平らな深み、緩やかな時間

225.「批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義 」廣野由美子について①

はじめに、大変恐縮ですが、せっかくこの文章をご覧になった方には、ぜひ前回のblogも見ていただきたいと思います。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/4dc4a620be9d12cbbf4be167d71911d5

そして、そこで紹介した北川聡展は、6月5日まで開催しています。

http://gallery21yo-j.com/

見応えのある展覧会ですので、こちらもぜひ足を運んでみてください。

 

そして今回は、いわゆる文芸批評に関する話です。

残念ながら、文芸批評と比べると、美術批評はマイナーな分野であり、私たちのような一般的な読者が読めるような批評に関する本も、文芸批評の方が多いような気がします。そこで今回取り上げた『批評理論入門』を参照しながら、次回以降は私なりに現代美術批評への応用を試みたいと思っています。そのための基礎となる内容なので、よかったらご一読ください。

 

さて、皆さんは『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)という小説を読んだことがありますか?

イギリスの小説家、メアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley、1797 - 1851)が1818年に匿名で出版した小説です。一般的には『フランケンシュタイン』と呼ばれる怪奇小説です。

今回取り上げる『批評理論入門』という本は、この『フランケンシュタイン』という小説をさまざまな批評理論で応用してみせたものです。それはあたかも、さまざまな死体の部位から形作られた人造人間を、再び切り分けて解剖するような講義である、ということなのでしょうか、その意図がタイトルから感じられます。

ちなみに、この本は2005年に出版されていて、昨年、その続編の『小説読解入門-『ミドルマーチ』教養講義』(中公新書)が出版されて、話題になっていたのですね。そのときのインタビュー記事のなかで、この本についても著者の廣野由美子さんが語っていますので、よかったらご覧ください。

https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/118117.html

それにしても、15年以上前の「新書」について、いまさら話題にするというのも恥ずかしい話ですが、私のヨレヨレの人生を考えると、これぐらいの「一般社会」からの遅延は日常茶飯事です。ピント外れ、時代遅れだと思われてしまったら申し訳ありませんが、しばらくお付き合いください。

 

ところで、フランケンシュタインの物語を、皆さんはどのようにしてお知りになりましたか?

この怪人のことを知らない方はいないと思いますが、たぶん、誰もが何度もリメークされている映画の中で知っているのではないでしょうか?その原典はすでに神話のように扱われていて、私たちは、本当は(?)これがどんな小説なのか、よく知りません。私もこの本を読むまで、原典がどうであったのか、などとまったく気にしていませんでした。

この『フランケンシュタイン』という小説が、傑作なのかどうかはともかくとして、その成立の複雑な状況も含めて、批評理論の素材として格好の作品であるようです。今回は、この著作から文芸批評の手法について勉強すると同時に、冒頭に書いたように次回以降でこのような批評の試みを現代美術に置き換えるとどうなるのか、ということも考えてみたいと思っています。

 

それでは、はじめにこの小説がどのような物語なのか、簡単に確認しておきます。

この小説は、イギリス人の北極探検隊の隊長ロバート・ウォルトンが姉に向けて書いた手紙という形になっています。

ウォルトンはロシアから北極点に向かう途中、北極海で衰弱した男性、ヴィクター・フランケンシュタインと出会い、その奇妙な体験談を聞かされます。つまり、ウォルトンの手紙の中にフランケンシュタインから聞いた話が書かれている、という複雑な「入れ子状」になっている小説なのです。

スイスの名家出身のフランケンシュタインは、父母と弟ウィリアムとジュネーヴに住んでいました。両親はイタリア旅行中に貧しいけれども美しい娘、エリザベスを自分たちの養女にします。主人公のフランケンシュタインは青年になると科学者を志し、ドイツの大学で自然科学を学びます。そして生命の謎を解き明かそうという野心にとりつかれ、墓から人間の死体を手に入れて、それをつなぎ合わせて生命を吹き込もうと試みます。そうして創造されたのが、人造人間である怪人なのです。

