平らな深み、緩やかな時間

246.『Chatterbox Ⅲ』展 ギャラリー檜について

東京・京橋のギャラリー檜で8月29日(月)から 9月3日(土)まで『Chatterbox Ⅲ』という展覧会が開催されます。今回は次の4人の作家による個展形式の展覧会です。

 

Chatterbox Ⅲー変化を伴い持続する4人ー

 飯沼知寿子展 ギャラリー檜 B

 斎藤英子展  ギャラリー檜 C

 釘町一恵展  ギャラリー檜 e

 間々田佳展  ギャラリー檜 F

http://hinoki.main.jp/img2022-8/exhibition.html

 

飯沼知寿子さんが、4人の女性による個展形式の展覧会を企画して3回目になります。私は幸運なことに、その1回目から見させていただいています。

その度にこのblogで感想を寄せてきたのですが、それぞれ展覧会の作品に関する感想だけでは済まずに、彼女たちの対談を載せた冊子と併せ、この展覧会の意義も含めた二つの文章を書いてきました。私自身、この企画展が問題提起しているジェンダーに関する問題やフェミニズムの思想への理解が深まっているのかどうか、自信はありませんがよかったらblogの文章を読んでみてください。

ただし、最初にお断りしておきますが、彼女たちの展覧会は、例えばフェミニズム運動を作品化したものではありません。展覧会はあくまでも、日々の研鑽のもとで制作された充実した作品が並んでいて、何かのテーマに縛られて作品の質を落とす、というようなことは決してないのです。今までもそうでしたし、今回もそうなるでしょう。

でも、だからこそ彼女たち、女性の作家の活動を妨げるもの、足枷となるものがあれば、私たちはそこに思いを馳せて、すべての作家が思う存分活動できる社会を目指さなければならないのです。ほんとうに厄介な問題は、見えないところにあります。私のblogも彼女たちの活動と同様に、それを文章化することを目的としているのですが、うまく書けているでしょうか・・・。

それでは、次のリストを参照してください。

128.『Chatterbox』展、『ニーチェ』ジル・ドゥルーズについて

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c4250ab260e1b7cb75f62f1bb35b6700

129.『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/3abefc9e00e070a4a8f5c41b585c5cfc

180.『戦争は女の顔をしていない』アレクシエーヴィッチと『Chatterbox展』

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/13fa1894a0938ebee9d954858bae9d55

181.『Chatterbox展』について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/37edf573b8863e3a48063d97fec32cd9

 

毎回、この展覧会には教えられることが多くて、勉強になります。

例えば1回目の時には、美術の世界がいかに男性中心主義で動いてきたのか、ということ、そして批評の論理の中に、いかに男性的な原理が働いてきたのか、ということを教えられました。それで私は、持田季未子さんの文章をあらためて読み直して、特にジェンダーの問題について彼女が優れた考察をしていることに気がつきました。このことについて、ちょっとだけまとめておきましょう。

まず、『Chatterbox』の話(小冊子)を読みながら私が注目したのは、難しい批評の言葉に対する彼女たちの嫌悪感です。それらの多くは男性評論家が書いたものです。しかし評論家の中には、持田季未子さんのような優れた女性の評論家もいて、彼女の言葉は平易ではありませんが、難しい言葉をこねくり回すようなことはありません。しかも持田さんは、画家の立場に立って作品について考え、画家が言語化できない「絵画の思考」を評論家は言葉にしなければならない、と書いたのでした。持田さんは高みの安全な場所から作品を見下す批評家ではなくて、作家と同じ足場の悪いところにあえて降り立って、言葉を紡いだ人でした。

ですから『Chatterbox』の皆さんにも、こういう批評の言葉もありますよ、と言いたかったのです。そして持田さんはジェンダーの問題についても、言及しています。それは『美的判断考』という、彼女が亡くなった後に発行された本の中で、後半の178ページ以降はだいたいジェンダーに関する話題か、あるいは女性の思想家に関する話が占めています。それをここでていねいに追いかけることはしませんので、興味がある方はまずは持田さんの本を買っていただいて読むことが一番ですが、どんなものなのか大雑把に知りたい方は、私の先のblogをお読みください。

ちょっとだけ触れておくと、「3 美のジェンダー」という章は、次のように始まります。

 

近代諸科学が、価値中立、客観、合理を建て前にしながら、じつはジェンダー・バイヤスを背後に潜ませていることが、今日指摘されつつある。美学に関していえば、フェミニズムから批判を浴びている点のひとつに、「美と崇高」の二項対立がある。18世紀後半に登場し人気を博したこの比較的新しい二項対立が、崇高を男性に、美を女性に配当したからだ。

