「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二がシゲテーのコンサートに行ったのは1931年6月17日だった

2009-12-13 19:14:00 | 多喜二研究の手引き
『民主文学』1973年2月号に掲載された 「一九三二年十二月九日の多喜二」(みずの・あきよし)を検討した結果、その根拠を採用するには薄弱すぎると判断する。

よって、

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当時の共産党は、すでに入党を認められロシアからひそかに帰国していた蔵原惟人を中心に文化関係フラクを建設中であった。以前から指導を仰いでいた多喜二は蔵原と秘密裏に連絡をとり行動を共にし、非合法活動にはいっていた。

ともに上京しながら別に生活していた三吾は、1931年6月17日、日比谷公会堂で開催されたシゲテーのコンサートで、久しぶりに兄・多喜二と再会した。

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と年譜での扱いは改めなくてはならないことを確信した。
よって以下の通り、訂正する。


1931(昭和6)年 
★1月『市民のために!』(『戦旗三十六人集』収)改造社、「蟹工船」「不在地主」「救援ニュースNo.18.附録」



1月22日、保釈出獄。壷井栄らが出迎える。市外杉並区成宗88番地 田口守治方に下宿。

1月23日、新宿・不二家で宮本百合子たちと会う。

1月23日 松岡洋右代議士が「満蒙生命線」論を主張


25日、「『市民のために!』」収録の『戦旗三十六人集』発売。

同25日、2月発売予定の「『市民のために!』」を収録の改造社版現代日本文学全集第(62)編『プロレタリア文学集』のため自筆「年譜」。

2月上旬、立野信之釈放。

「工場細胞」の続篇、「オルグ」を起稿。
★2月、ロシアから蔵原惟人帰国。共産党アジプロ部員として活動を始める。

3月3日「オルグ」ノート稿脱稿。

(田口タキにプロポーズするが、その申し出をタキは改めて退け、別れは確定する。)

評論「わが方針書」(〈3・10〉『読売新聞』3月24、25、27、28日号)

・3月16日、投獄されている間の家族を支えなくてはならない事情から、当時作家同盟書記長だった西沢隆二らからすすめられ、「一九二八年三月十五」以前の作を含んだ小説集『東倶知安行』(新鋭文学叢書)を改造社から出版。

3月21日 評論集『プロレタリア文学論』(立野信之との共著)天人社から刊行。

3月中旬、神奈川・七沢温泉に投宿。「オルグ」執筆。4月6日完成させ、『改造』5月号に発表。

このころ、帰国していた蔵原惟人と連絡。以後、行動をともにする。

同月、「文芸時評」(〈4・8〉『中央公論』5月号)。

小説「壁にはられた写真」(〈4・17〉『ナップ』5月号)

「壁小説と『短い』短篇小説」(評論〈4・20〉『新興芸術研究(2)』 肉筆原稿は貴司山治の遺族により日本近代文学館に寄贈)

「小説作法」(〈4・30〉『綜合プロレタリア芸術講座』第2巻)

・5月「蟹工船」(徳永直「太陽のない街」、中野重治「鉄の話」) 改造社
『良き教師』(推薦文『ナップ』6月号)※全文は『総合プロレタリア芸術講座』パンフレット。
「指導部のセクト化に対する同盟員の不平から怒った作家同盟の内紛解決のための諸種の会合に出席する。」

5/15「独房」掲載の件で改造社へ行く。

5/24 作家同盟第3回大会に出席。「内紛が解消せざるため、混乱して役員の選出未了のままに閉会。(貴司年譜)
評論「階級としての農民とプロレタリアート」〈6・5〉『帝国大学新聞』6月8日発行第388号

6月8日 多喜二は志賀直哉に書簡。『蟹工船』を送り、「私は自分の仕事の粗雑になっていることに気付き、全く参っています。」と批評を求める。

小説「独房」(〈6・9〉『中央公論』7月号・夏季特集号)

評論「四つの関心」(『読売新聞』6月11、12、13、15日号)

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当時の共産党は、すでに入党を認められロシアからひそかに帰国していた蔵原惟人を中心に文化関係フラクを建設中であった。以前から指導を仰いでいた多喜二は蔵原と秘密裏に連絡をとり行動を共にし、非合法活動にはいっていた。

