デザイン書道講座TAI 筆文字・和店舗デザイン伊豆アートより発信

日本古来の「筆」による文字をデザイン化する「書」の書き方、その法則をアップロード、和の文化・和の店舗に参考にしてください

吊るし雛 和の文化と書道

2016-03-04 08:46:53 | 和 店舗 デザイン 書道

吊るし雛 

   

福岡柳川市に伝わる風習、吊るし飾りで「さげもん」と呼ば伊豆稲取の「吊るし雛」山形酒田市「傘福」があり、子供や孫の成長とその幸せを願ってひとつひとつ作られたもを長く紐でつるされたものです。江戸時代より伝わる風習で、その時代は子供が15歳位までの死亡率は医学が発達した現在比べ、4人にひとりが亡くなっていたと言われていて、753のお祝いなど共に大事な行事でした。もともと奥女中の嗜み教養のひとつとしてとして里帰りを通して庶民にも伝えられた。
柳川、稲取、酒田は港町でもあり観光業が盛んな伊豆ではお正月を過ぎると家庭やホテル、商店街など「ひなの吊るし雛」が飾られてきた歴史があり現在でも100年前のものが保存されているそうです。竹を使った七夕飾りなどもあり四季を通じて作る楽しみと見る楽しさで盛んになっています。東京で開催される古着市にはバスツアーが組まれるほどになっています。つるし雛は、伊豆の稲取温泉が発祥で江戸時代から伝わる、伝統ある風習です。ひな壇飾り京都で生まれた「ひいな遊び」が江戸に伝わって、庶民に定着した「ひな祭り」江戸時代中期には、現在のようなひな壇飾りが、飾られるようになっていました。しかし、雛人形は高価なもので庶民の手には届かなかったのです。そんな時代に、「手作りで子供や孫の初節句を祝おう」という親心から生まれたのが、つるし雛です。はぎれで作った小さな人形やお飾りを竹ひごの輪から赤い糸に下げてつるします。そして、その人形やお飾りには、ひとつひとつ、願いが込められています。つるし雛のお飾りは、桃の節句、もしくは女の子が生まれたときに、親類縁者が作って持ち寄り、雛飾りの代わりとして飾ったり、雛壇の飾りの両側に吊るしたりと、地域ごとに違いがあるようです。また最近では端午の節句や長寿祈願、喜寿、米寿のお祝いとしても、吊るし飾りが用いられます。110種類あります。ひとつ、ひとつ意味があります.

   

 

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日本の言葉と書道 世界の中でも最も難解とされ漢字と日本語は。ドナルド・キーンさんは

2016-03-01 04:06:58 | 和 店舗 デザイン 書道

 

ドナルドキーンさんは著書「私が日本人になつた理由」のなかで「100年先の皆様へ」 

現在の日本とはずいぶん違った国になっているでしょう。今も未来も守るべきものがあります。それは日本語です。100年先には日本語以外の言葉が国際語になっているかもしれません。しかし、日本語こそが日本人の宝物と信じて疑いません。ぜひ守ってください。これこそは私の一番の願いです。   ドナルド・キーン 鬼怒鳴門

うれしい言葉です、キーンさんは90歳を超えてもまだ執筆・講演活動と忙しい日々を過ごしていらっしゃいます。歳を重ねると言葉を見ているだけでその情景が広がっていく、老人がじっと長い時間海を見つめ動かないよう。望郷の念も淡くなり言葉は頭の中で様々な映像がコラージュされていく、若いころ中村くんはひとりしか記憶に出てこないが今は何人もの中村さんが心の中にいます。
中国大陸から持ち込まれた漢字は形を見るだけでだいたいの意味は理解でき、中国・台湾の人とは言葉が通じなくても漢字で筆談でがきます、又英語圏でない国では絵を描いてだいたいの意味を伝えなければいけません。韓国・ベトナム東南アジアの一部でも国がなかったころ漢字を使っていました。国(皇帝)の支配を確立するため漢字から自国の言語つくり、ベトナムは漢字発音をローマ字表記に変えていいます。ローマ字表記の方が漢字より覚えるのに簡単で、ほとんどの国がアルファベット表記を使っています。パソコン入力もひらがなよりはローマ字入力が簡単で普及しています。漢字の進化ともいえるメールにある絵文字は便利で、長い文章を書かなくてもマークを貼るだけでだいたいのことは理解でき、デジタル化が進み漢字が書けなくても認識するだけで深い意味を伝える漢字は限られた画面では特に便利です。将来世界の中漢字表記がで認められるかもしれません。575の俳句はひらがなだけで書かれたものより漢字で鑑賞したほうがだいたいでなく深く広く正しく感情を伝えることができます。


