三船 留吉 (みふね・とめきち1909-1983)
出生・秋田県 別名・水原,香川,武田,佐原保治 団体・全労組合,日本共産青年同盟,日本共産党
寺尾としの回想。「小柄で頭のよさそうな顔をしていた。私は彼とは1週2回の定期連絡をもって、銀座の有名喫茶店ばかりで会っていた。そのころまだめずらしかったロイド眼鏡をかけて、いつも最新流行の背広やスプリングコートを着ていた」「三船に対しては非常なやり手という評価がなされていて、彼の態度も自信満々という風が見られた。彼は能弁であったし、ハッタリ屋であったからたしかに一見やり手のように見えた」。
1909(明治42)年秋田県の農村生まれ。上京して江東で全労組合員となる。日本共産青年同盟に加わり、共青中央委員になった。31年入党と推定。
「全国アド紛失事件」(31年11月加藤亮尚が検挙され、加藤の保管していた共青全国組織のアドレスが警察の手にわたり、12月地方活動家31名が検挙された事件)ののち、その組織的責任をとって、32年神奈川県共青組織に派遣された。その神奈川の組織も破壊されたあと、東京に復帰、再び共青中央委員となり、党の東京市委員会の責任者となったという。
この頃から三船はスパイではないかという疑いが発生(特に袴田里見)し、『赤旗』(33年6月21日、8月21日)は三船の除名を決定した。三船は飯塚盈延とともに、特高課長毛利基の指示の下で数多くの人々を警察に売り、当時の運動に深刻な打撃をあたえた。
たとえば33年2月の小林多喜二検挙は、三船の仕事であり、同5月2日の中央委員、谷口直平、中委員候補山下平治の検挙、3日の中央委員長、山本正美の検挙なども三船によるものといわれている。「査問することになっていたとき、彼は風を喰らって行方をくらましてしまった。私はそれを聞いて口惜しがった」と寺尾としは書いている。
それ以後三船の消息は杳として途絶えた。パーティー・ネームとしては、水原・香川・武田・佐原保治。
しまね・きよしの執念の探索によって、三船が戦後、名前をかえて北陸で電気工事会社を起こし、83年頃死亡していたことが判明した。しまね・きよしは『歴史読本』編集部の山本光とともに、その町に三船の愛人で創業以来、工事現場の飯場などで苦楽をともにしたNを訪ねた。Nは戦前の共産党員およびスパイとしての三船の過去のことについて何も知らなかった。「これでいいよね。だけど、あれだけ心を許した女にも過去を明かさなかった三船って男、僕は許さないけど、少し見直したなあ」とは、帰途のしまね・きよしの述懐である。(安田常雄)
〔参考文献〕しまねきよし『日本共産党スパイ史』新人物往来社 1983年/寺尾とし『伝説の時代』平凡社 1960年
くらせ・みきお編著『小林多喜二を売った男――スパイ三舩留吉と特高警察』(白順社、3885円)
共産青年同盟に潜り込んだ三舩留吉の場合は、初発の上海ヌーラン事件誘発で、日本共産党のみならず、世界共産党=コミンテルンのアジア工作を大きく変更させた。
この点の解明は、評者もようやくとりかかったばかりであるが、スパイ三舩がいなかったら、野坂参三のアメリカでの活動も、ゾルゲ事件から企画院事件・満鉄調査部事件・横浜事件への波及も、モスクワでの日本人大量粛清の様相も、ずいぶんちがっていた可能性があり、後世に残したインパクトは、スパイM以上だったかもしれない。
モスクワの旧コミンテルン史料館で、一九三一年三月日本共産党中央委員浜田事紺野与次郎が上海のコミンテルン極東ビューローに運びモスクワに届けられた報告書がある(「『非常時』共産党の真実──一九三一年の日本共産党報告書」『大原社会問題研究所雑誌』四九八号、二〇〇〇年五月)。
驚いたのは、当時の党員東京四四名等々の詳細な党勢報告と、モスクワのコミンテルン本部への中央委員手当一人百円総計月二千円の活動資金請求などが、率直に述べられていたことだった。
それでスパイM=松村が実質的に動かしていた中央委員会の活動は詳細にわかったが、三舩留吉の関わった共産青年同盟関係の記述は少なかった。
