5月にお墓参りに行ってから今日でちょうど2ヶ月になる。私の父親は
五男だったが、父親の長兄の伯父には娘さんが二人しかいなくて
今はどちらも遠方にいるので、生前は父親がお墓を見ていたのだが
亡くなってからは、私が年に数回掃除やお墓参りをしている。
写真は、その伯父のお墓がある丘の中腹から撮ってみた城山で、山の
すぐ向こうは瀬戸内海である。ちなみに丘の登り口には、小さめながら
お稲荷様の神社がある。
それで、お墓はさほど広くもない区画に三基あり、伯父の本家のお墓、
父親のすぐ上の戦死した伯父のお墓、もうひとつはかなり時代を思わせる
風情のお墓で、これは江戸末期の嘉永2年(1849年)に立てられたらしく、
墓石の側面に
「○○豊吉二男 浅造二才 嘉永二年四月十一日」
とあった。可哀想に2才で亡くなったご先祖がいらっしゃったのである。
子供の頃に父親とお墓参りをしていた時には、墓碑銘を見たことなど
全くなく、数年前に自分でお墓を見るようになってから、初めて知って
ちょっとばかり驚いてしまった。ペリー来航がたしか嘉永6年だからその
4年前ということになる。
そして、江戸時代は庶民には名字がないような事を、学校の歴史の時間に
教わったような気がするが、墓碑銘にははっきり名字が刻まれている。
祖父は、父親がまだ物心つくかつかない頃に亡くなっていて、仕事は
桶を作る職人だったそうだが、その何代か前のご先祖は名字を許される
ような人だったんだろうか。それとも教わった歴史が間違っていて、江戸
末期には庶民であっても誰でも名字ぐらいあった、という事かもしれない。
このへんの事は、昔の事を知っている人は周りにはすでに誰もいないので
調べようもないけれど、父親がまだ存命のときに、もっと色々昔話をわずか
であっても、無理矢理にでも聞いておけばよかったとつくづく思った。
それから来月も目茶苦茶暑いだろうが、お盆には気温が上がらないうちの
早朝に、お墓参りに行かせてもらおうかと考えた金曜日の夜である。