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小林多喜二の恋人、タキさん死去 101歳
大館市生まれの作家、小林多喜二が終生思いを寄せた女性、タキさん(旧姓田口)が、老衰のため今年6月19日に神奈川県内の介護老人施設で死去していたことが分かった。101歳だった。親族が12月10日、明らかにした。
タキさんは、北海道小樽市の料理屋で働いていた16歳のとき、当時銀行員で21歳の多喜二と出会った。多喜二は美ぼうのタキさんに引かれ、小樽や東京で一時期同居して結婚を望んだが、実現しなかった。弟妹たちの面倒を見なくてはいけないタキさんが身を引いた—と伝えられている。
エリート銀行員だった多喜二は、タキさんとの交流を通じて人間的にも文学的にも成長し、プロレタリア作家として社会変革を志すに至ったとされる。社会の底辺で生きる女性を主人公に、「瀧子(たきこ)もの」と呼ばれる数編の作品も残している。
多喜二は思想犯として逮捕され、29歳で死亡。タキさんは戦後になって事業家と結婚した。親族は「本人は平穏な晩年を送りました。幸福な一生だったのではないでしょうか」と語った。
先月出版された書簡集「小林多喜二の手紙」(岩波文庫)には、多喜二がタキさんにあてた恋文23通も収められている。
(「秋田魁新報」2009/12/11朝刊より)
多喜二を慕い、愛しながら自ら身をひいたタキさんは戦後も生き抜いた。
その後の生活については、澤地久枝さんの著書『我が人生の案内人』(文春新書)などに、その一端が記録されている。
それによると、タキさんは弟妹4人を育て上げ、その後結婚し、1979年に夫に先立たれたという。
澤地さんとは翌年頃まで手紙のやりとりがあったが、決して会おうとしなかったそうである。
同書には、彼女から澤地さん宛て来た断わりの手紙の文面が紹介されている。
「秋田にいる妹の息子の結婚式に出席するため秋田に参りました時には、小林のお墓へもおまいりをして参りました。
今××(夫の名前)が亡くなり、無抵抗な人になられて見ますと、とても昔の恋人の話を他人に平気に話すということができないような私の今の心境です。
ただただ二人の冥福を朝夕祈っている現在です。
私は学校もろくに出ず、何の教養もないことを恥ずかしく、それに母と小さい弟妹のこともあり、小林との結婚をお断りしましたような訳で、とても貴女様にようなお偉い方とお会いしてお話するなぞ、若し小林の名を汚すようなことがありましてもいけませんし、申訳けございいませんがお断りさせていただきます。
手紙を書くことは苦手です。どうかおかんべんください。先ずは用件のみで失礼します。乱筆乱文どうぞ御判読ねがいます。かしこ」
1980年4月1日。
心より、こころよりご冥福を祈りたい。
悲しいニュースですね。
「幸福な一生だったのではないでしょうか」との親族の言葉にはホッとしました。
ご冥福をお祈りします。
12月11日22時54分配信 毎日新聞
北海道小樽市ゆかりのプロレタリア作家、小林多喜二が生涯愛し続けた女性として知られる田口タキ(たぐち・たき)さんが6月19日、横浜市の自宅で亡くなっていたことが11日分かった。市立小樽文学館に親族から寄せられた連絡によると、102歳だった。死因は老衰とみられる。
タキさんは小樽市内の飲食店で働いていた1924(大正13)年、北海道拓殖銀行小樽支店に勤めていた多喜二と知り合った。多喜二はタキさんにひかれて交際を始め、一時は同居して生活。多喜二は結婚を望んでいたが、タキさんが身を引いたと伝えられる。多喜二は33(昭和8)年、特高警察の拷問を受けて29歳で亡くなり、タキさんは戦後、別の男性と結婚した。
多喜二はタキさんに何通もの恋文を書き、その中の「闇があるから光がある」との一節は有名。タキさんとの出会いを機に、貧困女性に焦点を当てた「瀧子もの」と呼ばれる数点の作品も残されている。【坂井友子】
ケイさんをはじめ、みんなの思いは、多喜二の「人間愛」に共鳴してのものでした。
そして、タキさんの思いも・・・。
いま一度、そんなことも振り返りながら、現代に照らして、「愛」を考えていくことも重要かもしれませんね。
プロレタリア作家・小林多喜二(1903~33年)の恋人で小説「酌婦」のモデルにもなった田口タキさんが6月19日に横浜市中区の自宅で亡くなっていたことが11日、分かった。
北海道小樽市の市立小樽文学館に入った連絡によると、タキさんは102歳だった。
同文学館によると、多喜二は銀行員時代に、同市内の飲食店に勤めていたタキさんと出会い交際を始め、一時同居していた。
多喜二がタキさんにあてた手紙には、「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、いちばん本当に光のありがたさが分かる」と書いた有名な言葉がある。
(2009年12月12日00時58分 読売新聞)
御冥福を祈ります。
三浦綾子著「母」のなかで、多喜二のタキさんへの愛を語るところはを、私は好きで何度も繰り返し読んでいます。
(「母」より。多喜二がタキさんを見染めた頃。)”わだしは。秋田の貧乏育ちだから、家のために売られた友達は何人も見ている。よく世間では、蔑むども、わだしにはそんな気持は、これっぽっちもなかった。・・・若い時から、そんな貧乏ば見てきたから、タミちゃんは立派な親孝行娘だと思ったよ。わだしがそう言うと、多喜二が喜んで、
「そうか、親孝行と言ってくれるか。やっぱり、俺のおふくろだなあ」
なんて、涙ば拭いていたこともあったっけ。”
タキさんが生涯胸に秘めていたことや、悲しい記憶からも解放されて、心安らかに休まれることをこころからお祈りしています。
母タキが六月十九日に一〇二歳で永眠いたしました 改めて生前のご厚情を感謝申し上げます 寒さに向かう折柄ご自愛のほどお祈りいたします 平成二十一年十一月
という文面です。
私がお目に掛かったのは一度きりですが、暖かいご家庭でたいへんお幸せそうだったこと、多喜二(多喜二兄さんと仰っていました)はもとより、多喜二のお母さんへの感謝の思いを、何度も繰り返しておられたのが印象的でした。
「多喜二の恋人 田口タキさん死去102歳」
(同記事より抜粋)・・・33年にタキさんを訪ねたが会えず、再び逮捕されて築地署で拷問を受け、同年2月20日に死亡した。多喜二はタキさんに何通も手紙を書いており、「闇があるから光がある」という一節は有名だ。タキさんは結婚を申し込まれたが、愛しながらも身を引いたとされ、戦後に別の男性と結婚した。多喜二の悲報を知って通夜と葬儀に参列したという。*付 タキさんの遺影:岩波の文庫本と同じ写真
(同記事は時系列を省略している記述により、誤解を抱く箇所があり残念です)