The Swerve: How the World Became Modernの邦訳
著者スティーヴン グリーンブラット, Stephen Greenblatt
著者スティーヴン・グリーンブラット(Stephen Greenblatt)はシェークスピアやルネサンス研究の専門家。
1417年・15世紀、教皇の秘書でありブックハンターであり、優秀な筆写人でもあったイタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニがドイツのフルダ修道院で、古代ローマ詩人ルクレティウスの『物の本質について』を見つけ出し、世に送り出す経緯が「推測」も含めて描かれている。そして、『物の本質について』に影響を受けた人たち、キリスト教の呪縛から解き放たれてルネサンスを作り出していくのである。
ポッジョは教皇秘書として古典写本の収集翻訳に携わっていた。
当時は移動そのものに制限がかけられており、関所の通行料など多額の旅費を必要とする時代であった。
フルダ修道院で『物の本質について』を見つけ出したというのは著者の推測であり、ポッジョがドイツ南部のフルダ修道院に立ち寄った履歴から、写本をした可能性が高い場所として「決め打ち」している。
活版印刷発明以前においては正確無比な写本術は極めて重要な技術であった。ポッジョは自身の高い写本術を駆使するとともに、ブックハンターとしてもすでに著名であり、古典で「読むに値する」として示唆されていた「ルクティウス」の著書を探していた。ポッジョによってルクティウスの著書は歴史の泥流から拾い出されたが、他に挙げられていた人物たちの書籍は1冊も見つかっていない。
多神教時代の書籍を僧院で閲覧する事自体が極めて難しい時代において、教皇の秘書という立場は優位に働いたと推測される。著書は加えてポッジョの優れた交渉人としての能力を挙げている。
ポッジョ自身が『物の本質について』の真意、つまり、古代ギリシャのエピクロス学派の系譜に連なる原子論が唱える世界観についてどの程度理解していたのか定かではない。
ブックハンターとしては同時代のニッコロ・ニッコリが有名であり、ポッジョは『物の本質について』はニッコリに長く貸し出している。「早く返してくれ」と督促の手紙が残っている所見ると「写本の写本」は作っていなかったようであるし、ポッジョ自身が内容を深く吟味する工程については本著作内では見受けられない。
活版印刷以前の時代は本の複写は写本をする以外の方法はなく、パピルスは「虫による侵食」に長い年月を耐えることができなかった。僧院では羊皮紙を写本としていたが、羊の皮を使っているので、費用も高く貴重なものであったが、長い時間に対する耐久性には優れていた。羊皮紙は貴重であったが故に、小刀で全文字を削って上書きして再利用されており、削り取れた文字を判読して発掘された著作が幾つも存在する。
著者は中世キリスト教の現世否定来世礼賛から西欧が抜け出した起因を(ギリシャ時代)エピクロス-(ローマ時代)ルクレティウスの原子論の発見によるものであり、「死後の世界は存在しない」とする現世肯定思想の伝搬によるとする。著者は近代社会の到来は「原子論の再発見」によるものと推論しているのである。
原子論とは、万物は原子で構成され、人も動物も山も海も星も同じもので出来ていると主張したのである。人は死ねば、原子に戻り、その原子が今度は他の動物や植物を構成することになる、という考え方である。
加えてエピクロス学派は、人が死ねば霊魂など残らないし、来世のことなど思い悩むのではなく、生きている人生の充実、楽しみをこそ最大にするように生きるべきだと主張した。
エピクロス思想家を「エピキュリアン」と呼称し、通俗的には「エピキュリアン」は快楽至上主義とされている。しかし、エピクロスは前述の通り、堕落や怠惰や退廃的な快楽を主張したわけではない。
エピクロスの思想は時を経て蘇り、研究者の間では復権を遂げ、まさに「時による救済」とはエピクロスのための言葉であるとまでも言われているが、一般的には意図的な誤解がまかり通っている。
一つには、キリスト教とエピクロスの思想が相容れる事がなく、エピキュリアンは「肉体の復活」や「魂の不滅」を唱えるキリスト教を根底から否定する以前に、全く考慮に値しないと「冷笑」したのである。
これに対し、キリスト教側はエピクロス思想に対する徹底的な封殺を行ったのである。
後に溶岩流に埋まったポンペイの別荘から『物の本質について』が記述されたパピルスが発掘されるのであるが、極一部しか解読できなかった。
