「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二と槙村浩

2008-12-23 02:38:56 | 多喜二と同時代を生きた人々
槙村浩は1932年4月ころ、日本共産党に入党。
同年3月1日の「満州国建国宣言」に抗議し、「間島パルチザンの歌」を詠んだのだった。

私は、多喜二と同じ時代を並走し、多喜二の魂を受け継いでたたかった詩人として愛しています。その最期が発狂という非業の死であろうとも。



「暗黒の中の光芒―槙村浩と小林多喜二」(『よみがえれ小林多喜二』2003年 本の泉社)のなかで、土井大助は

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――槙村浩という詩人を一言でいうことはなかなか難しいと思いますが、ごく普通には反戦のプロレタリア国際主義の詩人、それから、不屈の革命的な精神を拠りどころに革命的ロマンチシズムを高らかにうたいあげた詩人、それもまちがいないところでありますが、そういうことを言えば、プロレタリア詩人には他にも何人かいるかも知れません。私が考えた末、一言でまとめるとすれば、「世界史年表と地球儀とをまるがかえにして時代の光芒を高らかにうたいあげた詩人」と言えるんじゃないかという印象を私は持っています。

 とりわけ、プロレタリア文学運動――大正の初めからかなり長い系譜がありますけれどもその退潮期、一番苦しい時期にさしかかったプロレタリア文学運動の時期、その後期に槙村浩という詩人がもしいなかったならば、その運動の歴史はあれほど光彩を放つにはいたらなかったのではないかと思うほどです。槙村浩及びその周辺の詩人たちの存在がプロレタリア文学運動解体期のプロレタリア詩の光芒を、非常に輝かしいものにしている。これは槙村浩ぬきには考えられないことであります。
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と述べ、「世界史年表と地球儀とをまるがかえにして時代の光芒を高らかにうたいあげた詩人」としてその仕事を位置づけています。

 これはいささか土佐文雄の評伝『人間の骨』によりかかりすぎていると思います。
 同書の中での槇村はその当時の世界地理・歴史を立体的、動的にとらえていることはさながら世界多チャンネルのテレビを持っているかのように知り尽くしている神童だったからでしょう。

 「世界史年表」と「地球儀」だけでは足りないといいたいのは、マルクス主義は実践を重んじる哲学であり、それをまさに実践して運動に挺身したのが槇村でもあるからです。そうでなくては、治安維持法に問われ、発狂するまでの拷問を受け、それに耐えようとすことはなかったろうと思うからです。


 さらに土井大助は、槇村が多喜二をどう見ていたかについて以下のように述べています。

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 ――四年位前になりますか、『プロレタリア詩集』二冊の編集の手伝いをいたしましたが、プロレタリア詩二十数年の歴史的山脈の中で槙村浩というのは最後の峰だと思いました。その出発点が石川啄木という時代に先駆した峰であるとすれば、この最後の峰の一つはまちがいなく槙村浩だという風にいってよかろうと思います。
 さて、今日は西森茂夫さんから話がありまして、小林多喜二と槙村浩を対比しつつその時代的意義を語ってくれというご要望でした。それでいろいろ調べ、読み直したりしてみたのですが、槙村浩の文章には小林多喜二の名前とか作品名は直接出てきません。小林多喜二の方にも詩人槙村浩の名前や作品名は一切でてこないんです。土佐さんに「両方ともお互いにないね」といったら、「そうなんだ」と土佐さんも言っています。

とはいえ、槇村は多喜二と同じく、蔵原惟人「プロレタリア・レアリズムへの道」に大きな知的刺激を受けているということです。そして、その実作としての「一九二八年三月十五日」「蟹工船」があるわけで、槇村の作品は多喜二のこれらの作品が掲載された『戦旗』なのですからー二人の視野には当然、互いの作品があったということは想像できることだと思います。
 もちろん想像であるわけですが、槇村は意識して多喜二の道を多喜二が歩めなかった領域にまで歩み出ているのだということを指摘しておきたいと思います。


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槇村浩「間島パルチザンの歌」
 ※原文は『プロレタリア文学』臨時増刊、四・一六、第五回大会紀念号掲載


思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ

雪溶けの小径を踏んで
チゲを負ひ、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負(しょい)縄はいかにきびしく食い入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか

雲は南にちぎれ
熱風は田のくろに流れる
山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
目暈(めま)ひのする空き腹をこらへて
姉と手をつないで越えて行った
あの長い坂路よ

えぞ柳の煙る書堂の蔭に
胸を病み、都から帰って来たわかものゝ話は
少年のおれたちにどんなに楽しかったか
わかものは熱するとすぐ咳をした
はげしく咳入りながら
彼はツァールの暗いロシアを語った
クレムリンに燻(くすぶ)った爆弾と
ネヴァ河の霧に流れた血のしぶきと
雪を踏んでシベリアに行く囚人の群れと
そして十月の朝早く
津波のやうに街に雪崩れた民衆のどよめきを
ツァールの黒鷲が引き裂かれ
モスコーの空高く鎌と槌(ハンマー)の赤旗が翻ったその日のことを
話し止んで口笛を吹く彼の横顔には痛々しい紅潮が流れ
血が繻衣(チョゴリ)の袖を真赤に染めた
崔先生と呼ばれたそのわかものは
あのすさまじいどよめきが朝鮮を揺るがした春も見ずに
灰色の雪空に希望を投げて故郷の書堂に逝った
だが、自由の国ロシアの話は
いかに深いあこがれと共に、おれの胸に泌み入ったか
おれは北の空に響く素晴らしい建設の轍(わだち)の音を聞き
故国を持たぬおれたちの暗い殖民地の生活を思った

おゝ
蔑まれ、不具(かたわ)にまで傷づけられた民族の誇りと
声なき無数の苦悩を載せる故国の土地!
そのお前の土を
飢えたお前の子らが
苦い屈辱と忿懣(ふんまん)をこめて嚥(の)み下すとき――
お前の暖かい胸から無理強ひにもぎ取られたお前の子らが
うなだれ、押し黙って国境を越えて行くとき――
お前の土のどん底から
二千万の民衆を揺り動かす激憤の熔岩を思へ!