誕生した怪人は、怪物と言って良いほどに醜く、そのことに落胆したフランケンシュタインは怪人を残したまま故郷へと逃亡します。一方の怪人は、人間に見つかって酷い目に遭うなどの経験から、人目を忍んで隠れ住みながら言語を習得し、書物から知識を得ていきます。怪人は人並み以上の知能と論理的な思考を持っているのだと思われます。そして彼は、創造主であるフランケンシュタインを探す旅に出ます。その過程でフランケンシュタインの弟ウィリアムを発見した怪人は、ウィリアムを殺害してしまいます。その犯人として間違えて捕らえられてしまったのが家政婦のジュスティーヌだったのですが、フランケンシュタインにはどうすることもできず、彼女は死刑になってしまいます。

その後フランケンシュタインと出会った怪人は、自分の伴侶となる女性の人造人間を造るようにフランケンシュタインに要求します。フランケンシュタインはそれを聞き入れて、女性の人造人間を作りますが、完成間近のところでさらなる怪物の誕生を恐れて、やめてしまいます。怪人はそのことを怒り、エリザベスと結婚することになったフランケンシュタインのもとに現れ、エリザベスを殺してしまいます。憎悪に駆られたフランケンシュタインは怪人を追跡し、北極海までたどり着きますが、途中で倒れてウォルトンの船に拾われて、そこで身の上話をすることになります。

フランケンシュタインは怪人を殺すようにウォルトンに頼み、亡くなってしまいます。その遺体の前に現れた怪人は、創造主であるフランケンシュタインの死を嘆き、北極点で自ら死ぬために消えてしまいます。

 

以上、物語として読むとかなり陳腐な点があります。どうしてこういうふうに書いたのだろう?と思うところが多々ありますが、それがかえってドキュメンタリーを追いかけるようなリアルさを感じます。フィクションとして整えることを拒む何かが、作者のメアリーの中にあったのではないか、という予感です。この点については、とくに最後のところで考えてみることにしましょう。

 

それでは、批評の勉強を始めましょう。

先ほどのあらすじからすぐに気がつくことですが、この小説は時間の経過通りに書かれていません。手紙の中に書かれた聞き書きの話、という「入れ子状」になっていると書きましたが、それを批評の概念では次のような説明になります。

 

「ストーリー」と「プロット」は、一般に粗筋というような意味合いで、ほぼ同義に用いられる傾向がある。しかし、ロシア・フォルマリズム(Russian Formalism)から構造主義(structuralism)、物語論(narratology)へと至る文学研究においては、二つの概念は厳密に区別される。ストーリー(仏:histoire/露:fabula)とは、出来事を、起こった「時間順」に並べた物語内容である。他方、プロット(仏:discours/露:sjuzet)とは、物語が語られる順に出来事を再編成したものを指す。

(『批評理論入門』「第一部 小説技法篇 2.ストーリーとプロット」廣野由美子)

 

そしてこの『批評理論入門』の中では、時間順に筋を追いかけた「ストーリー」と、小説の中の組み立てに沿った「プロット」と比較できるように、いわゆる「あらすじ」がふた通りのやり方でまとめられています。私が先ほど書いた「あらすじ」は、小説の「プロット」に沿ったものということになります。「ストーリー」としてまとめるなら、つまり物事が起こった時間の順に書いていくのなら、冒頭のウォルトンが手紙を綴る場面が最後の方に来ることになります。

こういう話は、理屈っぽく聞こえますか、それとも面白いと思いますか?いずれにしろ、小説の読者であるなら小説家の導く通りに進んでいけば良いのですが、もしも小説の書き手であるなら、このプロットをどうするのか、という問題は、かなり悩むところでしょう。とくにミステリー小説などは、読者に印象的な謎かけをしなくてはなりませんから、時間の順番を入れ替えて何か起こることを仄めかす、という手法をよく使うことになります。