カント前期批判の小品『美と崇高についての観察』(1764)は、イギリスの趣味論の影響のもとに一種の道徳哲学との関連から美と崇高の感情について論じ、両者をはっきりとジェンダーに分配している。一般に二項対立というものは、形相と物質、精神と肉体、理性と感情、文化と自然、公と私などをみてもわかるとおり、非対称的であるが、崇高が自由で意志的な「理性的男性」にふさわしい道徳規範とされ、美より上位に置かれた。

(『美的判断考』「3 美のジェンダー」持田季未子)

 

別に難しい文章ではありませんが、解説してみましょう。近代諸科学が、客観的なものだなんていうのは、単なる思い込みです。そこには客観性、合理性しかないように見えながら、実は女性差別的な考え方が潜んでいるのです。

美学の分野で言えば、美学の源流の一人だと思われる高名な哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant 、1724- 1804)が唱えた「美と崇高」の理論があります。これがそもそも男女差別を潜ませた概念なのです。「美」と「崇高」を並べてみると、ただ単に美しい「美」よりも、スケールが大きくて気高い雰囲気の「崇高」の方が上位に位置します。そして理性的で意志的な男性=崇高、きれいなだけで表面的な価値しかない女性=美、というふうに割り振られていたわけです。

私たちは、おそらく「崇高」という概念に悪いイメージを抱く人はいないでしょう。けれども、その言葉が「美」と対立的に使われた時、そこに女性差別の意識が滑り込んでいたのです。カントの影響を受けたバーネット・ニューマン(Barnett Newman、1905 - 1970)の絵画は「崇高」がテーマでしたし、その影響関係は計り知れないものがあります。

https://www.tate.org.uk/art/research-publications/the-sublime/philip-shaw-sublime-destruction-barnett-newmans-adam-and-eve-r1140520

カントの時代の思想家たちは、「女性は劣った存在で、論理的にものを考えることができない」と思っていました。それを知ってしまうと、そんな愚かな男たちの考えを積み上げてきた近代諸科学、そこに含まれる美学などは、真面目に学習するのに値しないのではないか、と砂上の楼閣がサラサラと崩れ落ちていくような気持ちになります。

しかし、持田さんは次のようにまとめています。

 

ジェンダー観点の導入によりカントはじめ男性たちの哲学を批判する作業は、たしかに一度は必要だが、告発だけに終わるのではつまらない。フェミニズムとポストモダン的哲学は、まさに西洋近代的価値の批判、文化一般の根源的批判という大きな動機を共有しているだけに、相互に栄養を与え、学びあっていきたいものだ。

(『美的判断考』「哲学すること」持田季未子)

 

私たちは過去を変えることはできないので、それが砂上の楼閣であっても、崩れ落ちていく砂の中から、これからの土台になりそうなものを掬い上げて、新たな未来を構築しなくてはなりません。またこういう時代だからこそ、視野を広くとっていろいろな知見を集める必要があります。これはたいへんな時代に生まれてしまったなあ、とため息のひとつもつきたくなりますが、ここは一つ、よく考えてみましょう。そんな複雑な時代であっても、性別による偏見を持ちながらも気づかないままで一生を終えていったカントの時代の人たちよりも、私たちは数倍幸せではないでしょうか?なぜなら、他人の痛みがわからない人生なんて、まったく価値がないからです。

 

さて、次は2回目の『Chatterbox』で学んだことについて書いておきます。

ちょうど展覧会の時期に、ノーベル賞作家であるスベトラーナ・アレクシエーヴィッチさんの『戦争は女の顔をしていない』という本について紹介するテレビ番組がやっていました。それを見て、私は「これは『Chatterbox』と関連があるのではないか」と思ったのです。実際に『戦争は女の顔をしていない』を読んでみると、予想通りでした。さらに偶然のことですが、飯沼さんも同じ時期に『戦争は女の顔をしていない』に注目していて、自分のやっている『Chatterbox』がアレクシエーヴィッチさんと同じことを試みているのではないか、と感じたそうです。

そのことについては、先ほどのblogのリストから「180.『戦争は女の顔をしていない』アレクシエーヴィッチと『Chatterbox展』」に書いてあるので、読んでいただけるとうれしいです。

そして今回は、その後のアレクシエーヴィッチさんの過酷な運命について、補足しておきましょう。

アレクシエーヴィッチさんはベラルーシ人とウクライナ人の両親のもとに生まれました。彼女はベラルーシで育ち、世界的な作家となりました。その後は世界を股にかけて活躍したようですが、今回のロシアによるウクライナ侵略までは基本的にベラルーシに住んでいたのです。

