謀略の都(上) 1919年三部作 1 (講談社文庫) | |
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現世田谷区長保坂展人は社民党出身であるが、社民党員時代は社民党東京都連と仲が悪かった。これには自治労などの官公庁系労組との軋轢などがあった。保坂は執念深いので、当時の社民党東京都連合代表の北川かつしげ氏の選挙区であった練馬区議選に社民党公認候補として「すなやま亮子氏」を出馬させた。社民党TOKYOユースが担いだと言われているが、事態は保坂事務所に出入りしていた連中である。
当初から、社民党の衰退は顕著で、空席の選挙区も多かった。わざわざ練馬から2人も立候補すれば共倒れは必至であり、結果として、すなやま亮子氏、北川かつしげ氏共に落選した。
悲惨なのは「当て馬」にされた、すなやま亮子氏である。しかも、すなやま氏は当初練馬とはさしたる関係も無かったところ、移住して立候補したと聞いた。
統一地方選挙で社民党公認候補が2人も立候補したのは練馬区だけだろう。党勢を考えれば異様なことであり、すなやま氏自身には、別の空白選挙区から立候補するという判断が出来なかった事が悔やまれる。しかし、保坂事務所の連中がどんどん話を進めてしまった。元々、練馬区は北川かつしげ氏の地盤であったのだから、勝算なんか無かったはずだ。社民党の看板は一部の労組系の集票力があるが、それは北川氏の領分である。社民党の看板は浮動票を取り込むには向いていないのに、社民党公認候補で参戦すること自体が無謀であるどころか、社民党の議席を減らす結果となったのである。