伊豆半島の海岸は砂浜が少なく天城連峰をはじめ山が高く西からの光は山の影になり、綺麗な写真が撮れないので下田の白浜海岸まで足をのばし左の写真は撮ってきました。
下田といえば東急プリンスホテルがありノーベル文学賞の候補でもあった三島由紀夫が毎年夏家族と共に過ごした場所でもあり、1970年の夏最後の作品「豊穣の海」書かれその数か月後自決しドナルドキーンさんはその夏下田に招待され、深く影響をあたえている。
その頃、私は苦学生だつたため初めてのアルバイトが博多東急ホテルでボーイをしていました。従業員のあいだで今度下田に新しくホテルができるので働きに行かないかと募集があり、ホテルでは藤本儀一の司会ワイドショー11PMの中継がありボーイであつた私はサインをもらつたことを覚えている、石原裕次郎などもホテルに来ていて、そのころは若者向け平凡パンチなどが流行し三島由紀夫・イラストレータ横尾忠則・丸山明宏など紙面を飾り三島の死は、自衛官だった父でもあり自分にとりそのニュースは衝撃てきでありました。
又ホテルの従業員は東京の人が多くはじめての東京弁に触れることでもあり時代の風を直接感じた頃でもありました。話が少しそれましたが、ドナルドキーンさんは1922年ニューヨークで生まれコロンビア大学名誉教授、日本とアメリカを長年行き来し日本の文化、芸術、特に日本文学を広く世界に紹介し文化功労者でもあり、東日本大震災後「今こそ日本人とともに生きたい」と日本国籍を取得されています。日々何かと不満をもらす私達、なんと胸に響く言葉でしょう、涙とともに勇気が湧いてきます。
普段、私は本をほとんど読みませんが今回キーンさんの著書を読ませて戴きました。というのもドナルドキーンさんと面識あるというわけではありませんが、あまりにも存在が近くにありふと出会うことがあつたからでもあり、日本語と日本文化について研究されていて「書」に関して参考になりご紹介しました。

枕詞について

和歌に見られる修飾語で5音節からなり歌の意味には直接関係ない事が多いと解釈されていて1100種ぐらいととして存在するとされている。「あしきひの」「むばたまの」など由来、意味の分からないものも多く漠然としたイメージ又その人、時々にて解釈が違つていいような、単語というより音としての響き、ある種のBGM、言葉の飾り・遊びとして理解してもいいのではないでしょうか、楽曲で言う ウォウー イエー ベイビーなどないよりあつたほうがいい 生活の中でも「いや どうも」などの挨拶言葉があります。5音ということは日本語の母音が「あいうえお」の5種で構成されている、為だと思われますがが、日本の文化は「形」「型」からはいることが多く、武道にしろ和の文化教室では入門者は先輩から初歩的な教えを受け又その先輩は古い先輩から難しいことをおそわり、先生が直接初心者に指導することは余りありません、経営的に合理的なようですが、欧米からすると一人の先生から平等に授業料を払った分教わりという納得できる合理性は日本の文化と違いがあります。その型は流派という組織を構成しその上は創始者というシンボルがありさらにその上に神様が現れる、和歌俳句が特に575でなければいけないと思はれますが季語をいれなさいとか枕詞に決まりを作ったり、和様では弓道・花道・茶道にしても決まりごとが型が多い。