ともに上京しながら別に生活していた三吾は、1931年6月17日、日比谷公会堂で開催されたシゲテーのコンサートで、久しぶりに兄・多喜二と再会した。

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評論「文戦の打倒について」(〈6・20〉『前線』7・8月合併号)
壁小説「プロレタリアの修身」(『戦旗』6・7月合併号)

蔵原惟人「プロレタリア芸術運動の組織問題」

夏、蔵原の指導のもとで文化団体の党グループの活動に従事している手塚英孝と初めてあう。

壁小説「テガミ」(〈6・30〉『中央公論』8月号 )
壁小説「飴玉闘争」(〈7・4〉『三・一五、四・一六公判闘争のために』室順治の挿絵1枚)

志賀直哉の多喜二宛書簡「お手紙も『蟹工船』もちゃんと頂いています。」(7月15日)

感想「『一九二八年三月十五日』」(〈7・17〉『若草』9月号)

7月、作家同盟第4回臨時大会が開かれ、第1回執行委員会で常任中央委員、書記長にえらばれた。

東京に居住することに決めた多喜二は、一端帰郷後、同月末、杉並区馬橋一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟と住むこととした。

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5 コメント

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1931年・・・でしょうか? (Prof. Shima)
2009-12-14 00:59:14
たしかにシゲティは1931年に初来日し、6月17日にはベートーベンのバイオリンコンチェルトを弾いていますが。。。

『時代を撃て 多喜二』に収録の三吾さんの発言をみると、多喜二が「さあ、仕事だ仕事だ」といって別れた、それが兄との最後になった、とあったように思います。31年のコンサートとすると、その後多喜二は三吾さんやお母さんと暮らした時期があるわけで、そうなるとやはり32年の再来日の際のコンサートということになりはしませんでしょうか?

31年6月17日、とされた決定的根拠はどういったところにあるのでしいヴか。さらに展開していただければと思います。
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Unknown (るもい (ノーマ・フィールド))
2009-12-15 00:43:58
さらに、ヤマナカヤで母セキや姉チマなどと会食したとき三吾さんも同席していたのですよね。それは1932年9月中旬とされています。

あらためて年譜づくりの複雑さを実感いたします。どうかよろしく。
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1930年説! (akio)
2009-12-17 18:37:11
チェロ奏者の青木十良さん(1915年生れ)は、「初来日したシゲテイの演奏会を15歳のころ聴いて感動した。」とネットで記述しています。
 『15歳のころ?』とすると。1930年か誕生日前だとすると1931年ですか。
 私の年譜は。参考文献によって「二通り」にしてあります。
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私の「年譜」は。31年 (akio)
2009-12-17 21:06:23
 全集「月報4=兄の思い出・没後五十年を前に」を読んで♪(時系列に)
○1930年9下:三吾上京(多喜二:獄中)
○1931年1・22:出獄(成宗・田口方)
○1931年6・17:シゲテイ初来日(成宗)
○1931年7・07:山田・宮木宛獄中書簡(成宗)
○1931年7・15:志賀直哉から書簡(成宗)
○同年7月下旬:母セキ上京(馬橋)
○同年10月:日本共産党に入党する。
○1932年3月:「コップ」に大弾圧。
 注:多喜二が東京を自由に闊歩出来たのは。
   ここまでと見るべきです。
※同年4月:「馬橋」が家宅捜索を受け「伊藤ふじ子の画友」の紹介で、小石川原町に移る。
※同月:伊藤ふじ子と結婚「称名寺」に移る。
※同年7月:麻布区新網町
※同年8月:麻布区桜田町(9月下との年譜有)
※同年9月:セキ・チマ・和枝・三吾・幸子と「ヤマナカヤ」で、最後の会食(三吾:8下旬)
※1933年:一時不定
※1933年1・20:渋谷羽沢(簿記の先生山野次郎)
※同年2・20:虐殺される。

♪「水野氏」の「コンサート」の記述を読んで、思い違いをしたというのが、akioの結論に達しました。
♪地下生活に入っている「自分」と共に「大事な弟」を「公共の場」で、逢うことなど許されないことです。
♪当時、多喜二は日本共産党員です。ですから最後の「晩餐=9月」どれだけ辛かったでしょう。♪
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Unknown (佐藤)
2009-12-18 06:12:30
akioさん

コメントありがとうございます。
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