ソル・ルウィット(Sol LeWitt,1928 - 2007)は、アメリカ合衆国の美術家です。現代美術の世界では有名な方ですが、作品によってミニマル・アート、あるいはコンセプチュアル・アートの作家としてジャンル分けされます。ルウィットさんの独自の表現形式として、「ウォールドローイング」、「ストラクチャー」などが知られています。「ウォールドローイング」とは、文字通り壁に描かれた線描画です。「ストラクチャー」は立体作品を指すのですが、彼はそれを彫刻と呼ばず、「ストラクチャー (structure)」つまり「構造体」と呼ぶのです。彼の作品を見ると、その理由がわかります。次のページから、基本的な情報を共有しておきましょう。
https://euphoric-arts.com/art-2/sol-lewitt/
私はルウィットさんの熱心なファンではありませんし、とくに作品が好きだというわけでもありません。しかし、彼が自分の芸術に対して一貫した姿勢で制作していたことには敬意を持っています。
今回、ソル.ルウィットさんを取り上げようと考えたのは、先日、国立近代美術館に行った際に、常設展示のフロアーで彼の「ウォールドローイング」を見たからです。それがどんなものなのか、次のページを参照してください。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/23311
どうやって描いているのか、わかりますか?
90cmのブロックに、円弧、直線、非直線の簡単な線が1本、引いてあるパターンが用意されています。そして、例えばあるブロックについて「1/2」というパターンであれば、1と2のパターンの線が重ね描きされたことを示しています。「1/2」、「1/3」・・・、というふうに、数列的に番号がずれていくと、線のパターンの組み合わせもずれてくるのです。線描きのパターンが16個もあれば、120のパターンの組み合わせが出来上がります。そのパターンで線描された90cmのブロックを選んで、壁に並べて壁画にするというわけです。
ちょっと横道にそれますが、以前にもこのblogで取り上げた、ロック・ミュージシャンでアンビニエント・ミュージックのアーチストでもあるブライアン・イーノさんが、アンビニエント・ミュージックを展示した会場の説明で、数カ所から違ったパターンの音楽を繰り返して流す仕組みについて語っていました。例えばA地点とB地点の音が同時に聞こえる場所にいると、それぞれのパターンの曲の長さが少しずつ違っているので、リピートされたときには前に聞いた時の音の組み合わせとは、少しずれた組み合わせとなります。そんな仕組みで数カ所から音が出ているので、展示期間中にまったく同じ音の組み合わせになることはない、と言っていました。頭の良い人たちは、こういうパズルのような話が好きなのですね。
話を戻します。私が美術館に行った時には、このルウィットさんの作品を再制作する過程を動画で流していたようです。しっかり確認しなかったので、間違っていたらごめんなさい。私がうる覚えであることからも分かる通り、私はその制作過程には興味がありませんでした。この作品の肝心なところは、そのようなパターン構成を美術作品として構想したルウィットさんの頭の中にあります。だから、それを解説するパネル展示は重要だと思いますが、作品を再現する作業が大切だとは思えなかったのです。もちろん、再制作されたのはルウィットさんのコンセプトを深く理解された方でしょうし、実際に設営するとなるとそのコンセプトをよりしっかりと表現するために、いろいろなご苦労をされたことと思います。仕上がりも完璧でしたし、ものすごく立派な仕事だと思います。でも、この作品の肝心なところはそこにはないのです。
もう一つ、この作品の肝心な点があるとしたら、そのようなパターン模様が鑑賞する私たちの視覚の中で、どのような化学反応を引き起こすのか、ということです。私の結論から言うと、それはまあまあという感じでした。生意気なことを言うようで申し訳ないのですが、私は以前からルウィットさんの作品を知っていましたから、今回も未知のものと出会うような驚きはありません。そうすると、実物を見た感動はいかばかりか、と言うところが問題です。それが悪くはなかったけれども、大きな感動は得られなかった・・、というのが率直な感想でした。
たぶん若い頃の、ルウィットさんの画集を買って勉強していた頃の私なら、もっと感動したと思います。一体、何が違ってきてしまったのか、それが私の中だけでの変化ならば、多くの方にとっては興味のないことでしょう。しかし、時代の中で何か大きく認識が違ってきている、というふうにも思えるので、今回はそのあたりのことを考えてみたい、という次第です。
