寒山は始豊県西方70里の寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、カバの皮をかぶって大きな木靴をはいていたという。拾得は天台山国清寺の豊干に拾い養われたので拾得と称し、国清寺の行者となった。
2人は7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが、豊干は2人を悟りに導いたという。あい交わるようになった2人は国清寺に出入りし、その食事係となって、衆僧の残した残飯や野菜クズを拾い竹の筒にたくわえて食糧とし、乞食同然の生活をした。
時には寺域のなかで奇声、叫声、罵声を発し、時に放歌高吟したり、また廊下を悠々と漫歩したりして、しばしば寺僧たちを困惑させ、寺僧が追いかけると手を打ち鳴らして呵々大笑しておもむろに立ち去ったといわれる。非僧非俗の風狂の徒であったが、仏教の哲理には深く通じていた。
詩作をよくし、ことに寒山は「寒山子詩」と呼ばれる多数の詩をのこしている。寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の再来と呼ばれることがあり、また、師の豊干禅師を釈迦如来に見立て、あわせて「三聖」あるいは「三隠」と称する。寒山子詩を中心に3者の詩を集めたものに「三隠詩集」がある。
(Wik)
寒山は、中国・唐代に浙江省の天台山に住んでいた平民詩人。
寒山には、拾得(じっとく)という友人がいた。
拾得は、天台山国清寺で、食事の労務に従事していた行者(まだ度牒を得ていないため、剃髪の僧となっていない修行者)であった。
両人ともに、氏姓も郷里も明らかでない。
拾得は、国清寺の豊干(ぶかん)禅師が路傍から拾ってきて寺に住まわせたという。
寒山は、始豊県(天台県)の西70里の山中にある寒巌の幽洞に住んでいたので、寒山(子)と号した。
やせこけて、樺皮の冠をつけ、破れ衣に大きな木靴をひきずり、貧窮零落した風狂人のような寒山は、ときどき国清寺に来て食事係の拾得から竹筒に入れておいた残飯を貰っていくが、寺の廊下で大声で騒いだりするので、寺僧が追い払うと、大笑して警句などをはいたりして去った、という。
拾得も、寺の護伽藍神廟に供えた食物が、鳥にあらされるのを見て、食物さえ守れないお前に伽藍が守れるか、と神像を殴り倒したりする奇行で衆僧を驚かせ、「非常の人」と思われ、賢士と称されるに至った。
たまたま、台州刺吏・閭丘胤(りょ・きゅういん)が、頭痛に苦しみ、豊干の治療を受けた時に、豊干から「天台山に寒山文殊、拾得晋賢なる賢者あり」と聞き、みずから登山して国清寺に至り、寺の台所でかまどの火に向って大笑している二人を見て礼拝した。
寒山・拾得は手をとりあって「豊干のしゃべり」と笑い叫びながら走り去り、寒巌の隙間穴に入ってしまったという。
閭丘胤は、僧・道翹(どうぎょう)とともに、寒山が竹木や石壁に書きつけておいた詩200余首を編纂し<寒山子詩集>と名づけた。
この詩集は唐末宋代にかけて、風格の高い隠士の詩として盛んに伝えられ、禅僧の間にも、これを通じて禅の悟境を味わうものが少なくなかった。
北宋時代、天台山では、三賢院があり、虎を従えた豊干と、俗形の寒山・拾得が祭られ、それぞれ阿弥陀仏、文殊菩薩、普賢菩薩の三聖の化現だ、とされていたもので、日本の入宋僧・然(ちょうぜん)、成尋(せいじん)もこれに詣でている。
三賢は水墨画の画題ともなって名品を残している。
三賢の事績を伝えるものに、<寒山詩集>を始め、<宋高僧伝><景徳伝統録><仏祖統紀><天台山国清禅寺三隠集記>など少なくないが、どこまでが史実であるかは分からない。
(アジア歴史事典)
千雲万水間
中唐 寒山
千雲万水の間
中に一閑士あり
白日 青山に遊ぶ
夜 帰りて巌下に睡る
倏爾として春秋を過り
寂然として塵累無し
快よき哉 何の依る所ぞ
静かなること秋江の水の若し
(千層にも重なった雲、万条にも流れる川のあるこの寒山に、のんびりと過ごす一人の隠者がいる。昼は青山に遊び、夜、帰ってからは岩の下で眠る。たちまち歳月が過ぎ去り、ひっそりと静かで、俗世とは縁が切れている。なんと快いことだろう、頼るものの無いことは。心はまるで、秋の大川のように静かである。)
寒山は生没年不詳。詩の内容その他から、中唐ごろの人と見なされる。浙江省の天台山にある国清寺(こくせいじ)に出入りし、数々の奇行で知られた。その実在性は疑わしく、単なる伝説上の人物ともいわれるが、俗世に背を向け自然と一体になって暮らしたその人物像や、禅の影響を感じさせるその詩風は、後世に大きな影響を与えた。『寒山子詩集』二巻がある。これは、寒山が村の家々の壁や山中の木、石などに書きつけた詩三百余編を集めて作ったものと伝えられる
石川忠久「漢詩への誘い 杭州の巻」
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