Laura Antonelli
Venus in Furs
ラウラ・アントネッリ(1941年11月28日 - 2015年6月22日)
『毛皮のビーナス 女芯のいとなみ』 : 監督マッシモ・ダラマーノ、1970年
Venus in Furs (1969 Dallamano film)
Directed by Massimo Dallamano
Laura Antonelli: Wanda de Dunaieff
Régis Vallée: Severin
Loren Ewing: Bruno
Renate Kasché: Gracia
Werner Pochath: Manfred
Mady Rahl: Helga
Giacomo Furia: Lawyer
Directed by Massimo Dallamano
Laura Antonelli: Wanda de Dunaieff
Régis Vallée: Severin
Loren Ewing: Bruno
Renate Kasché: Gracia
Werner Pochath: Manfred
Mady Rahl: Helga
Giacomo Furia: Lawyer
原作:レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ
Leopold Ritter von Sacher Masoch, 1836年1月27日 - 1895年3月9日
『毛皮を着たヴィーナス』(原題:Venus im Pelz)
ウクライナ出身のオーストリアの小説家マゾッホが、
1871年に書いた中編小説。彼の代表作であり、そこには「マゾヒズム」の開花が見てとれる。ポルノグラフィカルな性愛小説とみなされがちであるが、ドゥルーズは本作を「ポルノロジー」という、より次元の高いジャンルで扱うことを求めた
毛皮を着たヴィーナスと戯れる夢をみていた「私」は、来訪していた友人宅の従僕に起こされる。友人であるゼヴェリーンにその奇妙な夢を語りながら、「私」はふと壁にかかっていた絵がまさに「毛皮を着たヴィーナス」を描いていることに気づく。独自の女性観を持っているゼヴェリーンは、粗相をした女中に鞭打とうとすることを制止した「私」に、夢の話への返答として、かつての自分の経験をまとめた原稿を読むことを薦めた。それによれば、
退屈なカルパチアの保養地で過ごすゼヴェリーンは、そこで彫刻のように美しい女性、ワンダと出会った。まだごく若い彼女は未亡人であった。ゼヴェリーンはその美貌と奔放さに惹かれ、またワンダも知性と教養を備えた彼を愛するようになる。自分が苦痛に快楽を見出す「超官能主義者」であることを告白した彼は、ワンダにその苦痛を与えて欲しいと頼む。そして自分を足で踏みつけ、鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれ、とも。はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。そして2人は契約書を交わし、奴隷と主人という関係になる。
「 「私に生殺与奪の権利があるのがあなたに分かるように、もう一つこれと別の書類を作っておきました。そちらの方では、あなたは自殺の決心をしたと声明しているの。だから私は好きなときにあなたを殺しても構わないことになります」
(…)
第一の書類には次のように書かれていた。
「ワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人
並びにゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏の間の契約書
ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏は今日よりワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人の婚約者たることをやめ、愛人としてのあらゆる権利を放棄するものなり。氏はその代わりに、男子としてまた貴族としての名誉にかけて、今後ワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人の奴隷となり、しかも夫人が氏に自由を返還する時期がその期限となるべく義務づけられるものである。(…)」
第二の書類は数語に尽きていた。
「数年来人生とその幻滅に飽みはてて、私はわが価値なき生に自由意志により終止符を打った」
しかしワンダにとって結局それは演技でしかなかった。「奴隷」を連れて旅行した先のイタリアで、ワンダの前に第三の男が現れる。ゼヴェリーンは嫉妬という苦痛に狂いそうになるが、ワンダは再び彼への愛を告げ、第三の男は意中にないと断言した。その翌朝、ワンダの寝室を訪れたゼヴェリーンはいつものようにワンダへ鞭打ちを頼み、縄で縛りつけてもらう。すると突然、そこに隠れていた第三の男が現れる。第三の男は力の限りを尽くしてゼヴェリーンを鞭で打ちつけ、その間ワンダは笑いこけるばかりであった。縄をほどかぬまま、2人は屋敷を出て行く。しばらくしてワンダからゼヴェリーンへ手紙が届いた。そこにある、当時の行いが「治療」であったという文章に、ゼヴェリーンは心から納得するのだった。
原稿を読み終えた「私」にテーマを問われたゼヴェリーンは、「女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかであって、絶対にともに肩を並べた朋輩にはなりえない」という持論を改めて述べるのだった。
ワンダはゼヴェリーンと出会った頃から奔放な女性であるが、サディスティックな人間ではなかった。ゼヴェーリンが「とうとうその足を持ち上げて自分の頸の上にのせ」ると、「彼女はすばやくその足を引っ込め、ほとんど激怒の表情を浮かべながら立ち上が」り、拒絶する。
「 「傲慢になって下さい」と私は叫んだ。「足で私を踏みにじって下さい」
(…)
「私には無理な註文だと思うわ。でも、あなたのために、やってみましょう。なぜって、ゼヴェーリン、私はあなたを愛しているのですもの。これまでどんな男もこんなに愛したことはないほどに」」
