とりたてて何もない日々のらくがきノート

からだに関することや昭和の懐古、たまに俳句など

「柿熟れて」などの句

2024-11-19 22:02:15 | 日記


10月中頃、体重を測ったら夏前より4kgも落ちていた。やはり
あまりに暑くて食欲不振気味だったからと思ったが、これだと
BMI値が18.7という事になり、低体重とされる18.5未満に迫って
しまっていたので、少し多めに食べたつもりだったが、3日前に
測ってみたら、わずか1kgしか増えていない。
あらら、どうしよう? もう歳だから思ったようにはいかない
みたいである。もっと運動するしか手はないか・・・

さて、もうとうに立冬が過ぎているので、初冬の句を詠まな
ければというところだが、まあ実感的にはまだ秋とも言える
ので、今日は、最近作った秋の季語の句を少しだけ。



柿熟れてインコの籠に夕日影

秋蝶のひとつを追へばふたつめも

稲雀我が家の背戸の溝に来よ

黄落や旧家史跡へ九十九折(つづらおり) 

冬隣三里のツボに指の跡

バブル景気とF1

2024-11-16 22:56:59 | 日記

(↑ロータスホンダ99T フロントもリアもタイヤがハの字に・・・)

この間、スバル360の事を書いたら、そう言えば
1ヶ月前ぐらいに配信サイトで映画「キャノンボール」
を観たのを思い出した。この映画を最初観たのは20代
だったと思う。

それで、昔の事なのでどこで観たのかなどもう忘れたが
オープニングの曲が強く印象に残っていて、それを
聴くためにちょっとだけ観てみようとしたが
なんとズルズル最後まで観てしまった。
エンドロールでNGシーンと言うか、舞台裏みたいなシーン
もあったりで久々に映画で大笑いさせてもらった。

この映画はスター勢揃いで、バート・レイノルズ、ファラ・
フォーセット、ジャッキー・チェン、ロジャー・ムーア、
サミー・デイビス・Jr、ディーン・マーティン、そして
「イージー・ライダー」のピーター・フォンダまで出ている。

この映画の製作は1981年で、私が関東方面の安アパートに
住み始めた頃だから、あと数年で世の中はバブル景気に突入
していくという時代である。
バブルの頃は、私などヒラはそういう事などないが、部長など
のデスクには証券会社からの勧誘の電話がしょっちゅう掛かって
来ていた。そうした電話が煩わしかったのか、わざと女性社員に
替わりに出てもらったりしていた上司もいた。

そして、昭和も末期の1987年から中嶋悟さんがF1フル参戦と
いう事で大変なブームになったが、私もF1中継のTV放送は
欠かさず観て、その上必ずVHSのビデオデッキ(古!)で録画
していたものだ。また中嶋さんで今でも思い起こすシーンは
1989年最終戦、大雨のオーストラリアGPでファステストラップを
記録した時のことだろうか。

上の写真のロータスホンダは、たぶん30代前半の頃作ったもの
だと思う。よくもほぼ無事で押入の隅に残っていてくれたものだ。

中嶋さんがF1を引退してから、だんだんとTV中継にも熱が入らなく
なって来て、次第に観なくなった。思えば引退が1991年だから、
バブル景気と中嶋さんがF1で活躍した時期が、ほぼ一致している
ことになる。
私は、バブル景気など自分には何の関係もなかったと考えていた
が、F1や中嶋さんなどのおかげで、経済的にではないにせよ
たしかに気持ち的にはそうであった、とも言えなくもないと
今ではそのように思うのである。

叔父が若かった頃の話

2024-11-13 21:04:54 | 日記

(↑香川の漫画から出て来たような山)

私の母親の兄弟は七男三女で、長女で上から6番目で
あるが、今日書くのは5日に載せたショートショートの
モデルになってもらった「治」で、一番末の弟の叔父の
ことである。

高齢者にありがちな腰や膝が少し悪いが、元気で今年
85歳になられた。上の男兄弟が次々先に都会へ出て
行ってしまったので、選択の余地なく母親の実家を
継がざるを得なかった人である。

昔、祖父は毎日晩酌をしたらしいが、祖母が一升瓶を
買っておくとどうしても飲み過ぎるということで
叔父が中学・高校生の頃、自転車で10分ぐらいの
距離ではあるが、毎日夕方になると酒屋へ酒を2合だけ
買いに行かされていたらしい。これは当人にとって随分
面倒な用事だったらしく、祖父が亡くなった後でも他に
言う人がいないのか、愚痴というか文句を聞かされたもの
だ。

それで、伯父の一人に商売に手を出しては失敗し、という
のを繰り返していた人がいて、祖父母も当然あおりを受け
て、その時高校生だった叔父は小遣い銭のために、すでに
結婚してまだ事務員をしていた母親の会社を訪ねてきた事
が、度々あったそうだ。
叔父は就職してもしばらくは、給料をほぼ全額祖母に渡し
ていたらしい。何もこのことは聞かされたことはないが、
兄弟の事とはいえ、いくばくか苦労はあったようである。