グリーンブラッドは(信仰の熱波は)「ヴェスヴィオス火山の溶岩流ほどは優しくなかった」と揶揄している。
つまり、それほどに徹底的なエピクロス思想の殲滅が行われたのである。
修道院では頻繁に「折檻」が行われていた。金具を付けた鞭で幾度も折檻し、隣にいた司祭に飛び散った血が顔にかかることもあったそうだ。
おそらく「過剰な折檻」で寿命を縮たり、そのまま死に至ることもあったと推測される。
これはエピクロス的な苦痛は避けて快楽的な状態に身を置く、という思想と対極的な行為である。
死後の世界に重きを置くキリスト教と、現世をより良く・より心地よく生きることを主張したエピクロスは対向概念とすら言える。
この事がエピクロス的思想が長い間隠匿された最大の理由と思われる。
ポッジョ自身は『物の本質について』の発見により名声を高め、教皇庁内部での役職の階段を登っていくが、後に『物の本質について』は印刷が禁止され、ルクレティウスの世界観を公然と語ったものは火あぶりにされた。
しかし、原子論的世界観はラファエルやボッチチェリをはじめとするルネサンスの芸術家に影響を与え、ニュートンに影響を与え、トマスジェファーソンのアメリカ独立宣言に影響を与え、そしてダーウィンの進化論にも影響を与えた。
マキャベリが所有していた『物の本質について』には多量の書き込みが残されており、相当に読み込んだ痕跡が伺える。触発されて『君主論』を著したとされる。
マキャベリはチェーザレ・ボルジアと親交があり、レオナルド・ダ・ビンチは一時期チェーザレをパトロンとして従軍を経験している。
ダ・ビンチがラテン語を習得すべく、単語を繰り返し書いたノートが残されており、私はダ・ビンチも『物の本質について』の影響を受けている可能性があると推測している。
ルクレチウスと科学 寺田寅彦
現代科学にそのまま適用はできないが、2000年も前に近代の物に即した見方に通じる科学精神が存在していた、という評価。
雨だれが石を穿(うが)つのは、
激しく落ちるからではなく、
何度も落ちるからだ。
(ルクレティウス)
(おすすめ)
Stephen Greenblatt on Lucretius and his intolerable ideas
https://www.youtube.com/watch?v=mXqHOF1B808&ab_channel=GettyMuseum
著者スティーヴン グリーンブラット, Stephen Greenblatt
著者スティーヴン・グリーンブラット(Stephen Greenblatt)はシェークスピアやルネサンス研究の専門家。
1417年・15世紀、教皇の秘書でありブックハンターであり、優秀な筆写人でもあったイタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニがドイツのフルダ修道院で、古代ローマ詩人ルクレティウスの『物の本質について』を見つけ出し、世に送り出す経緯が「推測」も含めて描かれている。そして、『物の本質について』に影響を受けた人たち、キリスト教の呪縛から解き放たれてルネサンスを作り出していくのである。
ポッジョは教皇秘書として古典写本の収集翻訳に携わっていた。
当時は移動そのものに制限がかけられており、関所の通行料など多額の旅費を必要とする時代であった。
フルダ修道院で『物の本質について』を見つけ出したというのは著者の推測であり、ポッジョがドイツ南部のフルダ修道院に立ち寄った履歴から、写本をした可能性が高い場所として「決め打ち」している。
活版印刷発明以前においては正確無比な写本術は極めて重要な技術であった。ポッジョは自身の高い写本術を駆使するとともに、ブックハンターとしてもすでに著名であり、古典で「読むに値する」として示唆されていた「ルクティウス」の著書を探していた。ポッジョによってルクティウスの著書は歴史の泥流から拾い出されたが、他に挙げられていた人物たちの書籍は1冊も見つかっていない。
多神教時代の書籍を僧院で閲覧する事自体が極めて難しい時代において、教皇の秘書という立場は優位に働いたと推測される。著書は加えてポッジョの優れた交渉人としての能力を挙げている。
ポッジョ自身が『物の本質について』の真意、つまり、古代ギリシャのエピクロス学派の系譜に連なる原子論が唱える世界観についてどの程度理解していたのか定かではない。
ブックハンターとしては同時代のニッコロ・ニッコリが有名であり、ポッジョは『物の本質について』はニッコリに長く貸し出している。「早く返してくれ」と督促の手紙が残っている所見ると「写本の写本」は作っていなかったようであるし、ポッジョ自身が内容を深く吟味する工程については本著作内では見受けられない。