出生・秋田県 別名・水原,香川,武田,佐原保治 団体・全労組合,日本共産青年同盟,日本共産党
寺尾としの回想。「小柄で頭のよさそうな顔をしていた。私は彼とは1週2回の定期連絡をもって、銀座の有名喫茶店ばかりで会っていた。そのころまだめずらしかったロイド眼鏡をかけて、いつも最新流行の背広やスプリングコートを着ていた」「三船に対しては非常なやり手という評価がなされていて、彼の態度も自信満々という風が見られた。彼は能弁であったし、ハッタリ屋であったからたしかに一見やり手のように見えた」。
1909(明治42)年秋田県の農村生まれ。上京して江東で全労組合員となる。日本共産青年同盟に加わり、共青中央委員になった。31年入党と推定。
「全国アド紛失事件」(31年11月加藤亮尚が検挙され、加藤の保管していた共青全国組織のアドレスが警察の手にわたり、12月地方活動家31名が検挙された事件)ののち、その組織的責任をとって、32年神奈川県共青組織に派遣された。その神奈川の組織も破壊されたあと、東京に復帰、再び共青中央委員となり、党の東京市委員会の責任者となったという。
この頃から三船はスパイではないかという疑いが発生(特に袴田里見)し、『赤旗』(33年6月21日、8月21日)は三船の除名を決定した。三船は飯塚盈延とともに、特高課長毛利基の指示の下で数多くの人々を警察に売り、当時の運動に深刻な打撃をあたえた。
たとえば33年2月の小林多喜二検挙は、三船の仕事であり、同5月2日の中央委員、谷口直平、中委員候補山下平治の検挙、3日の中央委員長、山本正美の検挙なども三船によるものといわれている。「査問することになっていたとき、彼は風を喰らって行方をくらましてしまった。私はそれを聞いて口惜しがった」と寺尾としは書いている。
それ以後三船の消息は杳として途絶えた。パーティー・ネームとしては、水原・香川・武田・佐原保治。
しまね・きよしの執念の探索によって、三船が戦後、名前をかえて北陸で電気工事会社を起こし、83年頃死亡していたことが判明した。しまね・きよしは『歴史読本』編集部の山本光とともに、その町に三船の愛人で創業以来、工事現場の飯場などで苦楽をともにしたNを訪ねた。Nは戦前の共産党員およびスパイとしての三船の過去のことについて何も知らなかった。「これでいいよね。だけど、あれだけ心を許した女にも過去を明かさなかった三船って男、僕は許さないけど、少し見直したなあ」とは、帰途のしまね・きよしの述懐である。(安田常雄)
〔参考文献〕しまねきよし『日本共産党スパイ史』新人物往来社 1983年/寺尾とし『伝説の時代』平凡社 1960年
くらせ・みきお編著『小林多喜二を売った男――スパイ三舩留吉と特高警察』(白順社、3885円)
共産青年同盟に潜り込んだ三舩留吉の場合は、初発の上海ヌーラン事件誘発で、日本共産党のみならず、世界共産党=コミンテルンのアジア工作を大きく変更させた。
この点の解明は、評者もようやくとりかかったばかりであるが、スパイ三舩がいなかったら、野坂参三のアメリカでの活動も、ゾルゲ事件から企画院事件・満鉄調査部事件・横浜事件への波及も、モスクワでの日本人大量粛清の様相も、ずいぶんちがっていた可能性があり、後世に残したインパクトは、スパイM以上だったかもしれない。
モスクワの旧コミンテルン史料館で、一九三一年三月日本共産党中央委員浜田事紺野与次郎が上海のコミンテルン極東ビューローに運びモスクワに届けられた報告書がある(「『非常時』共産党の真実──一九三一年の日本共産党報告書」『大原社会問題研究所雑誌』四九八号、二〇〇〇年五月)。
驚いたのは、当時の党員東京四四名等々の詳細な党勢報告と、モスクワのコミンテルン本部への中央委員手当一人百円総計月二千円の活動資金請求などが、率直に述べられていたことだった。
それでスパイM=松村が実質的に動かしていた中央委員会の活動は詳細にわかったが、三舩留吉の関わった共産青年同盟関係の記述は少なかった。
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