とりたてて何もない日々のらくがきノート

からだに関することや昭和の懐古、たまに俳句など

中高時代の風景

2024-12-07 23:22:27 | 日記


もう50年ほど昔の事になってしまうが、どうしてあの
中学、高校の頃(中学は市立、高校は県立)の服装とか
髪の長さとかの規則があれほど厳しかったのだろうか。
「風紀」が乱れる、というのが理由らしいが男子は
中学から高1の終わりまで4年間坊主頭にしていなければ
ならなかったし高2からは髪が伸ばせたが、びんの長さは
耳の穴の位置まで、なんていう今考えると信じられない
規定まであった。

靴下の色も黒か紺の他はダメで、中学の時それしかな
かったからだと思うが、薄い水色の靴下を履いていたら
数学の教師に目ざとく見つけられて
「オイ、○○、なんだ、その靴下は!」
と怒られ、その後授業でもその教師にイヤミな態度を
取られたりしていた。

高校では少しでも規則より髪が伸びていると注意されたし
制服は詰め襟で、当然窮屈なので時々首のホックを外し
がちになるけれど、ある日の美術の授業で教師が教室に
入ってくるなり、
「はい、今、ホック外しとる男子、一人ずつ前に出て来い」
と言って、木槌(けっこう大きめの)で頭を1回ゴンされ
たりしていた(ずい分痛かった)。推測するにたぶんこの
教師は、朝ご飯の時に奥さんと何か口論にでもなって、その
八つ当たりで生徒にそんな事をやっていたのかもしれない。

まあつまりは生徒達に関して、一切個性を封印して学校の
指示通りに従わせる、といった方針だったわけであるが、
しかしちょっとした逸脱も許さず、あまりに細かい事まで
イチイチ規則で縛るのはどうなんだろうと思ってしまう。
大げさにいうとまるで軍隊の兵士のようで、命令通りに動く
同一規格のロボットが扱いやすいごとく、結局は立場が上
の者の管理が容易で楽なようにするための規則だと思わざる
を得ない。

上官の命令一下、敵陣に向かって一団で突撃していく兵士や
戦後の廃墟から国を復興させるための企業戦士には、個性が
あってもらっては迷惑千万だったのだろうが、すでにそういう
時代ではないし、今の若い人一人一人が自由に個性を伸ばし
表現して、どんどん世の中が愉快に進化してゆけばと思うの
は私だけだろうか。

古いPCの話

2024-12-05 23:21:34 | 日記


思い返してみると初めてのPCは、エプソンダイレクトのデスク
トップPCで、OSはWindows Me だった。このOSは安定感がなくて
使い勝手もよくなく、後にWindows2000のPCにした時にやっと
これで安心してPCが使えるなと思ったものだ。

それでメーカー製のPCを買ったのは最初の1台だけで、あとは
色々試行錯誤やちょっとした苦戦もありながら、PCを自作して
使ってきた(自作といってもパーツを組み立ててソフトを入れる
だけ)が、今の2台あるPCは歳のせいか組むのが億劫になってきた
ので、大阪のPCワンズというPC組立専門の店に頼んで組んで
もらったものである。

予備のための1台の方は、最初はLinux系OSのubuntuをやってみ
ようと思って、ある程度はいじってみたが結局は使いこなすまで
は到らず、諦めてしまった。そして一応Windows10を入れておいた
が、10は来年10月でサポート終了なので11にしないと、という
ところだが、11はセキュリティに関するハード的な制約が設け
られていて、8年くらい前のこのPCでは表向きアップデートは無理
なのである。

が・・・、youtubeの「後藤PC塾」というところで、古いPCでも
11に無償でアップデート出来るという方法が紹介されていて、
その通りやってみたら、すんなり11にアップデート出来て
しまった。ついでに9年前に組んでメインで使っていた現在10のPC
もやってみたら、こちらは少し時間がかかったが(何せ元々OSは
Windows7だったので)やっぱり11にアップデート出来てしまった。

これでもう来年にかけてPCを新調する必要がなくなってしまって
おまけに2台ぶんだから結構費用が節約できたことになる。
しかしやってみて、Cドライブに少し余裕がないとまずいかな、
という感じはした。
興味ある方は一度、「後藤PC塾」を覗いてみてはいかがだろうか。

給仕係の時給・冬の俳句

2024-11-30 20:14:51 | 日記

(↑城山公園から観音寺市の伊吹島)

お米が高い。(他の食品も値上がりばかりだが)
今年はお米が異常に不作だったんだろうか? 
そういう話は全く聞いてないが・・・

何ヶ月か前に令和の米騒動とか言うのがあったが、
どうも将来的にお米の値段をつり上げるための
演出というかインボーだったんじゃないかと
思えてきた、のは私だけだろうか?

