SMILEY SMILE

たましいを、
下げないように…

遺産

2005-03-24 19:41:14 | 太宰
ボードレールは麻薬に酔い痴れていたから『人工楽園』が書けたのではない。資質上の、あるいは生活上の弱点や破綻か麻薬中毒におちいりながら、なお醒めた部分がその詩の宇宙を形づくったのである。太宰治についても同様であって、表現というものがもつ自己の自由の宿命化によって、資質的な運命性に自己呪縛の加速度をあたえることによって、その生命は燃焼し尽くしたが、私たちにとって価値のあるのは、あくまで表現の側であって、資質そのものではない。

~高橋和巳「滅びの使徒」


実生活では、社会や世間というものに全くといっていいほど適応でき

なかった太宰さん。彼は、なにより作品の上で、より深い、コミュニ

ケーションを夢みた。人間であるより、小説家としての生を全うした

太宰さん。

負の十字架という言葉は決して大袈裟な芸術家の自己陶酔と言い切

れないと思う。不朽の作品は、尊い犠牲なしには創り得ない。

私たちは、その遺産をしっかり受け止めなくてはいけない。感傷に浸

ってばかりいられないのだ。


私たちは、決して同じ道を歩む必要はない。彼の血と悔恨が生んだ作品によって開かれた世界を、想像と追体験によって一足飛びに我がものとし、そして<解った>と呟けるときがくれば、その世界を背後におき去りにしてもよいのである。

~同上

距離感の快不快

2005-03-24 18:40:24 | 太宰
太宰さんは好き嫌いがはっきり分かれる。その理由は距離感にあると

思う。

彼は、近い。

彼の作品の語りは、初対面なのに隣に座って、耳元で囁いてくる感じ

だ。イヤらしくなく、図々しくなく、そっと自然に、…自然を装って?

その語りの妙にコロッといってしまう人と、

ギョッとして引いてしまう人。

このふたつに分かれるんじゃなかろうか?


辻口さんは何処へゆくのか?

2005-03-24 18:09:10 | 
モンサンクレール Mont St. Clair

自由が丘ロール屋

ル・ショコラ・ドゥ・アッシュ LE CHOCOLAT DE H

和楽紅屋

マリアージュ・ドゥ・ファリーヌ Mariage de Farine

コンフィチュール・アッシュ Confiture H


これら6店舗は日本が誇るパティシエ、辻口博啓さんのお店。

しかも、6店すべて違うコンセプトのお店。

モンサンクレールは、ケーキメインでパンやチョコも扱う。

ロール屋は文字通りロールケーキ専門店。

LE CHOCOLAT DE Hはチョコレート専門店。

紅屋は、和素材を活かしたラスク屋さん。

Mariage de Farine はパン屋さん。ケーキもある♪

Confiture H は、ジャム専門店。

という徹底した専門店政策(?)

90年代後半からのスイーツのトレンドの中心人物である辻口さん。

モンサンクレールがオープンした当初、私は自由が丘で働いていて、

足繁く通ったものでした。

今では他の追随を許さない日本の、世界のツジグチになりつつありま

す。

今後は、パリやニューヨークへの進出を目論んでいるのでしょう。

なんて野心家なんだろう・・・。

マスコミに持て囃されれば持て囃されるほど、他の同業者からは妬ま

れる。あまり同業者には好かれていないようです。出る杭は・・・。

孤高という言葉を使うのは、好きではないけれど、彼は、

孤高のパティシエなんでしょうね。

石川県七尾市の小さな和菓子屋の息子が、世界一を決めるコンクール

で頂点に立ち、独立。日本を制覇し世界に挑む。そして名実とも世界

一のパティシエになる・・・。

このサクセスストーリーはまだまだ続きがあります。

私は、どきどきしながら辻口さんを見守っている。

辻口さんは次、何をやってくれるんだろう?

以下は最近オープンしたConfiture H のコンセプトです。


「世界のフルーツを一つの小さな瓶に詰め込み一つの心を表現する。

(略)心と心のつながりは、人類の繁栄の証。フルーツのもつ香り、
 
 ・食感を最大限に引き出し、それをひとすくいのスプーンで表現

 します。素材の持つ特色を組み合わせることにより、お互いが共鳴

 し、新しい味覚が生み出されます。」






恍惚と不安

2005-03-24 03:29:56 | 太宰
―ああ、主よ、われ如何にしてけん?あわれ、見そなわせ、わが主、
われいま不思議なるよろこびの涙に濡れてあり、
御身が声は同時にわれをよろこばせ、われを苦します、
その喜びも苦しみも同じくわれに嬉しきかな。

われ笑ひ、われ泣く、盾に立ちて
運ばれ行く青白の天使の姿ある戦場へ
征けと鳴る喇叭を聞くと似たるかな、
その音ほがらかにわれを導く男男しかる心へと。

撰ばれて在ることの恍惚と不安と双つわれにあり、
われにその値なし、されどわれまた御身が寛容を知れり、
ああ!こは何たる努力ぞ!されどまた何たる熱意ぞ!

見そなわせ、われここにあり、御身が声われに現せし望に眼くらみつつ
なお然も心つつましき祈にみちて
おののきて、呼吸(いき)したり……

堀口大学訳『ヴエルレエヌ詩抄』「智慧」の「巻の二」の「その八」


もとはと言えばヴェルレーヌの信仰者として神に選ばれた者としての

<恍惚と不安>なのですが、太宰さんは芸術家、作家としての恍惚と

不安として処女作『晩年』の巻頭「葉」のエピグラフにこの言葉を挙

げました。

なんてナルシスティックなんだろう、と思うけれども、誰にだってある

思いではありませんか?

人間として生きていることの恍惚、そして不安。

恍惚だけでは、きっと葬られてしまう。

不安だけでは、早々に世から辞することになりそうです。

危ういバランスの上で、私たちは綱渡りをしているのでしょうか。



だめだこりゃ

2005-03-24 02:02:07 | 太宰
路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、

みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、

私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたと

ならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。

いつたい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」をかしくもない。


~太宰治「思案の敗北」昭和十二年


確か、だいぶ前にもこの言葉、取り上げて記事にしたと思う。

相変わらずだらしない恋情に溺れている私は、「他人」の文字がない

様子。

どんな関係を夢みているのだろう。

濃密な、母子の一体感を憧れているのだろう。それ以外の関係という

のがまだ呑みこめないようだ。愛だ恋だもわからない。淋しさと不安

だけがある。

桃源郷の夢をみる。
(なんて思っているから、救われないんだ。)

なんて、これじゃァ、いつまで経ってもダメだ。
(自虐は醜いネ)







2005-03-24 00:38:28 | 
変に生々しい夢だった。

魚が道に敷き詰められていた。

精巧なサンプルの如き魚は、まるで先程まで生きていたかのように、

いや、もしかしたらあれは生きていて動けなかっただけなのかもしれ

ない。

・・・そう、そうだ、あのとき時間が止まっていたのだ。跳ねた魚が

口を開け、身をよじらせ宙に浮いていたのだ。

それらは、キズひとつなく、てらてらと光っていた。

そのなかを、ぼくは歩かなければならなかった。

魚たちを踏みつぶしながら。

不思議なことに匂いは全くない。

ただ、踏みつぶす足の感覚だけは、生々しく覚えている。

どうしても歩かねばならなかった。

歩みを進めるたびに、魚たちの悲鳴が聞こえるようだった。

足元を見ずに、ただ歩く。

何故歩かなければならないたんだろう。

先に何があるのかは、わからない。