ミステリー小説ではありませんが、あの有名なアメリカの作家、スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896 - 1940)の『夜はやさし』という長編小説は、生前に発表されたオリジナル版と死後に発表された改訂版で、プロットが違っているそうです。時間の前後が入れ替わるオリジナル版と、時間の経過通りに進む改訂版の両方が翻訳されていて、私が読んだのは改訂版の方でした。その後、ドラマ化された『夜はやさし』も見ましたが、こちらも改訂版と同じプロットでした。私にとっては、改訂版の時間通りに進むプロットが『夜はやさし』という物語にふさわしい気がしますが、読み比べたわけではないので、何とも言えません。しかし、フィッツジェラルドのような大小説家でも、このように最後まで迷うものなのだなあ、ということはよくわかりました。

 

それでは、『批評理論入門』の「第一部 小説技法篇」では、どんなことが書かれているのか、まずは目次を見てみましょう。

 

1…冒頭 

2…ストーリーとプロット 

3…語り手 

4…焦点化 

5…提示と叙述 

6…時間 

7…性格描写 

8…アイロニー 

9…声 

10…イメジャリー 

11…反復 

12…異化 

13…間テクスト性 

14…メタフィクション

15…結末

 

この目次の項目の全てに目配りをするわけにはいきませんが、中でも目につくところだけを見ていくことにしましょう。

例えば「3 語り手」の章です。

先ほども指摘したように、この小説はウォルトンの手紙の中で登場人物であるフランケンシュタインが語り、さらにそのフランケンシュタインに語りかける怪人の話があり、というふうにかなり込み入った構成でできています。それに加えて、物語を語っている「語り手」が誰なのか、そしてその「語り手」はどの程度信頼できる人物なのか、という問題も生じてきます。フランケンシュタインにしろ、怪人にしろ、かなり考え方に偏りがある人物ですから、この小説は彼らの主観的な見方に翻弄されていきます。

実はこういうふうに「信頼できない語り手」に物語を語らせる、という手法はミステリ小説でよく見られるもののようです。私の貧しい読書体験の中で、この手法に関して最も衝撃的だったのはアガサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie、1890 - 1976)の『アクロイド殺人事件』です。未読の方は、読んでみてその強烈な衝撃をぜひ味わってください、と言っても、もうすでにこう書いている時点でネタバレをしてしまっていますけど・・・・。

次にこのことに関連して、「9 声」の章を見てみましょう。この『フランケンシュタイン』のように、さまざまな語り手の声で作られている小説は「ポリフォニー的」な小説である、ということができます。この「ポリフォニー的」な小説の分析として、ロシアの批評家ミハイル・バフチンによるドストエフスキーの小説の批評が有名です。そのことについて『批評理論入門』には、このように書かれています。

 

作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を、「モノローグ的」(monologic)という。それに対して、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を、「ポリフォニー的」(polyphonic)あるいは「対話的」(dialogic)と呼ぶ。これらは、ロシアの批評家ミハイル・バフチン(Mikhail Mikhailovich Bakhtin, 1895-1975)が、小説言語の特徴を示すさいに用いた中心概念である。バフチンは『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(Problems of Dostoevskii's Poetics, 1929)において、単一の意識に還元されるトルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoi, 1828-1910)のモノローグ的小説と比較して、ドストエフスキー(Fyodor Mikhailovich Dostoevskii, 1821-81)の「対話的」テクストでは、作者、主人公、登場人物などの複数の声や意識が衝突し合っていて、ポリフォニーを形成していると指摘した。のちにバフチンは、ポリフォニーは、ドストエフスキーの小説のみならず、あらゆる小説に固有の特徴であるとした。つまり、小説とは、いくつもの異なった文体や声を取り込んで、多声的なメロディーを織りなす文学形式なのである。

(『批評理論入門』「第一部 小説技法篇 9.声 voice」廣野由美子)

 

ふだん、私たちはぼーっと小説を読んでいて、語り手がどのように変わっていったのか、そこにどのようなねらいがあったのか、それらの声が交錯することによって、どのような効果があったのか、などということを考えません。しかし、こういうふうに注意深く本を読んでいくと、一つ一つの技法についてさまざまな分析が可能である、ということに気が付きます。そしてこの『フランケンシュタイン』という小説は、言わば小説技法のオンパレードなのです。