そんなことを考えていたときに、ふと、少し前に勉強した「中動態」という概念が思い出されました。ルウィットさんたちの「コンセプチュアル・アート」と「中動態」とでは、まったく無関係のように思えますが、実は私は以前にも「中動態」とコンセプチュアル・アートについて、少しだけ触れていました。そのことは後で確認しますが、とりあえず「中動態」について復習しておきましょう。以前の私のblogを振り返ってみます。
81.『中動態の世界』國分功一郎、『芸術の中動態』森田亜紀
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/bd8bc1c5def9bbe69a0593449e119d11
その中で、次のようなことを書きました。
今から8000年以上も前のことになります。古いヨーロッパの言語(インド=ヨーロッパ語という言語だそうですが)では、「能動態」と「中動態」が先にあって、「受動態」はなかったのだそうです。「受動態」はずいぶん後になって、「中動態」から派生したのです。
<中略>
それでは、その「中動態」とはどのようなものなのでしょうか。この点について、『中動態の世界』(國分功一郎)にくわしく書かれているのですが、私には『芸術の中動態』(森田亜紀)の序章に書かれた説明がわかりやすかったので、その事例に沿って説明してみましょう。
例えば私たちが林道を歩いていて、ふと顔を上げると、そこに山があったとします。そのとき、「私は山を見た」というべきでしょうか、それとも「山が見えた」というべきでしょうか。意志を持って、つまり山を見ようと思って顔を上げたのなら、「山を見た」という方がしっくりくるのでしょうが、何気なく顔を上げたらそこにたまたま山があったのなら、「山が見えた」という方がぴったりでしょう。これを文法の「態」にあてはめてみると、「山を見た」という場合、これは私たちの能動的な行為だとはっきり言えますから「能動態」だと判断できます。しかし「山が見えた」という場合、私たちの能動的な行為だとは言い難い…、かといって受動的である、つまり私たちは「受け身」の立場であった、とはっきり言うことも出来ません。私たちは誰かに首をつかまれて、むりやり顔を上げさせられて山を見た、というわけではありませんし、もちろん、山が動いて私たちの目の前に立ちはだかった、というわけでもありません。能動的だとは言えないものの受動的でもない、そういう行為を語るときに、能動態と受動態のふたつの「態」では足りないのです。
(私のblogより)
さて、このように「中動態」を中心とした説明を読むと、なぜ「能動態」と「受動態」が現在の文法の中心となり、「中動態」は語られなくなってしまったのか、ということを考えてしまいますが、それについては簡単には語りきれないようです。詳しく知りたい方は、國分功一郎さんの本を読んでみましょう。
この「中動態」のことを、私はどうしてソル・ルウィットさんの作品との関連で思い出したのでしょうか。そのことについては、森田亜紀さんの著書『芸術の中動態』の中の「終章 中動態とオートポイエーシス」のはじめに次のような文章がありますので読んでみてください。
われわれは、これまで中動態で捉えてきた制作行為を、「作者であることのオートポイエーシス」という視点で考察していくことができるだろう。作者はあらかじめ作者であるのではなく、制作という産出プロセスの作動を通じて作者であり、作者になりつづけていく。作品はシステムの構成素(の一つ)であろう。ただし作品も最初から作品であるのではない。作者からすれば、制作という産出プロセスがつづくことによって産出された(=制作された)事物が作品となる。作品という構成素が制作という産出プロセスを作動させ、その制作から産出されたものが、作品として次の制作を作動させ・・・そのような循環がつづくことによって、作者は作者になりつづけ、なりつづけることによって作者である。作者が、このように循環的に作動をつづけるオートポイエーシス・システムと、考えることができるのではないか。
作品制作とは、身体を備えた作者が何らかの素材を用いて見たり聞いたり触れたりできる客観的事物をつくり出すことである。頭の中にしかないものは作品ではない。意識や精神のはたらきだけで出来る作品などない。したがって制作は何よりも行為として捉えなければならない。だからこそわれわれは、これまで制作という行為との関係で、作者(および作品)の成立を理解しようとしてきた。これは近代の芸術論が想定したような「作品を支配する最高権威(authority)としての作者(Author)」と構造主義以降の美学が考察の対象とする「作品に内在する作者とのあいだ、実在の生身の作者を考えることでもある。そして作者自身の制作体験からすれば、具体的に作品をつくること(作品ができること)から、事後的に作者になるということが生じていた。中動態を思考の範疇にし、技術論やハビトゥス論を足掛かりに考察すると、作者は制作という行為を通じてみずから変容し、その都度作者に生まれ直してくるように思われた。その事態は、オートポイエーシス理論をモデルに捉え直すことができる。