この彼女の立場を考えると、複雑でかつ悲惨です。母の母国であるウクライナを攻撃しているのがロシアであり、そのロシアに協力しているのが父の母国であり現在も住んでいるベラルーシなのです。しかし結局、戦争に反対する立場の彼女はベラルーシに居られなくなり、ドイツに出国したようです。その当時の彼女のインタビューを含めた特集番組がありました。私はその紹介文をblogに書いています。

 

229.ETV特集「ウクライナ侵攻が変える世界」、ベイトソン『精神と自然』

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/476e23999e1f5d7adbfc09384813082f

 

番組を見直すことはできませんが、よかったら文章だけでもお読みください。

もともとは関係の近い国同士ですから、アレクシエーヴィッチさんのような方は、現在もたくさんいることでしょう。ロシアにいる親戚との人間関係が断ち切られてしまった人、ウクライナに残っている祖父母の安否を気遣う人・・・、ロシアの侵略戦争の意味はあまりに重たいと思います。

そしてジェンダーの問題で言えば、ロシア兵による性犯罪のニュースを聞くたびに、これが21世紀の出来事なのか!と唖然としてしまいます。為政者のプーチンの心の闇は巨大ですが、それと同様に性犯罪を犯すロシア兵一人一人の心の闇も、それに負けず劣らず不気味で怖いです。もはやこの戦争は、プーチン一人を悪者にして済むものではないのです。

 

さてさて、最後に今回の『Chatterbox』の冊子についても、触れておきます。

まずはじめは上野千鶴子さんの2019年東大入学式「祝辞」ですね。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

(東大の公式テキストです。)

https://youtu.be/TWbi3sz1vUQ

(TBSのニュース映像です。)

 

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。

(東京大学ホームページから)

 

論理の展開が小気味よくて痛快です。学生を飽きさせないユーモアも忘れていません。そしてこの祝辞の肝となるのが、この頃に問題となっていた医大の不正入試です。男子の方が医師として継続的に働く可能性が大きいから、というのが裏の事情のようです。もしも女性の医師が仕事を辞めざるを得ない状況があるのだとしたら、それは医療を取り巻く社会状況に問題があるからでしょう。医大の先生たちは社会的にも発信力があるのですから、そういう社会を是正するために汗を流すべきだと思います。それをせずに、女性が医師になれないように不正を働いていた、というのでは話になりません。

ここまで書いていたら、次のニュースが飛び込んできました。

 

美大学生は7割女性なのに教授は8割男性 芸術分野で著しい不均衡

https://mainichi.jp/articles/20220824/k00/00m/040/220000c

 

美術家や映画監督、研究者らでつくる「表現の現場調査団」が24日、美術や映画、文芸など芸術9分野の教育機関や賞の審査員・受賞者の男女比率を調査した「ジェンダーバランス白書2022」を公表した。美大では学生の7割が女性の一方、教授は8割が男性、美術館で開催される個展や美術館の購入作品数も8割を男性が占めるなど、機会やキャリア形成では著しく不均衡な実態が浮かび上がった。

(中略)

 美術分野では、芸術選奨などの賞(20年までの過去10年間)の審査員の71%、大賞受賞者の75%が男性。主要15美術館で開催された個展(同)でも84%が男性作家、7館の購入作品数(同)のうち80%が男性作家のものだった。美術を志す女性は多いものの、教育指導者、賞選考、個展開催、美術館の作品購入といったキャリア形成の各段階において男性優位な現状が明らかになった。

(中略)

24日にあった記者会見で、調査に協力した評論家の荻上チキさんは「(教育の現場を見れば分かるように)潜在的には女性の表現者が多いにもかかわらず、男性が男性を育て評価し、ふるい落とされた女性表現者が消費者として男性表現者を支えるといういびつな構造がある。まずは審査員の男女比率を整えてほしい」と求めた。

(『毎日新聞』2022/8/24 19:22 最終更新 8/24 21:40)

 

美術大学の教員が、おじいさんたちの社会であることは明白でしたが、私はとっくにドロップアウトしてしまったので、あまり気にしていませんでした。それに私は華やかな賞とも、そのご褒美の大規模な個展とも、美術館の作品購入とも縁がない身なので、そんなことの男女による有利・不利について考えたこともありませんでした。