さらに、「12 異化」の章を読んでみると、この怪人という存在によって、私たちが人間を見つめ直す機会を得ているのだ、ということがわかります。

あるいは「13 間テクスト性」の章を読むと、この小説が書かれるまでに影響を受けたであろうさまざまなテクストが考察されています。

また「15 結末」の章では、この物語の終末は悲劇として閉じられているのか(閉じられた終わり)、それともさまざまな解釈を生むように曖昧なままに開かれているのか(開かれた終わり)などと論じられています。小説の終わり方まで、技法として位置づけられているのです。

大雑把な紹介になりましたが、ここまでが「第一部 小説技法篇」の内容です。

 

続いて、「第二部 批評理論篇」ですが、この「第二部」は「第一部」以上に批評理論の分析が満載されています。その目次を見てください。

 

1…伝統的批評 ①道徳的批評 ②伝記的批評 

2…ジャンル批評 ①ロマン主義文学 ②ゴシック小説③リアリズム小説 ④サイエンス・フィクション 

3…読者反応批評 

4…脱構築批評 

5…精神分析批評 ①フロイト的解釈 ②ユング的解釈③神話批評 ④ラカン的解釈 

6…フェミニズム批評 

7…ジェンダー批評 ①ゲイ批評 ②レズビアン批評 

8…マルクス主義批評 

9…文化批評 

10…ポストコロニアル批評

11…新歴史主義

12…文体論的批評

13…透明な批評

 

この中で、このblogを読んでいただいている方なら、「4 脱構築批評」が真っ先に目につくのではないでしょうか。「脱構築批評」と言えば、前回までのblogでみてきたように、何だか難しそうな気がしますが、廣野由美子さんは次のように「脱構築」を説明しています。

ある明解な批評に出会うと、私たちは「本当かな」とつい疑ってしまいます。この疑いの気持ちが、すでに「脱構築批評」をおこなっているのだというのです。この疑いの気持ちは、もともとの明解な批評があってこそのものです。「脱構築批評」というのは、このように明解な批評に取って代わるものではなく、明解さの裏に疑いがある、というテクストの矛盾をそのまま批評として示したものだとも言えるのです。

この「脱構築」=「deconstruction」という造語をつくったのが、前回までの『現代思想入門』にも度々登場したフランスの哲学者、ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)です。彼が「白」と「黒」、「意識」と「無意識」などの二項対立の境界線を解消しようとしたことは、以前に私たちも学びました。では、文芸作品において、具体的にその「脱構築批評」はどのように機能しているのでしょうか?『批評理論入門』から、その該当部分を見てみましょう。

 

フランケンシュタインは、生命の根源を探るために、まず死に目を向ける。人間の死んだ身体がいかに腐敗し、美しい姿がいかに醜く朽ちてゆくかを観察することによって、彼は生と死を連続的なプロセスとして捉えるのである。そして、生から死へ、死から生への変容の因果関係を探るうち、「闇のまっただなかから突然光がさして」、秘密が解明する。人造人間の製作に取りかかったフランケンシュタインは、次のように述べる。

生と死は、私にとっては観念上の境界にすぎないように思われた。私はその境界を最初に打ち破り、この闇の世界に光を滝のように降らせるのだ。新しい種は、私を創造主、源として称え、幸せな優れた者たちが、この私から生を受ける。いかなる父親も、私ほど完璧に、自分の子供から感謝を要求する資格はないだろう。(第四章)

このように生と死の二項対立は、境界の曖昧なものとなってゆく。フランケンシュタインは生と死との階層をいったん取り払うことによって、秘密の発見に成功し、死体から生きた人間を造るのである。そして、生命を生み出すというフランケンシュタインの試みは、結果的には、より多くの死をもたらし、幸福よりも不幸を招くことになる。引用部分には、生き生きとした身体と腐敗、光と闇、創造主と被造物、父と子など、二項対立的な要素が数多く含まれ、それらの境界もまた、このあと崩壊してゆくことが暗示されている。

(『批評理論入門』「第二部 批評理論篇 4.脱構築批評」廣野由美子)

 