しかし、ゼヴェーリンによって「教育」されたワンダは「契約」を結び、ついには彼を愛人である第三の男に鞭打たせるまでサディスティックな人間に変貌する。この「教育」と「契約」こそ、ドゥルーズがマゾヒズムの本質としたものだ。それは、サディズムの本質である「命令」と「破棄」とは全く対照的である。ドゥルーズによれば、マゾッホは「人格的訓育者」であり、マゾヒズムの享受者は専制的な人間を「養成せねばならない。説得し、契約に『署名』させなければならない」のである。つまり、マゾッホの小説には、「悦楽を覚える拷問者」は存在しない。あくまで犠牲者が拷問者を説得し、訓育するのである
Leopold Ritter von Sacher Masoch, 1836年1月27日 - 1895年3月9日
『毛皮を着たヴィーナス』(原題:Venus im Pelz)
ウクライナ出身のオーストリアの小説家マゾッホが、
1871年に書いた中編小説。彼の代表作であり、そこには「マゾヒズム」の開花が見てとれる。ポルノグラフィカルな性愛小説とみなされがちであるが、ドゥルーズは本作を「ポルノロジー」という、より次元の高いジャンルで扱うことを求めた
毛皮を着たヴィーナスと戯れる夢をみていた「私」は、来訪していた友人宅の従僕に起こされる。友人であるゼヴェリーンにその奇妙な夢を語りながら、「私」はふと壁にかかっていた絵がまさに「毛皮を着たヴィーナス」を描いていることに気づく。独自の女性観を持っているゼヴェリーンは、粗相をした女中に鞭打とうとすることを制止した「私」に、夢の話への返答として、かつての自分の経験をまとめた原稿を読むことを薦めた。それによれば、
退屈なカルパチアの保養地で過ごすゼヴェリーンは、そこで彫刻のように美しい女性、ワンダと出会った。まだごく若い彼女は未亡人であった。ゼヴェリーンはその美貌と奔放さに惹かれ、またワンダも知性と教養を備えた彼を愛するようになる。自分が苦痛に快楽を見出す「超官能主義者」であることを告白した彼は、ワンダにその苦痛を与えて欲しいと頼む。そして自分を足で踏みつけ、鞭で打つときには必ず毛皮を羽織ってくれ、とも。はじめはそれを拒絶していたワンダだが、彼への愛ゆえにそれを受け入れる。そして2人は契約書を交わし、奴隷と主人という関係になる。
「 「私に生殺与奪の権利があるのがあなたに分かるように、もう一つこれと別の書類を作っておきました。そちらの方では、あなたは自殺の決心をしたと声明しているの。だから私は好きなときにあなたを殺しても構わないことになります」
(…)
第一の書類には次のように書かれていた。
「ワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人
並びにゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏の間の契約書
ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー氏は今日よりワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人の婚約者たることをやめ、愛人としてのあらゆる権利を放棄するものなり。氏はその代わりに、男子としてまた貴族としての名誉にかけて、今後ワンダ・フォン・ドゥナーエフ夫人の奴隷となり、しかも夫人が氏に自由を返還する時期がその期限となるべく義務づけられるものである。(…)」
第二の書類は数語に尽きていた。
「数年来人生とその幻滅に飽みはてて、私はわが価値なき生に自由意志により終止符を打った」
しかしワンダにとって結局それは演技でしかなかった。「奴隷」を連れて旅行した先のイタリアで、ワンダの前に第三の男が現れる。ゼヴェリーンは嫉妬という苦痛に狂いそうになるが、ワンダは再び彼への愛を告げ、第三の男は意中にないと断言した。その翌朝、ワンダの寝室を訪れたゼヴェリーンはいつものようにワンダへ鞭打ちを頼み、縄で縛りつけてもらう。すると突然、そこに隠れていた第三の男が現れる。第三の男は力の限りを尽くしてゼヴェリーンを鞭で打ちつけ、その間ワンダは笑いこけるばかりであった。縄をほどかぬまま、2人は屋敷を出て行く。しばらくしてワンダからゼヴェリーンへ手紙が届いた。そこにある、当時の行いが「治療」であったという文章に、ゼヴェリーンは心から納得するのだった。
原稿を読み終えた「私」にテーマを問われたゼヴェリーンは、「女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかであって、絶対にともに肩を並べた朋輩にはなりえない」という持論を改めて述べるのだった。
ワンダはゼヴェリーンと出会った頃から奔放な女性であるが、サディスティックな人間ではなかった。ゼヴェーリンが「とうとうその足を持ち上げて自分の頸の上にのせ」ると、「彼女はすばやくその足を引っ込め、ほとんど激怒の表情を浮かべながら立ち上が」り、拒絶する。
「 「傲慢になって下さい」と私は叫んだ。「足で私を踏みにじって下さい」
(…)
「私には無理な註文だと思うわ。でも、あなたのために、やってみましょう。なぜって、ゼヴェーリン、私はあなたを愛しているのですもの。これまでどんな男もこんなに愛したことはないほどに」」
しかし、ゼヴェーリンによって「教育」されたワンダは「契約」を結び、ついには彼を愛人である第三の男に鞭打たせるまでサディスティックな人間に変貌する。この「教育」と「契約」こそ、ドゥルーズがマゾヒズムの本質としたものだ。それは、サディズムの本質である「命令」と「破棄」とは全く対照的である。ドゥルーズによれば、マゾッホは「人格的訓育者」であり、マゾヒズムの享受者は専制的な人間を「養成せねばならない。説得し、契約に『署名』させなければならない」のである。つまり、マゾッホの小説には、「悦楽を覚える拷問者」は存在しない。あくまで犠牲者が拷問者を説得し、訓育するのである
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