前回に続き、東京・京橋のギャラリー檜で8月29日(月)から 9月3日(土)まで開催されている『Chatterbox Ⅲ』という展覧会のご紹介です。この展覧会は4人の作家の個展形式のグループ展ですが、そのうちの私が画廊に伺った時にお話を聞くことができた二人の展覧会について感想を書いておきます。そのふたつの展覧会というのは「飯沼知寿子展(ギャラリー檜 B)」、「間々田佳展(ギャラリー檜 F)」です。
http://hinoki.main.jp/img2022-8/exhibition.html
この二人の真摯な取り組みを見ながら、モダニズムの芸術を超えて未知の作品と出会う方法について考えてみましょう。
まず「飯沼知寿子展」です。
飯沼さんは、今回の展示に「Noise」というタイトルを付けられました。作家のコメントを聞いてみましょう。
“Noise”は雑音を意味し、必要な情報に対する不要な情報を指す。私の中は常に雑然としていて、整理はままならない。
必要なものは分かっているけれど、何が不要か分からない。そもそも不要なものなんてあるのだろうか。目を背けたいものでさえ今ここにいる私の一部なのに。
私はそれらを抱えたまま進むだろう。
(作家のコメントより)
飯沼さんは、「Noise」のなかから創造的なものが生まれる、という趣旨の、ある思想家の言葉に触発されて、今回の展覧会のテーマを思いついたのだそうです。これはまったく、その通りだと思います。
私なりの下手な解釈を試みてみましょう。ちょっと話が長くなりますが、ご容赦ください。
まずは、今の時代に美術表現を実践するということはどういうことなのか、簡単に考えてみましょう。
「現代」という時代、つまり今の時代のことを思想的な用語で言えば「モダニズム」といいます。この「モダニズム」の思想は科学技術の発展とともにありました。その科学技術の発展は、どのような考え方に支えられてきたのか、と言えば、複雑な自然界の現象の中から、その核となるような単純な要素を見出して、その要素の組み合わせによって自然現象を読み解く、ということを積み上げてきました。そのことによって、複雑に見えた現象が人間にとって再現可能なものとなり、科学技術として利用可能なものとなったのです。
「モダニズム」における芸術も、ほぼこのような合理的な理論によって推進されてきました。例えば絵画であれば、複雑な構図の絵が単純な色や形の積み重ねに置き換えられたり、あるいは単一でマットな色面に還元されたりしてきました。そのことによって現代の絵画は、画面の隅々まで均質な強度で表現されるようになり、工業製品のようなテクスチャーのものまで現れたのです。
モダニズム芸術のまじめな作家は、誰もが納得のできる理論によって作品を展開し、作品の価値観は自分の内面にではなく、公共的な外部にあると考えてきました。そのモダニズムの姿勢を半ばアイロニカルな手法で表現したのがマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)でした。デュシャンは誰でも手に入れることができる工業製品を作品として出品しようとしました。この「レディメイド」と呼ばれる作品たちは、制作においてデュシャンの恣意性がまったく混入せず、わずかにサインを入れたり、出品を決意したり、という点にしかデュシャンの意思は反映されていないことになります。あるいは、自分の作品の構想を記したものを箱にしまって、他人がそれらを自由に並べ替え、イメージできるようにした「グリーン・ボックス」という作品もありました。この作品によって、作品制作の要因はデュシャンの外部に存在することになり、作品の構想そのものが作家本人の手を離れて他者に委ねられることになったのです。
https://www.artpedia.asia/the-green-box/
デュシャンにまで話が及ぶと、そこに皮肉、ユーモア、ウィットなどが絡んで話がややこしくなりますが、一般的に言えば、モダニズムの芸術は理路整然としていて、個人の恣意的な思いも排除され、誰もが納得できる理論によって推進されました。そこにはもちろん、「Noise」などの狭雑物が入る余地などありません。しかし、そのような翳りのない思想、明快さしか求めない芸術に、未来はあるのでしょうか。私には、モダニズムはもうこれ以上、一歩も進めないくらい行き詰まっていると思います。そのことをずーっとこのblogで書いてきたのですが、このことを「Noise」という言葉を用いて説明してみます。
