「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

新たな時代の多喜二よ、世界を美しい構成に変えよ!!!

2009-01-16 23:06:27 | つぶやきサブロー
1920-30年代の日本に多喜二をはじめとしたプロレタリア文学のキラ星のごとく、世界革命を夢見た人々がいたことを知ることは、いま青春を生きている人々にとっても大きな刺激となるものと思います。

多喜二と同じく、1933年にこの世を去った宮澤賢治「若き僚友に」詩の一節にある、「新たな時代のマルクスよ、世界を美しい構成に変えよ」というメッセージをいま、真剣に受け止めるべきでしょう。




                   

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9 コメント

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あめゆじゅとてちて けんじゃ (御影暢雄)
2009-01-17 08:51:38
未来氏の掲示板に書いたことがありますが、宮沢賢治は屈指の、労農党への献金者だったそうです。彼が、農民への啓蒙NPOとして立ち上げた羅須地人協会は警察から睨まれて、活動休止に追い込まれたとか。石川啄木、小林多喜二、宮沢賢治と、東北・北海道出身者が輩出したのは、同エリアが日本の当時のワーキング・プア・ゾーンだったからでしょうか。
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Unknown (佐藤)
2009-01-17 10:03:18
宮澤賢治は、修学旅行の引率で小樽へ来たことがあります。多喜二の母校・小樽高等商業学校に来訪の記録が残っています。
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二アミス (御影暢雄)
2009-01-17 11:07:37
早速、調べましたが宮沢賢治が花巻農学校修学旅行の引率で小樽に来たのは、1924年で、多喜二は拓殖銀行に勤め始めた年ですから、賢治らの一行が銀行の近くを通り過ぎたと考えられますね。
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宮沢賢治 (めい)
2009-01-17 11:17:46
そのような詩があるのですね!
感動してしまいました。。

やっぱり、宮沢賢治は奥が深いですね。。。
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永訣の朝 (御影暢雄)
2009-01-17 12:25:25
「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」(賢治兄さん、雪みぞれを取って持ってきて下さい)は、有名な詩「永訣の朝」の一節です。賢治の詩集「春と修羅」に、「松の針」「無声慟哭」とともに、妹の最期に立ち会った悲しみを歌っています。妹セキは花巻女学校教諭でまだ25才だったとのことです。(1922年)
 YAHOO検索で「宮沢賢治 永訣の朝」を調べると、全文を読むことができます。
 私は、賢治の事になると「雨二モ負ケズ」とともに「あめゆじゅ」が頭に浮かんでしまいます。
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下司順吉と宮沢賢治 (佐藤)
2009-01-17 13:55:41
戦前からの共産党の活動家下司順吉と宮沢賢治が交流があったとの記事を読んだ記憶がある。
下司順吉は宮沢賢治に、レーニンの「国家と革命」をレクチャーしたが、宮沢賢治はそれを受け入れながらも法華経信仰の道に進んだと。
下司順吉もすでに人々の記憶の彼方にあるようだ。
以下の記事にその名はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本共産党知りたい聞きたい/戦前、22歳で命を奪われた日本共産党員、藤本仁太郎とは?

 〈問い〉 戦前、関西地方の日本共産党員のたたかいはすごかったと先輩に聞きましたが、そのなかで、22歳で命を奪われた、藤本仁太郎という名がありました。どんな人ですか?(大阪・一読者)
 〈答え〉 戦前、天皇制権力の暴圧のもとで、少なくない日本共産党員が侵略戦争に反対し国民主権の世の中をつくるためにたたかい、命を奪われました。1934年(昭和9年)12月8日の夜明けに22歳11カ月の生涯を終えた藤本仁太郎(じんたろう)もそんな一人です。
 藤本は、32年10月30日の弾圧で壊滅した日本共産党関西地方委員会の再建のために21歳の若さで関西地方委員長となります。翌年3月に逮捕され、特高警察の残虐な拷問と獄中の虐待によって重体となり、仮釈放され23日後に亡くなりました。
 藤本は兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市日高町)の自作農家の6人きょうだいの二男で、村の高等小学校を卒業すると製糸工場の給仕となり、昼は働き夜は中学講義録で勉強しました。
 世界恐慌下、低賃金と激しい労働、劣悪な労働環境の製糸工場の中で、藤本は、女性労働者の待遇改善の要求を支持して会社側とあらそい、30年3月、在職4年で退職します。その後、生家の農業を手伝い、村の青年団に入って、プロレタリア文学・芸術運動の機関誌『戦旗』をかくれて読むように。読書会や回覧雑誌を組織する計画をたてますが、警察からのよびだしと親の反対をうけ、その年(30年)の12月上旬、家を出て神戸へ行き、シバタゴム工場で働き始めます。工場では、文化サークルを組織、翌年に非合法化下の日本共産党に入党、工場に党員4人の細胞(現支部)をつくり、細胞長になり、工場新聞を発行しました。
 当時、関西の党組織は31年8月26日の大弾圧で約1千人が検挙され、下司順吉、峠一夫など185人が起訴されて壊滅的な打撃をうけた直後でした。検挙を逃れた共産党員は、各工場に細胞をつくり、藤本は再建された党神戸市委員会の委員に選ばれました。神戸製鋼のある職場では党員7人で、500人中200人の労働者を革命的な工場委員会に組織しますが、32年7月、ストライキ準備中に工場だけで120人以上が検挙されました。その一人、岡山県津山市出身の須江操は、特高警察の野蛮な拷問でひん死の状態になって、仮出所後4日目に21歳で死去しました。
 32年10月30日の大弾圧のさい、逮捕をまぬがれた藤本は、ひるむことなく、関西の党組織再建の中心になります。33年2月26、27日には、小林多喜二の虐殺に抗議したプロレタリア演劇団の追悼劇上演(中之島公会堂で5千人の労働者が参加)や、同27日の神戸三菱造船労働者2千人によるストライキなど勇敢なたたかいをつづけました。
 しかし、計画していた、小林多喜二の労農葬の3日前の3月12日夜、ついに藤本は天王寺の路上で逮捕されたのです。
 ふたたび、戦争への道を歩まないためにも、これら反戦平和のためにたたかい抜いた一人ひとりの人生を語り継ぐことが必要ではないでしょうか。(喜)
 〈参考〉『新版・不屈の青春~戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社)
( 2007年11月03日「赤旗」)
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Unknown (佐藤)
2009-01-17 13:59:31
槇村浩の詩集『間島パルチザンの歌』に「同志 下司順吉」(?)という詩があったかもしれない。
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「短歌の花だより」ブログ (御影暢雄)
2009-01-17 15:34:49
ブログ「短歌の花だより」(高知県・藤本義一氏主宰)んお2008年9月2日記事によれば、槇村・下司(げし)ともに高知県の出身で、確かに「間島パルチザンの歌」で下司を歌った詩が書かれているとのことです。
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いい勉強になります (小山)
2009-01-17 17:34:53
いやー、いい勉強になりました。
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