この小説の中では、死体から生命を得た怪人が人を殺し、自らの死を暗示して終わります。怪人の創造主であるフランケンシュタインは怪人から逃げ回り、終盤では逆に怪人を追う立場に変わります。また、科学者であるフランケンシュタインよりも、にわかに生命を得た怪人の方が時に論理的であり、賢く感じるところもあります。このように二項対立が次々とあらわれますが、それらがことごとく入れ替わり、崩壊していくのです。

ここで注目すべきことは、これらのことが最初から混沌としているのではなく、二項対立がはっきりと見えては崩壊していく、その繰り返しがあったということです。これが「脱構築」という言葉が表す状況なのです。私たちはその難しい言葉、概念を小説を読むことによって体感します。安定した構造が絶えず瓦解していく居心地の悪さや、中心となるものが存在しなかったり、あるいはその期待が裏切られたりすることが、まさに「脱構築」を体感することなのです。

このように互いに矛盾し合い、どちらが正しいのか容易に決定できないことを「決定不可能性」という批評の言葉で言い表すこともできます。何も決定できない状態は、たいへんにもどかしいことです。しかし、私たちは現実を反映したこの複雑さを受け入れなければなりません。そして実はこの小説が書かれた頃も、難しい時代でした。例えばフランス革命における保守派と急進派の対立があり、その対立が異国においても盛んに論じられていました。この小説の作者のメアリーの周囲もそのような状況でしたが、やはり簡単に白黒がつけられなかったようです。

 

そしてメアリーは、女性の表現者としてこれらのこととは別の、もっと複雑な立場にありました。最後に、そのことについて触れておきましょう。

メアリーの興味深い人生については、何度か映画化されているようです。次の文章は、2017年に公開された『メアリーの総て』という映画のホームページに載っていたストーリーの紹介です。

 

19世紀、イギリス。作家を夢見るメアリーは、折り合いの悪い継母と離れ、父の友人のもとで暮らし始める。ある夜、屋敷で読書会が開かれ、メアリーは“異端の天才詩人”と噂されるパーシー・シェリーと出会う。互いの才能に強く惹かれ合う二人だったが、パーシーには妻子がいた。情熱に身を任せた二人は駆け落ちし、やがてメアリーは女の子を産むが、借金の取り立てから逃げる途中で娘は呆気なく命を落とす。失意のメアリーはある日、夫と共に滞在していた、悪名高い詩人・バイロン卿の別荘で「皆で一つずつ怪奇談を書いて披露しよう」と持ちかけられる。深い哀しみと喪失に打ちひしがれる彼女の中で、何かが生まれようとしていた──。

(『メアリーの総て』ホームページより)

https://gaga.ne.jp/maryshelley/

 

メアリーの母親はフェミニズムの創始者とも言われるメアリー・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft、1759 - 1797)という有名な女性だったのですが、メアリーを産んで間もなく亡くなります。そしてメアリー自身は17歳の時に駆け落ちし、その不安定な生活の中で、バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788 - 1824)の別荘でこの『フランケンシュタイン』の物語を思い立ちます。そしてこの小説が形になってきたところで、はじめは自分の名前を伏せて発表したのだそうです。その経緯について、「フェミニズム批評」の項目の中で、廣野由美子さんはこう書いています。

 

フェミニズム批評は、1970年代以降、性差別を暴く批評として登場した。しかし、その立場や目的によって、批評の方法は多岐にわたる。たとえば、男性作家が書いた作品を女性の視点から見直し、男性による女性の抑圧がいかに反映されているか、あるいは、家父長制的なイデオロギーが作品をとおしていかに形成されているかを、明らかにするという方法もある。

これに対して、女性の書いた作品を研究対象とする立場が、「ガイノクリティックス」(gynocritics)である。文学伝統は男性中心に形成されてきたものであるため、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、女性が書いた作品を再評価しようとしたりするのが、この批評の目的である。

また、幼児が言語の世界に入ってゆく仕組みを、男児のエディプス・コンプレックスとの関連から論じたラカンに刺激されて、彼の理論で軽視されている「女性と言語との関係」を探究しようとする立場もある。ことに1970〜80年代フランスのフェミニズム批評では、言語の問題に焦点を当てる傾向が目立ち、女性作家の作品がいかに女性特有の言語で書かれているかについて検討が進められる。