私は、モダニズムの明快さからこぼ落ちる「Noise」の中にこそ、これからの芸術の創造の芽があると考えています。ですから、私がこれからやるべきことは、このこぼれ落ちた「Noise」を拾い集めて、そこから新たな何かを提示することだ、というふうに思っています。もちろん、私はふだんから「Noise」という言葉や概念を用いているわけではありません。しかし、この言葉「Noise」という概念を用いて考えるなら、そういうことになると思っています。
このように「Noise」のないピカピカの空間をモダニズムの空間であると考えるなら、そのことを徹底して作品化したのが、今も大規模な個展が開催されているゲルハルト・リヒターではないか、と私は思っています。モダニズムの方法論として圧倒的に正しいリヒターの作品について、私はどうしても満足できない思いを抱いていて、そのことをいろんな文章の中で書いてきました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/943874147767113a0c4f2a83b888839c
ここでの文脈でこのことを考察してみるならば、彼の作品には「Noise」らしきものがない、ということが、彼の作品に満足できない理由の一つとなるのかもしれません。
話が長くなりました。それでは、飯沼さんの作品には「Noise」があるのでしょうか?本人も言っているように、彼女の内面には「Noise」が避け難く存在するようですが、それを具体的な作品から見ていきましょう。
彼女の作品は、一見すると抽象表現主義の頃のモダニズムの絵画を正統に継承しているように見えます。しかし、彼女の画面をよく見ると、筆致には造形的な方向性だけでなく、文字を重ね描きするという別の方向性があります。これは絵画を純化していこうとするモダニズムの絵画とは矛盾している方向性です。
さらに飯沼さんの絵画には、一点透視図法を表象するドローイングが潜んでいますが、これは平面性を志向するモダニズム絵画とは相いれないものです。
今回はさらに、画面を縁取る黒い枠線が潜んでいるものがありました。そのせいか、色彩もいつもより渋めで、それが美しく見えました。本人は、美しさをねらってはいなかったようですが・・・。
さて、実は絵画のエッジ(縁)をどのように考えるのか、というのはモダニズムの絵画にとってとても大きな問題で、できればエッジなどない方が良いのです。絵画の縁は絵画の平面性を限定するものであり、限定された平面には、自然と構成が生じてしまいます。この構成的な絵画こそ、モダニズムの絵画が旧套的な表現であるとして糾弾したものでした。したがって、モダニズムの絵画はエッジを意識化させないために、シェイプド・キャンバスという変形の絵画まで生んだのでした。画面の中の形や構成が、画面の外形と一致することによって画面の「枠」という概念を意識化させない、という理屈なのです、ややこしいですね。飯沼さんの今回の作品では、枠の形がうっすらと見えることでかえって画面の内容が外に向かって広がっていくように感じられました。結果的に「枠」を潜ませることによって、「枠」の破壊を表現してしまった、と言えると思います。
そして、今回の展示では小品の作品も印象的でした。飯沼さんの作品の筆致は、基本的に英語の文字をなぞらえたものですが、その小品の中で日本語の詩が書かれた作品がありました。以前にも彼女の展覧会で日本語の文字がはっきりと読める形で書かれた作品を見たことがありますが、今回は生きていくことへの切実なメッセージが書かれていて、その言葉が胸に迫る作品でした。その言葉の出来栄えがみごとだったので、有名な詩の一節なのかと飯沼さんに聞くと、自分の作った詩(言葉)だということでした。
考えてみると、モダニズムの絵画においては造形的でない要素、例えば直接言葉を画面に書くことは、あまり多くはなかったと思います。コンセプチュアル・アートの文字の作品は、絵画とは一線を画したものですし、ポスト・モダンと呼ばれた時期に文字を画像的に扱った作品が多々ありましたが、それらの作品は飯沼さんの作品ほどには本格的に絵画と向き合ったものではありませんでした。言葉のイメージがどのように画面と関連していくのか、これはとても難しい問題だと思います。彼女自身も、大きな作品で日本語を扱う同様の試みはまだやっていないようで、今後どういうふうに発展していくのか、楽しみであると同時にちょっとドキドキします。