私がちょっと迷惑だったかなと思うのは、結婚前にデート
なんだから二人だけでどこにでも行けばいいものを、叔父は
なぜか何回か私を引っ張り出して、同行させたことで
お邪魔虫で気まずく感じるのは子供でも同じことである。
(柄にもなく二人だけだと間が持たないとか、恥ずかし
かったりしたのかしらん・・笑)

そして一番私の記憶に残っているのは、なんと言っても
叔父の最初のクルマ、スバル360である。当時としては
画期的な丸っこいフォルムで、軽自動車としてもいい
性能だったらしい。世間では、スバル360をてんとう虫と
呼び習わしたらしいが、叔父は「ケロヨン」と呼んでいた。
私は、この名前の方が雰囲気としてピッタリ来ている
ような気がしてしまう。
叔父が意気揚々と「ケロヨン」を駆って、妻の実家の
ある香川県へのドライブに出かけた時に、私も同乗させて
もらったのを今でもありありと思い出すのである。

ちょっとサツバツとした話が続いたと思ったので、今日は
趣を変えてみたけれど、だからどうしたんだ、みたいな
話になってしまったようだ(笑)





和紙で作られた風船爆弾

2024-11-10 19:49:46 | 日記

(石蕗の花 11月3日 城山公園)

風船爆弾とは、戦争末期に高等女学校の女学生達が和紙を
貼り合わせて作った兵器で、水素ガスで膨らませた
直径10mほどの気球に爆弾を吊して、偏西風に乗せて
飛ばし、約8000km先の米本土を攻撃する、というもの。

この話は本になっていて、実際にこの作業を経験した作家の
髙橋光子さんが中心になり、同級生48人の手記をまとめて
2007年に「風船爆弾を作った日々」(鳥影社)として出版
されている。

攻撃の実施は1944年から翌年にかけて千葉・茨城・福島から
約9300個が放たれ、その内361個が米国で目撃されて、山火事
や死者を出したそうである。

和紙の産地だった川之江町でも風船爆弾作りが命じられ、
町内の紙工場や学校内で、原料の楮(コウゾ)の皮はぎから
始まって、和紙の加工・こんにゃくのりでの貼り合わせ・風船
を膨らませる作業などが女学生達によって行われたらしい。

長時間の労働を強いられた作業場の環境は、気温や湿度など
劣悪なものだったそうで、指に血がにじんて手は荒れ、指紋も
消えてしまうほどだったとか。

私の母親は当時、13歳ぐらいで女学生達より年下だったが、
学年全員が楮の皮はぎの作業を、毎日毎日やらされて、授業
など皆無だったそうである。そして誰か一人さぼり気味の
生徒が見つけられると、全員一列に並ばされて頬にビンタを
くらったらしい。そんなだったから勉強は何にもしてないんよ、
そういう時代だったから、と母親が言うのを半ば呆気に取られ
て、若いとき聞いたものである。

2019年10月に埼玉県の中学校で、髙橋光子さんはこの話の
講演を行い、それを聞いた3年生の女子生徒は「学校で人を
傷つける兵器をつくっていたなんて・・・」と、学びの場が
兵器工場だったことに、とても衝撃を受けたそうである。

伯父の話

2024-11-07 22:26:46 | 日記


火曜日のブログに載せた、昔書いたショートショートの中で
「姉の話では」と出て来るが、この話の元は中支(中国の中部)
で戦死した母親の長兄の伯父がいた部隊の上官だった人が、
戦後すぐの頃、母親の実家を訪ねてきて伯父の最後の様子などを
祖父母に話したのを、母親が祖父母に又聞きしたものである。

もう何年か前に、中支から生還した兵士だった人の手記を
いくつかネットで見つけて読んでみたが、母親から聞いた話と
そっくりそのままの描写があるのを見つけて、ちょっと身震い
がした。

この上官が訪ねてくる前のことだと思うが、中支から
伯父の遺骨を入れてあるらしい骨壺が実家に帰って来た時、
祖母が泣き叫んで骨壺を開ける、と言うのを祖父は押し
とどめて、絶対に開けさせなかったらしい。

後で祖父がひとりの時に、そっと見てみたら中には紙切れが1枚
入っているだけだった、と祖父から聞いた母親がそう言っていた。

伯父は出征前は、酒造会社というか酒蔵で蔵人の仕事をして
いたらしい。母親の記憶では、蔵人のころ自転車の横にくっつけた
リヤカーに酒粕の入った樽をいっぱい積んで、実家に帰って来た姿が
とても印象的だったそうで、忘れられないと言っていた。