女性として書くこと(見出し)

『フランケンシュタイン』は、作者が女性であるという点で、まさにガイノクリティックスの格好の対象となる。まず着目すべきことは、作者が自分の名を伏せて作品を出版したことである。そこには、メアリ・シェリーの個人的な事情もあったと思われる。妻のある男性との駆け落ちによって、醜聞の的となっていたメアリは、自ら名を伏せたいと望んだのかもしれない。また、両親や夫が有名な文学者であることは、彼女自身の文学的才能を世に問ううえで、必ずしも有利であるとはかぎらなかっただろう。あるいは、彼らの急進的な著作に対して、世間がいかに非難を浴びせたかということを、身近に知っていた経験から、メアリは匿名のほうが気楽だと思ったのかもしれない。

しかし、作者が女であるということも、おそらく匿名の理由のひとつであっただろう。一般に女性の読み書き能力が男性よりも劣るとされていたばかりか、ペンで自己表現することが男の領分に属すると見なされていた時代に、女性の名を名乗って作品を発表することは、軽視されたり批判を招いたりする危険があった。

(『批評理論入門』「第二部 批評理論篇 6.フェミニズム批評」廣野由美子)

 

フェミニズムに関して、無知である私には目新しいこと、重要なことが書かれているので、つい長い引用になってしまいました。「ガイノクリティックス」という言葉も初めて知りましたし、それにフロイト(Sigmund Freud、1856 – 1939)からラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901 - 1981)に至る精神分析が、男性中心的であることが分かりやすく書かれていて、納得しました。以前から、フロイトの精神分析は男性から見た心理的な物語だな、と思っていましたので、こういうふうに学問的に分析していただくとスッキリとします。

それから、メアリーが書いた『フランケンシュタイン』を、夫がかなり手を入れてしまったということも、この『批評論理入門』に書かれています。これは当時の状況からすれば、夫による妻への支援だと見做されたわけですが、今なら安易にこのような他者の表現への介入はしないでしょう。果たして夫の行為の中に、メアリーへのリスペクトがあったのでしょうか?仮にリスペクトがあったとしても、それが十分であったとは思えませんが・・・。

さらにこの『批評理論入門』では、この小説の書かれた時期にメアリーが妊娠、出産、子供の死を続け様に経験したことが指摘されています。そして小説の主人公である怪人の誕生と死の予感は、作者の出産体験を「ゴシック的な幻想」として表現したものではないか、とも書かれています。これは文学史上稀有なことであり、「『フランケンシュタイン』はかりに偉大な小説ではないとしても、真に独創的な小説と言えるだろう」とも廣野さんは書いています。

 

こんなふうに、具体的に「小説」を批評的に読み解いていくと、難しい批評概念がわかりやすく、そして必然性があるものとして見えてくるから不思議です。また、『フランケンシュタイン』という小説が、さまざまな論理を誘発する可能性を持った、魅力的な小説であることがわかります。それはこの小説が名作であるかどうか、ということとは別なことなのです。

それにしても、なぜこのように理論的に、つまり理屈っぽく小説を読まなくてはならないのでしょうか?その小説の良さがわかれば十分ではないか、自分の中の自然な感受性に任せて読めばいいではないか、という声も聞こえてきそうです。もちろん、そういう読み方が基本的に正しい、と私も思います。しかし、その一方で例えば最後に取り上げたフェミニズム的な小説の読み方などは、私の自然な感受性では一生気づかなかったことでしょう。「自然に」とは言っても、私たちの感覚はすでにさまざまな既成概念にとらわれているのです。そのことに気づき、より自由に小説を堪能するためには、ときに理論の力を借りることが必要なのです。

 

さて、そんな批評眼を身につけるために、というわけではありませんが、せっかく文芸批評の勉強をしたので、この理論を現代美術に落とし込んでみたら・・・、ということを次回以降でやってみたいと思います。この廣野由美子さんのように広く、完璧に理論を応用することは不可能ですが、その中でとくに面白そうな観点を拾ってみたいと思います。

ということで、今回は文学の話を追いかけるだけになりましたが、次回は美術の話を書きます。ご期待ください。

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