このように飯沼さんの作品には、モダニズムの絵画の概念からすると奇妙な点がたくさんあります。私はこれらを、飯沼さんにとっての「Noise」だと言っていいと思います。実際に、私がはじめて飯沼さんの作品を見たときには、何だか見づらい作品だなあ、と思いました。今になって思えば、それは彼女の作品が創造的な「Noise」を含んでいたからでしょう。私たちは、ともすればこのような「Noise」を邪魔なものとして、制作から遠ざけてしまいがちです。しかし、先ほども書いたように、モダニズムの方法論や規則通りに制作した作品に、これからを担う創造性はあるのでしょうか。作品の中には見づらい部分、見ていて心が痛むような要素が必要なのではないでしょうか。今回の飯沼さんの作品を見ていると、そんなことを考えました。
それからもう一つだけ、今回の展覧会のDMにもなっている木炭で描かれた作品もみごとでした。木炭という素材の表現力に、あらためて気付かされた次第です。
さて、次に間々田佳さんの個展です。
先に彼女のポートフォリオサイトをご紹介しておきます。
https://kei-mamada.jimdofree.com
そして間々田さんの作家のコメントが、なかなか興味深いです。
「間」は、満なのか、空なのか。
「間」をテーマに制作しています。
間々田さんは真摯に作品と向き合う作家で、このコメントには何の粉飾もなく、まったくこの通りに作品を制作しています。
間々田さんは「鉄」を主要な素材として表現する立体的な作品の作家です。しかし、今回の展覧会では「鉄」という素材よりも「間」というテーマが優先しているように思いました。
例えば、木製のパネルを墨で塗りつぶした作品がありました。砥粉を表面にすりこんでいる、という彼女の話でしたが、艶消しを施したような独特の質感が「満なのか、空なのか」というテーマをみごとに表現していました。この真っ黒な四角い形は、ミニマル・アートの絵画のように「黒」で空間が充満しているような作品ではありません。どちらかと言えば、鑑賞者の視線を吸収するような空間なのですが、もちろんブラック・ホールのような真空状態であるわけではありません。だったら、この空間を「間」と呼びましょう、と言われたら、どんな説明よりも説得力があります。
それから、和紙の端の部分を次々と貼り合わせたパネル作品もありました。先ほども書いたように、モダニズムの絵画にとってエッジをどう表現するのか、は大問題で、できればエッジなどないことにしたいのです。ところが間々田さんの作品はそのエッジが右から左へと次々と連続して現れて、さらにその貼り合わせた「間」が不揃いで、独特のリズムを生んでいるのです。朴訥としていて、ちょっと言葉に詰まってしまっていて、サラッとは見過ごせないような温かみのある「間」なのです。
これらの作品は、平面作品と言えなくもないのですが、ふだん絵を描いている作家だと、ちょっと思いつかない類の作品です。間々田さんのお話を聞いていると、金属以外の素材にもふだんから好奇心を目一杯働かせているようで、これらの作品はその結果、生まれたもののようです。
先ほどの「Noise」の話で考えるなら、間々田さんのテーマである「間」の問題も、ものの素材感への旺盛な探求も、いずれもモダニズムの絵画や彫刻から考えると余計な部分、つまり「Noise」だと考えることができるでしょう。自分の興味の赴くままにどんどん「Noise」を拾っていくと、やがてこんなにも実りの多い音色が聞こえてくるものなのだ、ということを、間々田さんの作品は証明しているのだと思います。
そして彼女の主要な素材である鉄の作品ですが、今回の展示では鉄の素材のそばに、間々田さんのオリジナルの素材が並んで展示されています。とてもきれいな素材なのですが、木材と色紙を重ねて貼り合わせたものだそうです。ピカピカの、あるいは錆を施した金属と、その木材と色紙を合わせた素材が並んで展示されていることで、そこに不思議な「間」が生じます。
「間」というのは、「もの」と「もの」の間のことですから、その「もの」が何であっても、間(あいだ)の空間である「間」は同じようなものだろう、と私たちは思いがちですが、これが違うのです。今回の間々田さんの展示で、金属同士の「間」と、金属と木+紙のあいだの「間」とは、全然違うものなのです。うまく言葉で言えないのですが、例えば冷たいものに挟まれた「間」と、冷たいものと温かいものに挟まれた「間」では感触が違ってきますし、あるいは硬いものに挟まれた「間」と、硬いものと柔らかいものに挟まれた「間」でも感受できるものが違ってくるのです。前回blogで取り上げた、この展覧会の冊子の中でも言われていたことですが、こういうことは実際に作品を見て、肌の感触で感じ取らないとわからないことです。