もう主食がうどん、そば、食パン、パスタ、
イモ、棒ラーメンの無限ループに陥って
しまいそうな雰囲気がしてきたが、とにかく
何とかしてもらいたいものである。

ところで今、103万円の壁とか塀とか時給を上げる
話が世間に出ているが、今までが安すぎたんだから、
一挙に最低2000円にでも2500円にでもして法律で
定めてしまえばいいのである。

因みに、学生の時に中華レストランで給仕係のバイト
をしたがその時給はナント、(それは労働基準法違反
では!?という声が聞こえて来そうだが)
450円・・だった・・ 
16時から21時まで5時間、ひと月に20日働いても
給料は45000円・・・(今の中学生ぐらいがもらう
お年玉より安い? 笑)



という事で、今日は私の好きな冬の俳句をば。


突堤のあをぞら冬に入りにけり 中岡毅雄

月と日の出てゐる野良の十二月 三枝青雲

冬うらら海賊船は壜の中 中村苑子

火のいろのステンドグラス暮早し 田元延代

深鍋のパスタの踊る霜夜かな 栗山政子


根深汁老いてうなづくことばかり 大石白夢

湯豆腐や木と紙の家に住みてこそ 瀧春一

雑炊のほのぼのしさをすすりこむ 松澤昭

どこまでが本当の話おでん煮る 佐々木輝美

焼芋の笛が星座を低くせり 半沢房枝

安政2年の悲恋物語

2024-11-26 21:13:23 | 日記


あまりバカな事ばかり書いていると、怒られそうだが
今日は地元にちょっとだけ縁のある、よさこい節で歌わ
れて誰でもご存知の幕末の土佐で起きた出来事について。

川之江町の八幡神社は国道11号線に沿っていて、この道を
神社から香川県方向へ7、8分も歩いたところに純信堂がある。
ここは今まで前を通り過ぎるばかりだったので、数日前に
行ってみたのである。

お堂自体は小さいもので、周辺も草が蔓延っていてあまり
整備が行き届いているとは言えない感じがして、あの
はりまや橋がガッカリ名所と言われているそうだが、私も
少なからずガッカリしてしまった(笑)


純信堂は、高知の名刹五台山竹林寺住職の純信さんが、
お馬さんとの駆け落ちに失敗して土佐藩から国外追放になり、
川之江で地元の顔役の川村亀吉の支援を受けて、寺子屋を
営んでいた跡地に建つお堂である。

この記事を書くに当たってネットをあちこち見て、自分
自身思い違いをずっとしていた事に気付いたことがあって、
それは、はりまや橋の小間物屋でかんざしを買ったのは、
純信さんではなかったということ。

母親の手伝いの雑用で寺に出入りしていたお馬さんに最初
懸想(古!)したのは純信さんの弟子でまだ修行僧だった
慶全で、一時恋仲になったがお馬さんは次第に住職の純信さん
に想いを寄せるようになったそうで、そうすると慶全はお馬
さんに振り向いてもらおうと、今でいう繁華街だったはりまや
橋の小間物屋で衆目も顧みずかんざしを買ってしまったので
ある。

当時、僧侶は妻帯禁止であり、慶全の噂は町中に広まって
それが純信さんの耳にも入り、慶全は寺を追放になる。
それで恨みを持った慶全は、かんざしを買ったのは純信さん
だとふれて回ったそうで、これが藩の耳にも入って純信さん
は謹慎、お馬さんは寺の出入りを禁止になったそうである。

そうして二人はとうとう安政2年(1855年)の5月の深夜
駆け落ちして、一旦阿波(徳島県)に入ったあと琴平の
旅籠にいたところを、関所破りの罪で追手に捕まってしまう。

そして後々まで未練があったのは純信さんの方だったらしく
画家の河田小龍が土佐への帰国途中に川之江に会いに来て
くれた時に、お馬さんへの手紙を託した事もあったらしい。