(『芸術の中動態』「終章 中動態とオートポイエーシス」森田亜紀)
長い引用で申し訳ないのですが、「中動態」という概念とソル・ルウィットさんを結びつけるためには、この一連の文章が必要でした。
ちなみに「オートポイエーシス (autopoiesis)」というのは、生物が細胞の代謝を繰り返して自己創出していくような循環的なシステムのことです。また、「ハビトゥス論」というのは、日常生活の習慣などから人間が自然と身につけていく思考や行為の仕組みについて論じることを指しています。
これらの言葉と、ここで書かれていることを大まかに理解してみましょう。「中動態」的な思考で芸術の制作行為を考えていくと、人間は制作への思い(コンセプト)が先にあって、それを制作行為によって実現していく、というふうに思考と行為がはっきりと分かれているのではないということなのです。人間は制作行為を通じて思考し、その行為全体を通じて作品の作者となるのだ、と森田さんは書いています。制作行為の過程では、作者自身も「生まれ直してくる」ように変わっていきますし、作者と作品、コンセプトと表現行為、などというふうにきれいに分かれているわけではないのです。
ここまで書くと、もうお分かりだと思いますが、ソル・ルウィットさんの作品は、「中動態」的な考え方とはまったく逆になっています。
ルウィットさんの場合、制作のコンセプトがはっきりと存在し、たとえ他人であっても、そのコンセプトを理解していればルウィットさんの代わりに作品を制作することができます。この違いを、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。
ここでちょっとだけ、ソル・ルウィットさんのようなコンセプチュアル・アートのもとになっている考え方について考察しておきましょう。例えば、私が若い頃に影響を受けた現代美術の理論書に、宇佐見圭司(1940 - 2012)さんの書いた『絵画論』という本があります。その中で宇佐見さんは、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)の作品を論じて次のように書いています。
デュシャンのオブジェは、近代的な個性を決定因とした芸術作品を、アイロニカルに対象化して成立した。それは近代芸術の終焉として、近代芸術の最後のページに書かれるであろうし、また新しく登場する内因性によって語られる作品群の最初のページをかざる栄光をも持つであろう。
マルセル・デュシャンは、レディ・メイドの作品の後に、「大ガラス」による作品を造った。この作品に関しては様々な議論が続けられているけれども、彼はその決定因として、「グリーン・ボックス」という作品制作上のメモがたくさん入った小箱を私たちに残していったのである。
(『絵画論』「絵画論」宇佐美圭司)
「グリーン・ボックス」というのは、「大ガラス」という有名な作品の制作メモを入れた箱です。デュシャンが「大ガラス」を構想した過程が、この「グリーン・ボックス」中に入っていて、それを開けた人は「大ガラス」の作品の構想過程を自由に入れ替えてイメージすることができるのです。いったいどうしてデュシャンはこういうことをしたのでしょうか?
近代になって、芸術作品の価値観は多様化しました。これまでのように、技術が高くてセンスが良い画家が、必ずしも高い評価を得られるわけではなくなった、というふうに一般には考えられています。技術の高さを競ってもどれが良いのかわからない、作家の個性も多様化してきましたから、ある人から見てとんでもない色の使い方だとしても、その作家の個性である、と言ってしまえばそれは素晴らしい色使いだということにもなるのです。こんなふうに、作品を評価する要因が作家の個性的な内面だということになると、何でもありになってしまって議論の余地がありません。
デュシャンはそんな近代芸術の傾向を逆手にとって、個性などまったくない、出来合いの大量生産の製品を作品として提示しようとしたのです。それがレディ・メイドです。それから、自分の作品制作の要因をすべて明かした上で、それを他人に委ねてしまう、ということも試みました。それが「グリーン・ボックス」なのです。
このデュシャンの考え方を突き詰めれば、例えばレディ・メイドという作品の価値は、デュシャンがその製品を作品として認めた「考え方(コンセプト)」にある、ということになります。それは同時に、コンセプトが決まれば、その後のことは他人に委ねても差し支えない、ということにもなります。肝心なのは、作家の「考え方(コンセプト)」であって、それが作品制作の要因になるのです。ソル・ルウィットさんの作品は、そのようなコンセプチュアル・アートの考え方を貫いた、優良な作品だと評価されているのです。