飛んで 飛んで

雨あがり 虹に飛びのる 蒼がえる  BY TAI

2015年伊藤園俳句大賞入選作品

    

俳句と言えば松尾芭蕉「奥の細道」・司馬遼太郎「坂の上の雲」に出てくる正岡子規など思い浮かびます。室町時代の頃より武士達は連歌に親しみ公家の間では和歌をエリートの嗜みとして好んでいた、江戸時代には禅語も多く作られ、幕末西郷隆盛をはじめ漢詩の書が多く残されています。太平洋戦争の強い緊張のなかでも漢文などが多く手紙などに残されています。現代でいう広告のコピーは短い言葉に象徴される5・7のリズムで作られることが多い、
話は少しそれますが還暦をすぎ「死」を意識し始めると身の回りのものはできるだけ、残された人へ迷惑をかけたくない理由で少なくしたいものです、私の創作手法は、油絵から始まり樹脂絵具・パステル・書へと無名ながら推移してきました。遊び道具もピアノ・ギターから自然の竹笛ケーナへと変わってきました、何故かというといざとなれば苦労して作った竹笛でも窓から捨てればいいわけですが、ピアノは窓から捨てるわけいかず、処分するのに莫大なエネルギーと費用がかります。数年前展覧会へ出品するため車に乗らないくらいの大きな額を作り展示の後はあつかいに困っていました。額は必要があり注文するときは高額ですがいらなくなるとただのも木片です。その点書道はシンプルですが、先日表具・掛け軸の制作でまたまた荷物がふえてきました、俳句を詠むことは創作の中で道具がなにもいりません、正岡子規のように病床でもできます。自分が楽しく、見る人が感動してくれれば一番いいわけですが、芭蕉のようにはなることもちろん、自分の句さえよんでもらえないでしょう、私もほかの方の俳句はほとんど読みません。ただ一冊だけ縁があって頂いた俳句集「あだたら」柳沼破知浪さん、著書は戦後から35年詠まれ綴られた本で美酒を飲むようにチビチビと拝読しています。

 安土桃山時代織田信長の頃、種子島に伝わった火縄銃の保有率はヨーロッパ諸国よりも多いとされています。機能的殺傷能力は鉄砲の方が「刀」よりはるかに優れているはずなのに、支配者の象徴としての刀を武士達は選択しました。その「型」は元禄300年の長い間読き、広く解釈すれば太平洋戦争まで「漢詩」とともにいきていました。その後刀はより装飾性おび芸術的になつていきますが、銃が改良されたとしても「型」をなすという意味では刀の技・術は優れています。つまりピストルは5歳の子供が引き金をひいても弾は出ますが、刀の扱いには何十年の修行・鍛練を必要とされます、それは新しさより伝統と「型」を選択しています。
徳川家康は関ヶ原の戦いの前多くの書簡を各大名へ書いています、情報の伝達方法は武器とともに重要な手段でありました。筆跡が誰のものか大きな要素になります。和紙が一番「筆」に適していることは間違いありません、ペンに比べ筆のほうが表現方法はずっと豊ですし、古文書でみる崩し文字・御家流には筆が適しています。しかし炭のような鉛筆(ぺん)でもよかったのではないかと私は思うのですが伝統と型が理由とすればあてはまらなくはないと思いますが、ともかく筆の文化「刀」が長く読き、筆でなくてはいけない理由はよくわかりません。そのわりには幕末および第二次大戦敗戦後はいとも簡単に御家流・崩し文字の禁止、筆からペンへ移行しています。忠臣蔵の討ち入りはなんだったのだろうと思います.
話は余談になりますが、私の楽しみのケーナ作りの材料である竹は蓬莱竹といって中国から輸入された一節が長い竹です、火縄銃の火縄に用いられ栽培されたとされていて黄金の竹とも呼ばれています、生息場所少なく伊豆では私の知る限りでは数か所しかありません、探すのに苦労しました、作詞家の阿久悠さんが永く住んだ近くと城跡付近・寺がポイントです。

 

  

 

 

 

 

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