土佐で純信さんと同時代を生きた人々の一人である武市
半平太(純信さんより10歳年下)は、この安政2年から
6年後の文久元年に土佐勤王党を結成している。
また安政の大獄が始まるのは安政5年からだから、うまく
言うのは難しいけれど、この駆け落ち騒動はこれから世の中
が本格的に動乱の渦に巻き込まれていく直前の、一種の前触れ
というかサインのようなものだったのかもしれない。

(*昨日26日に記事をアップした時に、純信さんと武市
 半平太が同い年と書いてしまいましたが、間違いでした。
 文章を訂正して、お詫び致します。11月27日)


映画館あれこれ

2024-11-22 21:48:00 | 日記

(新居浜市 駅近くの歩道橋から)

昔は映画館もあちこちあったが、現在は住んでいる
ところから一番近いのは、新居浜市のイオンの中にある
TOHOシネマズ新居浜になる。映画はDVDか配信サイトで
観てしまうので、TOHOシネマズで映画を観るのはいつに
なることやら・・・

子供の頃はJR(当時は国鉄)の駅の近くに住んでいた
せいもあるが、歩いて10分以内に2館あった。
幼い時に一番最初に観た映画は、軍艦のシーンがあった
と記憶するので戦争映画か何かだろうと思う。たしか
父親と一緒で映像はモノクロだったような気がするが
内容は何も覚えていない。
ただ、私が時々父親に話しかけると、言下ににべもなく、
いいから黙って観てろ、と何度も言われたのだけは
覚えている。

その軍艦映画から数年して小学4年ぐらいの時に、珍しく
母親が、映画を観に行って来なさい、帰ったらスイカが
あるよ、とか言うのでいそいそ行ったが、あまり面白く
なかったので(たしか黛ジュン主演の映画 すっき~なの
に~~あのひと~はいない~♪の歌手の人)、途中で出て
家に帰って来たら、えらく怒られてしまったことがある。
たぶん何かやる事があったか、一人でゆっくり休みた
かったのではないか。

それから、関東方面に出たばかりの頃、世田谷の千歳
烏山に母方の叔母がいて、小学6年の従兄弟がどうしても
「E.T.」が観たいと言うのですまないが連れて行ってくれ
まいか、と頼まれたのでその時は渋谷の映画館に行った。
その頃は「E.T.」が一大ブームで、あの特徴的な形態の
宇宙人が今でもすぐ目に浮かぶが、頼まれなかったら
映画館まで行って観なかったような気もする(笑)

ここでなぜか、話は学生の時に戻る。
学生の時は福岡にいて、博多駅の中に小さめの映画館が
あったのでよく行っていた。天神のそれより料金が少し
安かったんだと思う。
そしてある日、洋画の恋愛ものの時だったか上映時間を
ちょっと過ぎてしまって、幾分慌てて館内に入り、他の
座席はほぼ埋まっているのに、館内左手の横に8座席ほど
連なった列で、前から3列目には真ん中に男女一組しか
いなかったので、その列の左端に座ったのである。

で、遅れた事もあって映画に集中していると、やおら私
から右へふたつ空席をおいて座っていたアベック(古!)
の男性が、
「おう、ガクセー、靴踏んどろうが!」
と、私におっしゃるのである。
私とそのハチQsun系列らしい人の間には空席がふたつもある
し、そもそも私は自分の足を右側へ伸ばしてなどいない・・・

そう言えば遅れて来て気が急いていたせいで、よく観察して
なかったが、たしかこのハチQsun系列は右手で女性の肩を
抱いて、おのが頭も右へちょっと傾けていたような・・・
そうかあ~、だからこの列は二人だけだったんだ~。他の
人達はハチQsunの雰囲気から察して避けていたわけで・・・

まあ私としても、そうやってインネンを付けられても、座席
を移るにもほぼ空いてないし、当然映画は観たいしで、
「あっ、すいませんっ」と短く応えて、あとは何事もなかった
かのように(決して右の方を見ずに)映画を観つづけたわけで
ある。

誰もそうだろうが、とにかく映画館には数限りなく行って
いるわけで、こうした出来事を書いても、だからそれがどう
したんだよと言われそうな、つまらない話にまた今日もなっ
てしまったようである。