そういう美術史の流れを経験してきた私たちは、ここでふと立ち止まって、何がこれからの芸術を豊かにしていくのか、何がいまだに有効なのか、ということを考えなくてはなりません。
私は國分功一郎さんと森田亜紀さんの「中動態」の著作を読んだときに、これは今後の芸術を考える上で、大きな指針になると思いました。忘れられていた「中動態」は、私たちが近代以降で見落としてきた人間性を補完するものだと思ったのです。それで今回は、「中動態」からソル・ルウィットさんの作品を見直してみよう、と企ててみたのです。
そして、今の私が感じているルウィットさんへの食い足りなさは、おおむねこの考察で説明できると思います。実は私は、以前の「中動態」に関する文章の中でも、芸術制作の中から「コンセプト」を抜き出して考える「コンセプチュアル・アート」の考え方について批判的な言及をしていました。次の文章を読んでみてください。
森田の文章を読むと、「主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの、等々の二元的対立」は、時間を「遡行」することによって「見いだされる」ということがわかりますが、例えば現代芸術における「コンセプト」に対する認識は、そんな複雑なものではなく、それらの二元的な対立を短絡的にとらえた結果、「コンセプト」のみを取り出しうる、と考えたもののように思います。コンセプチュアル・アートは、まさに「主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの」のうちの前者のみを取り出して作品化したものだと言えるでしょう。私はそのような果敢な試みを否定しませんが、その試みの後で私たちが何をすべきなのか、と考えると、何やら空しい気分になります。コンセプチュアル・アートによって「主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの」との関係が見直された、というよりは、コンセプチュアル・アートも芸術のひとつの形式として、あるいは商品としてただたんに消費されてしまったのではないか、と思うからです。
そしてコンセプチュアル・アートのような試みの中には、人間の「意志」が何事においても優先する、という深い思い込みが連動している、という気がします。國分が書いていた「近代的主体」の諸問題について、「ポスト○○主義」というような言葉で、あたかも近代を軽々と超えるような思想や方法があるかのように言われますが、実際には依存症の人たちへの偏見のように、「近代的主体」による二元的対立が私たちの思考を縛っているのではないか、と思います。それを解きほぐしていくには、まずは自分自身の身近なことに関して感じる違和を大切にし、後付けでつじつま合わせをしている自分に気づくことが必要でしょう。
例えば現代芸術、現代美術の発展と行き詰まりが、「近代的主体」による二元的対立を違和感もなく飲み込んで、そのうえでそれらを細分化したものだとしたら、再検討すべき問題が山のようにある気がします。「中動態」が、それらの問題を解決する便利なツールだとは思いませんが、その概念によって何かに気づき、何か違った言葉で芸術や美術について語ることができれば、新しい視野が広がってくるのではないか、と思っているところです。
(私のblogより)
図らずも、私はソル・ルウィットさんの作品を見て、半ば自分が以前に書いた文章のことなど忘れていたのに、同じ問題点を実感として受け止めてしまいました。
ただし、ルウィットさんの作品は、私が上の文章の中で書いた商品化された事例にはあたりません。彼は真摯に自分の芸術と向き合った作家ですし、今回の近代美術館の展示も、コマーシャルな評判をねらったものではありません。もっと真面目に、一般的なギャラリーでは再現しづらい「ウォールドローイング」を形として見せよう、という潔い意欲を感じます。
しかし、それだけに「コンセプト」と表現行為を分離して作品を制作することの限界を、私たちは知らなければなりません。先の文章では、ちょっと言い方が弱かったかもしれませんが、私たちがこれからの芸術を考えるときに「中動態」的な思考は必ず必要になります。観念と行為、知性と身体性と感性、それらが一体となった芸術のあり方、もっと言えばそういう人間としての生き方を考えなければならないと私は思います。
そのためには、強い意志を示すものばかりに目を向けないで、一見するとわからないもの、理解するのに時間がかかるものにも、広く視野を向けなければなりません。私の言っていることが抽象的だと思う方は、國分功一郎さんの、あるいは森田亜紀さんの著書を読んでみてください。
それから、20世紀の芸術を反省し、さらに前を向いて進むためには、ルウィットさんの美しい展示をぜひ見ておく必要があります。国立近代美術館に行ったら、上階の常設展示も忘れずに廻ってみてください。大切なものはひっそりと、それでも誰もが見ることができるところにあるものです。