しかしこれだけ女性の表現者が多い中で、このような状況があるのだとしたら、やはり大きな問題です。その主な要因は「芸術選奨」などのアカデミックな世界が、相変わらず男性社会であることだと思います。私の偏見かもしれませんが、こういうアカデミックな世界は政治家の世界、とりわけ日本の保守政党とまったく変わらないのではないでしょうか?自分たちの人間関係だけで地位を継承しているから、変革など到底できないのです。そしてもしも「男性」である、というだけで有利であるとしたら、その特権をどうして手放すことができるでしょうか。そこに女性が入ってくることは、彼らにとっては危険なことでしょう。

芸術の世界は人畜無害だと考えられがちですが、そうは言ってもアカデミックな世界には多額の公金が流れています。本当は私たちが、もっと関心を持って見なければダメですね。みんなが注視することで、それがプレッシャーとなって不公平が是正されるのだろうと思います。

そう思いつつも、アカデミックな美術展や公募展を見に行って、後悔しないことはまずありません。ただ広いだけの美術館のギャラリーを巡り歩いて、何の収穫もないとさすがに落ち込みます。前回のblogで取り上げた鳥居さんの個展のように、ピンポイントで訪ねた街の画廊で素敵な作品と出会い、作家から深い話が聞けるという以上の喜びがあるでしょうか?できれば、そういうことに時間を使いたい、というのが人情でしょう。

それにしても、私がこのblogで取り上げてきた作家は、もしかしたら女性の作家の方が多いのかもしれません。とくに私より年少の作家を見ると、何となく女性の活躍の方が目立つような気がします。それなのに、女性の作家が男性よりも生きにくさを感じているのだとしたら問題です。そんな社会のまま放置してしまっているのは、私たちのような年配の人たちの責任ですね、申し訳ないです。

 

さて、ここまで読んでいただいて、直接、今回の『Chatterbox』の冊子の中身を取り上げていませんが、それぞれの方の話に出てくるようなこと、例えば美術大学や大学院での男女数の違いや指導体制、女性作家の取り上げられ方などについて、ここまでの私の文章がその傍証になっていないでしょうか。

そして今回、日本における男女差別とそれを是正する動きについて、もう少し知りたいなあと思って、上野千鶴子さんの『フェミニズムがひらいた道』という初歩的なムック本を読んでみました。残念ながらそのことについて書いていると長くなりそうなので、そのはじめの部分だけ触れておきましょう。上野さんは男女の「差別」と「区別」という言葉の差について書いています。

 

 女性学の大先輩、駒尺喜美さんの名言に、「自分の目の黒いうちに、区別が差別に昇格した」というものがあります。  

区別はあってあたりまえのちがい。差別はあってはならない不当なちがい。かつて、女性差別は「あってあたりまえの区別」だとされていました。たとえば明治時代に男女同権が叫ばれたとき、「女に参政権を与えるなど豚に真珠をやるようなものだ」「一家に主権者が二人いて、夫婦がちがう方向を目指したら家庭不和のもとになる」などという論争が起きました。  

女は男とちがう生き物だから、ちがう取り扱いをしてあたりまえ。男女同権を主張するなどお門ちがい。そんな考えが定着していましたが、時を経て、それがあってはならない差別に「昇格した」と言うのです。とてもうまい言い方です。しかも、大正生まれの駒尺さんが「自分の目の黒いうちに」と言うのには、自分が生きているあいだにそんなことが起きるとは思っていなかった、という含意があります。

(『フェミニズムがひらいた道』「はじめに」上野千鶴子)

 

『Chatterbox』の冊子の中でも、学校の中で名簿の話が出てきましたね。私は教員として、名簿が男女別から混合名簿に変わるところを経験しています。混合名簿に変わる時には、たとえば健康診断などの時に不便ではないか、などという人もいましたが、そんなことは区別が必要な時に分ければ良いだけで、今では何の問題も感じません。そんなふうに、必要な区別だと思っていたら、ただの思い込みの差別だったということが多くて、古い意識を持っていると意外とそのことに気づくのが難しいものだと思います。だからと言って、放置していいわけではありません。上野さんのこの本に貫かれている意志は、結局、差別がない方がみんなが楽に生きることができる、ということだと思います。

それから「フェミニズム」というカタカナ用語にしてしまうと、このような運動は海外からもたらされたものだ、と推進する人たちも、拒絶する人たちも思い込んでしまっているようですが、実は日本には男女差別をなくそうと努力してきた歴史がちゃんとあるので、そのことを学んでほしい、というのが、上野さんがこの本を書いた主な理由のようです。私たちは「自発的」に差別をなくそうとしてきたのであり、これは決して「外国かぶれ」の運動などではありません。そのことを男女に関わらず、みんなが知っていると、これからの社会の展開が違ってくるのかもしれません。そう考えると、やっぱり学問は大切ですね。

