小説「不在地主」を書いたことが決定打となり、北海道拓殖銀行を解職された小林多喜二は、一九三〇年三月末、小樽から東京に出た。
その年の五月、発売禁止が続き経営難に直面する雑誌『戦旗』防衛巡回講演で関西方面を旅行中、日本共産党への資金援助を理由に治安維持法違反容疑で大阪の島之内警察署に検挙される。二週間の勾留後、不起訴となり、東京に戻るが、六月二十四日、再び特高警察に検挙され、手ひどい拷問を受ける。
さらに七月十九日、かつて「蟹工船」(『戦旗』)に対する不敬罪・新聞紙法違反事件で山田清三郎(『戦旗』編集長・発行名義人)とともに起訴された。八月二十一日起訴された多喜二は、中野にある豊多摩刑務所の未決監に収容され、被告人として予審を受けることになっていた。
予審終結の日時や終結決定書の内容は不明だが、「本公判に付す」という決定がなされたことは確実である。
多喜二の罪状容疑の第一は、共産党への資金提供だった。
平出禾検事作成の極秘報告「プロレタリア文化運動に就て」(司法省調査部編『司法研究』第二八輯九(一九四〇年三月 四四二ページ)によると田中清玄( )を中心とする党中央部は1929年「四・一六検挙」の後、運動資金に窮し、八月ごろから党技術部に「金策係」を設け、曽木克彦(中央委員長田中清玄のもとにあつて、技術部の下の金策係、住宅係、倉庫係などを兼任し、すでに一九三〇年二月二十三日に検挙された)を責任者とした。曽木は、1930年(昭和五)一月頃から文芸評論家・蔵原惟人を通じ、ナップ、作家同盟内に資金網をひろげさせ、戦旗社、戦旗社読者会からも活動資金を収集した。この金策網の一端に多喜二がいたというのである。
同年八月、曽木は蔵原惟人に党活動資金募集をナップに月額五百円を依頼し、多喜二はこれに五十円を提供した。これを共産党への資金援助の治安維持法違反(目的遂行罪)容疑で起訴されたのだった。
※平出禾(ひらいで ひいず、1906年-1980年)は、元検事、翻訳家。 弁護士・作家の平出修の長男として東京に生まれる。少年時代に父を亡くし、1930年東京帝国大学法学部卒業、検事となる。最高検察庁公判部長を最後に66年定年退官、専修大学法学部教授、77年定年退任。E・S・ガードナーの法廷もの小説の翻訳もある。
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