それから、このように「間」に注目を集めるためには、素材が余計な主張をし過ぎないことも大切です。間々田さんは素材の処理において、まったく妥協がありません。本当にみごとに仕上がっているのです。それは作品の見た目をきれいに見せるためではなくて、純粋に作品の造形性、質感、それにそれらの「間」について考えるための努力なのです。彼女から、ちらっとお話を聞くだけでも、金属は厄介な素材だと予想できます。私は無知なのでその苦労の本当のところがわかりませんが、それでも彼女の作品の完成度の高さには頭が下がります。こういうことも、実際の作品を見て、肌で感じてみないとわからないことです。
これらの話から、間々田さんの作品が平凡なモダニズム彫刻ではないことがわかっていただけたと思います。モダニズム彫刻が見過ごしてきた「間」という要素について取り組む彼女の作品は、モダニズム彫刻の側から見れば「Noise」のようなものかもしれません。だからこそ、そこに新たな創造性の可能性があるのだと思います。
そして間々田さんの作品を見ると、もっと大きな空間で、それぞれの作品の「間」をもっと緩やかな環境で見てみたい誘惑に駆られます。どこかの美術館で、そういう企画を立ち上げてもらえないでしょうか?こういうふうに、将来性と努力が結びついた立体作家には、画廊での展覧会の機会と同時に、伸び伸びとした空間が必要です。それを作家本人の裁量に依存していたのでは、日本の美術に将来はありません。残念ながら、私にはそういう援助のできる金も力もないので、そういうものをお持ちの方は、ぜひ視野を広げて彼女のような若い作家を育ててください。
さて、最後にちょっと余計なことを書いておきます。私は以前に「144.『アンフォルム』イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウスについて」という文章を書きました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/ebde2a66cd1feaf7ea5b0eea39ea07b4
この「アンフォルム」というのは、フランスの思想家バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897 - 1962)の提起した概念から、1996年に美術史家・美術評論家のイヴ=アラン・ボワとロザリンド・クラウスが共同企画した「アンフォルム:使用の手引き」(ポンピドゥ・センター、パリ)という展覧会の名称であり、またそれに関連する書物の名前です。
私のblogを読んでいただくとわかるのですが、クラウスさんたちは、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のモダニズムの美術批評をのり越えるために、彼の提唱したフォーマリズム批評の裏返しのような発想で新しい批評を模索したのです。しかし、クラウスさんの師でもあったグリーンバーグを意識するあまり、かえって彼の思想に捉われてしまったのではないか、という批判もあるようです。
モダニズムの思想、芸術の影響力は大きく、そこから逃れることは容易ではありません。しかし、そこに拘泥していては、創造的な営みも限定的になります。私はモダニズムを越えるためには、アンチ・モダニズムではだめだし、ひと頃流行したポスト・モダニズムのようにモダニズムの無視、あるいは無知でもだめだと思います。
自分たちはモダニズムの時代に生きていることを認識した上で、そこで見過ごしてしまってきたこと、こぼれ落ちてしまったことに新たな興味を見出して、半ば楽しみながらそれを超えていくしかないのだろう、と思います。
今回のお二人の展覧会は、そのことの可能性を示唆しています。あるいは『Chatterbox Ⅲ』という展覧会が検討している「ジェンダー」の問題なども、モダニズムを克服する手がかりになるのかもしれません。「ジェンダー」の問題は、これまでの人類の思想全体が偏ったものであることを示していて、そこから脱却しなければならないことは、すでに自明のことです。その差別の実態を覆い隠すことなく、平等な世界をこれから実現することで世界はまだまだ大きな可能性を持っている、と考えたいものです。
飯沼さんの提起した概念をお借りすれば、「Noise」は至る所にありますし、それを受け入れた上で、大きな創造性へとつなげていきたいものです。