ところで、上野さんは怖い人だと言われることが多いようですが、本を読んだり、話を聞いたりした限りでは、そんなことはないと思います。ただ、私を含めて多くの男性が、彼女の話を聞いて反省しなければならないことが多すぎて、それが辛いということはあるのかもしれません。

そんな上野さんですが、知性の鋭さに任せて奔放に話しているのかというと、そんなことはありません。あの東大での話にしても、なぜ自分に祝辞の依頼が来たのか、どういうふうに話せば聞いてもらえるのか、反発されるとしたらどんなところなのか、ということも考えた上で話しているようです。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/17159

上野さんは、自分だって「空気を読む」し、「忖度」だってしてますよ!と語っていますが、政治家の人たちが根拠もなく「空気」に流され、漠然とした恐れから「忖度」しているのと比べると、同じ「空気」や「忖度」でも内容が違います。たぶん、上野さんの「生きにくさ」の度合いは、のほほんと生きている私の数倍だろうと思います。それでもポジティブに溌溂として活躍されている姿が尊敬できますね。

それにしても、このような上野さんの貴重な発言のことも、『Chatterbox』の冊子のはじめにこの話が出て来なかったら、私は過去の話題として忘れたままにしていたと思います。このことだけをみても、飯沼さんの『Chatterbox』の試みの貴重さがわかると思います。

 

最後の最後に、『Chatterbox』の会話の中で、ジェンダーの問題にこだわらず、私のお気に入りの会話がありましたので、ここに書き写しておきます。(展覧会前なのに、勝手に長い引用を載せてしまってすみません。)

 

飯沼

表現は新しくありたいですが(笑)。でも時代に則していれば、新しい表現のはずだと思うんですよね。以前釘町さんが、時代を意識した制作の必要性についておっしゃってましたね。今だったらコロナの状況があって、という。

釘町

そうね・・・。今の時代、特に人々が疲弊してたり分断されたり・・・固くなってしまっている。まだ以前のようにはギャラリーに来られない方がたくさんいらっしゃる。そういう方に向けてSNSでしつこいくらいお知らせする。こんな風にやってます、来られなくてもいいです、歩み続けていますって。一方で、久しぶりに来て下さった方に・・・とってもしんどかったんだなっていう様子の方が多いんですよ。日常レベルでは普通でも、しゃべるうちにその異変を感じる。ここをちゃんと意識して仕事はすべきだなっていうのがある。

飯沼

今、インターネットで画像がいくらでも見られますよね。でも作品って画像じゃないとずっと思っていて。たとえ絵のように、平面と呼ばれるものでもやっぱり三次元的なものなんですよね。だからただ正面から見るだけではなくて、歩みながら近寄ったり離れたり、触れるようにして見るものだって思うんです。コロナでその行為が難しくなっているとしても、やっぱりそれが基本で。そういう鑑賞に耐えられる作品を作りたい。

釘町

そうですね。やっぱり皮膚感覚で、視覚以外も総動員して見るっていうのが大事なんじゃないかと思う。そこに体現されているものを吸収するのは眼だけではないと。また、そのことをテーマにして作品を作っていきたいって思う。

(『ChatterboxⅢ』冊子より)

 

素晴らしい会話ですね。

そうなんです、「皮膚感覚で、視覚以外も総動員して見る」ことが大切なのです。実物の作品を見る喜びは、それに尽きると思います。

それにしても、コロナでそういうことがやりにくくなって、それがもっとも困ったことです。コロナのために、東京で初めて行動自粛が要請された春のことを、皆さんは憶えていますか?私はその時、ギャラリー檜で個展をやっていました。同時に個展をやっていたのが、今回参加されている間々田さんでしたね。二人で「お客さん、来ないよね、さすがに・・・」なんて言いながら、最終日を迎えたのです。それでも、私のお気に入りのダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930 - 2021)の画集を間々田さんの参考になれば、と思って見てもらったりして、意外と楽しかったです。そういう出会いも、ギャラリーにいないと生まれません。その頃は東京の街中に緊張感がありましたが、ギャラリー檜の中は別空間でした。

 

それにしても、またコロナ・ウィルスの蔓延で、政府の無作為は許し難いものがあります。それなのに、原発新設だけは前のめりって、どういうことなのでしょうか?こういう反省できない男たちが差別を助長しているのでしょうか・・・。

そんな嫌なことは置いておいて、とにかく作家の方も、ギャラリーの皆さんも、今回も無事に展覧会が開催され、盛況に終えられることを心から願っています。

こういう状況ですが、可能な方は、是非とも会場に足を運びましょう。間違いなく素晴らしい出会いがあって、たぶん、素敵な冊子ももらえるはずです。

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