かつ虐待的なマッチョと評している。
ケントラーはまた、身長195センチ、体重100キロのマルコの兄(当時15歳)も好ましくない存在であると考えた。父親と同じような男になろうとしている兄は「力や優位性に関する間違った印象を与える」人間であり、「大男であることに依存している」と批判した。
ケントラーはまた、身長195センチ、体重100キロのマルコの兄(当時15歳)も好ましくない存在であると考えた。父親と同じような男になろうとしている兄は「力や優位性に関する間違った印象を与える」人間であり、「大男であることに依存している」と批判した。
ナチスの亡霊に囚われたドイツで台頭した「性の解放運動」の歪な影
ケントラーの研究とキャリアを形作ったのは、支配的な父親が子供にダメージをもたらすという考えだった。
彼の幼い頃の記憶のひとつ。ある春の日、森の中を父親に追いつこうとして懸命に歩いていた。1983年、そのときのことを育児雑誌に寄稿したケントラーは、「私のただひとつの願い。それは、父に私の手を取ってほしいということだった」と書いている。
だが第一次世界大戦に中尉として従軍した父親は、ケントラーいわく「厳格な教育」を信奉していた。彼の両親が実践していたのは、子供の教育に関する権威でベストセラー本の著者でもあり、「ナチズムの精神的な先駆者」と呼ばれたドイツ人医師、ダニエル・ゴットローブ・モーリッツ・シュレーバーの教えだった。
彼の幼い頃の記憶のひとつ。ある春の日、森の中を父親に追いつこうとして懸命に歩いていた。1983年、そのときのことを育児雑誌に寄稿したケントラーは、「私のただひとつの願い。それは、父に私の手を取ってほしいということだった」と書いている。
だが第一次世界大戦に中尉として従軍した父親は、ケントラーいわく「厳格な教育」を信奉していた。彼の両親が実践していたのは、子供の教育に関する権威でベストセラー本の著者でもあり、「ナチズムの精神的な先駆者」と呼ばれたドイツ人医師、ダニエル・ゴットローブ・モーリッツ・シュレーバーの教えだった。
シュレーバーの教育法は、臆病さや怠惰さ、役に立たない弱さや欲望の露呈を排することで、より健全な人間を育成するということを原則としていた。1858年の著書の中で、シュレーバーは「子供のすべてを抑圧すること。感情の種は、芽吹く前に押さえつけなければならない」と書いている。
子供の頃にケントラーが行儀の悪いことをすると、父親は矯正器具を買うぞと脅した。シュレーバーが子供の姿勢を正し、従順さを育むために考案したものだ。猫背にならないための肩バンド、きちんとあおむけに寝るために胸を押さえつけるベルト、座っている間も常にまっすぐな姿勢を保つよう、鎖骨に取り付ける鉄の棒といった類いのものだ。ケントラーが勝手に話を始めようものなら、父親はテーブルを叩き、「父が話しているとき、子供は黙っているものだ!」と怒鳴りつけた。
1938年、ドイツ各地のシナゴーグやユダヤ人所有の商店、民家がナチス突撃隊によって襲撃された「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」事件が起こったとき、ケントラーは10歳だった。デュッセルドルフで暮らしていたケントラーはその晩、窓ガラスが割れる音で起こされたという。寝室から出ると、寝間着姿の父親が電話をかけていた。
「父のいつもの威圧的で大きな声からわかったのは、誰かがアパート内に侵入したため、警察に電話したということだった」と、ケントラーは1989年の著書『Borrowed Fathers, Children Need Fathers(英題)』で書いている。
子供の頃にケントラーが行儀の悪いことをすると、父親は矯正器具を買うぞと脅した。シュレーバーが子供の姿勢を正し、従順さを育むために考案したものだ。猫背にならないための肩バンド、きちんとあおむけに寝るために胸を押さえつけるベルト、座っている間も常にまっすぐな姿勢を保つよう、鎖骨に取り付ける鉄の棒といった類いのものだ。ケントラーが勝手に話を始めようものなら、父親はテーブルを叩き、「父が話しているとき、子供は黙っているものだ!」と怒鳴りつけた。
1938年、ドイツ各地のシナゴーグやユダヤ人所有の商店、民家がナチス突撃隊によって襲撃された「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」事件が起こったとき、ケントラーは10歳だった。デュッセルドルフで暮らしていたケントラーはその晩、窓ガラスが割れる音で起こされたという。寝室から出ると、寝間着姿の父親が電話をかけていた。
「父のいつもの威圧的で大きな声からわかったのは、誰かがアパート内に侵入したため、警察に電話したということだった」と、ケントラーは1989年の著書『Borrowed Fathers, Children Need Fathers(英題)』で書いている。
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