活版印刷以前の時代は本の複写は写本をする以外の方法はなく、パピルスは「虫による侵食」に長い年月を耐えることができなかった。僧院では羊皮紙を写本としていたが、羊の皮を使っているので、費用も高く貴重なものであったが、長い時間に対する耐久性には優れていた。羊皮紙は貴重であったが故に、小刀で全文字を削って上書きして再利用されており、削り取れた文字を判読して発掘された著作が幾つも存在する。
著者は中世キリスト教の現世否定来世礼賛から西欧が抜け出した起因を(ギリシャ時代)エピクロス-(ローマ時代)ルクレティウスの原子論の発見によるものであり、「死後の世界は存在しない」とする現世肯定思想の伝搬によるとする。著者は近代社会の到来は「原子論の再発見」によるものと推論しているのである。
原子論とは、万物は原子で構成され、人も動物も山も海も星も同じもので出来ていると主張したのである。人は死ねば、原子に戻り、その原子が今度は他の動物や植物を構成することになる、という考え方である。
加えてエピクロス学派は、人が死ねば霊魂など残らないし、来世のことなど思い悩むのではなく、生きている人生の充実、楽しみをこそ最大にするように生きるべきだと主張した。
エピクロス思想家を「エピキュリアン」と呼称し、通俗的には「エピキュリアン」は快楽至上主義とされている。しかし、エピクロスは前述の通り、堕落や怠惰や退廃的な快楽を主張したわけではない。
エピクロスの思想は時を経て蘇り、研究者の間では復権を遂げ、まさに「時による救済」とはエピクロスのための言葉であるとまでも言われているが、一般的には意図的な誤解がまかり通っている。
一つには、キリスト教とエピクロスの思想が相容れる事がなく、エピキュリアンは「肉体の復活」や「魂の不滅」を唱えるキリスト教を根底から否定する以前に、全く考慮に値しないと「冷笑」したのである。
これに対し、キリスト教側はエピクロス思想に対する徹底的な封殺を行ったのである。
後に溶岩流に埋まったポンペイの別荘から『物の本質について』が記述されたパピルスが発掘されるのであるが、極一部しか解読できなかった。
グリーンブラッドは(信仰の熱波は)「ヴェスヴィオス火山の溶岩流ほどは優しくなかった」と揶揄している。
つまり、それほどに徹底的なエピクロス思想の殲滅が行われたのである。
修道院では頻繁に「折檻」が行われていた。金具を付けた鞭で幾度も折檻し、隣にいた司祭に飛び散った血が顔にかかることもあったそうだ。
おそらく「過剰な折檻」で寿命を縮たり、そのまま死に至ることもあったと推測される。
これはエピクロス的な苦痛は避けて快楽的な状態に身を置く、という思想と対極的な行為である。
死後の世界に重きを置くキリスト教と、現世をより良く・より心地よく生きることを主張したエピクロスは対向概念とすら言える。
この事がエピクロス的思想が長い間隠匿された最大の理由と思われる。
ポッジョ自身は『物の本質について』の発見により名声を高め、教皇庁内部での役職の階段を登っていくが、後に『物の本質について』は印刷が禁止され、ルクレティウスの世界観を公然と語ったものは火あぶりにされた。
しかし、原子論的世界観はラファエルやボッチチェリをはじめとするルネサンスの芸術家に影響を与え、ニュートンに影響を与え、トマスジェファーソンのアメリカ独立宣言に影響を与え、そしてダーウィンの進化論にも影響を与えた。
マキャベリが所有していた『物の本質について』には多量の書き込みが残されており、相当に読み込んだ痕跡が伺える。触発されて『君主論』を著したとされる。
マキャベリはチェーザレ・ボルジアと親交があり、レオナルド・ダ・ビンチは一時期チェーザレをパトロンとして従軍を経験している。
ダ・ビンチがラテン語を習得すべく、単語を繰り返し書いたノートが残されており、私はダ・ビンチも『物の本質について』の影響を受けている可能性があると推測している。
ルクレチウスと科学 寺田寅彦
現代科学にそのまま適用はできないが、2000年も前に近代の物に即した見方に通じる科学精神が存在していた、という評価。
雨だれが石を穿(うが)つのは、
激しく落ちるからではなく、
何度も落ちるからだ。
(ルクレティウス)
(おすすめ)
Stephen Greenblatt on Lucretius and his intolerable ideas
https://www.youtube.com/watch?v=mXqHOF1B808&ab_channel=GettyMuseum