おゝ三月一日
民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!
その日
「大韓独立万歳!」の声は全土をゆるがし
踏み躙られた××(日章)旗に代へて
母国の旗は家々の戸ごとに翻った

胸に迫る熱い涙をもっておれはその日を思ひ出す!
反抗のどよめきは故郷の村にまで伝はり
自由の歌は咸鏡の嶺々に谺(こだま)した
おゝ、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
先頭に旗をかざして進む若者と
胸一ぱいに万歳をはるかの屋根に呼び交はす老人と
眼に涙を浮べて古い民衆の謡(うた)をうたふ女らと
草の根を噛りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
赭土(あかつち)の崩れる峠の上で
声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない!

おゝ
おれたちの自由の歓びはあまりにも短かゝった!
夕暮おれは地平の涯に
煙を揚げて突き進んでくる黒い塊を見た
悪魔のやうに炬火を投げ、村々を焔の×に浸しながら、喊(かん)声をあげて突貫する日本騎馬隊を!
だが×(焼)け×(崩)れるの家々も
丘から丘に炸裂する銃弾の音も、おれたちにとって何であらう
おれたちは咸鏡の男と女
搾取者への反抗に歴史を×ったこの故郷の名にかけて
全韓に狼煙を揚げたいくたびかの蜂起に×を滴らせたこの故郷の土にかけて
首うなだれ、おめおめと陣地を敵に渡せようか

旗を捲き、地に伏す者は誰だ?
部署を捨て、敵の鉄蹄(てつてい)に故郷を委せようとするのはどいつだ?
よし、焔がおれたちを包まうと
よし、銃剣を構へた騎馬隊が野獣のやうにおれたちに襲ひ掛からうと
おれたちは高く頭を挙げ
昂然と胸を張って
怒濤のやうに嶺をゆるがす万歳を叫ばう!
おれたちが陣地を棄てず、おれたちの歓声が響くところ
「暴圧の雲光を覆ふ」朝鮮の片隅に
おれたちの故国は生き
おれたちの民族の血は脈々と搏(う)つ!
おれたちは咸鏡の男と女!

おう血の三月!――その日を限りとして
父母と姉におれは永久に訣(わか)れた
砲弾に崩れた砂の中に見失った三人の姿を
白衣を血に染めて野に倒れた村びとの間に
紅松へ逆さに掛った屍の間に
銃剣と騎馬隊に隠れながら
夜も昼もおれは探し歩いた

あはれな故国よ!
お前の上に立ちさまよふ屍臭はあまりにも傷々しい
銃剣に蜂の巣のやうに×き×され、生きながら火中に投げ込まれた男たち!
強×され、×を刳(えぐ)られ、臓腑まで引きずり出された女たち!
石ころを手にしたまゝ絞め××(殺さ)れた老人ら!
小さい手に母国の旗を握りしめて俯伏した子供たち!
おゝ君ら、先がけて解放の戦さに斃れた一万五千の同志らの
棺(ひつぎ)にも蔵められず、腐屍を兀鷲(はげわし)の餌食に曝す躯(むくろ)の上を
荒れすさんだ村々の上を
茫々たる杉松の密林に身を潜める火田民(かでんみん)の上を
北鮮の曠野に萠える野の草の薫りを籠めて
吹け!春風よ!
夜中、山はぼうぼうと燃え
火田を囲む群落(むら)の上を、鳥は群れを乱して散った

おれは夜明けの空に
渦を描いて北に飛ぶ鶴を見た
ツルチェクの林を分け
鬱蒼たる樹海を越えて
国境へ――
火のやうに紅い雲の波を貫いて、真直ぐに飛んで行くもの!
その故国に帰る白い列に
おれ、十二の少年の胸は躍った
熱し、咳き込みながら崔先生の語った自由の国へ
春風に翼(はね)を搏(う)たせ
歓びの声をはるかに揚げて
いま楽しい旅をゆくもの!
おれは頬を火照らし
手をあげて鶴に応へた
その十三年前の感激をおれは今なまなましいく想ひ出す

氷塊が河床に砕ける早春の豆満江を渡り
国境を越えてはや十三年
苦い闘争と試練の時期を
おれは長白の平原で過ごした
気まぐれな「時」をおれはロシアから隔て
厳しい生活の鎖は間島におれを繋いだ
だが かつてロシアを見ず
生まれてロシアの土を踏まなかったことを、おれは決して悔いない
いまおれの棲むは第二のロシア
民族の墻(かき)を撤したソヴェート!
聞け!銃を手に
深夜結氷を越えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に
密林の夜襲の声を谺した汪清(ワンシン)の樹々のひとつひとつに
×(血)ぬられた苦難と建設の譚を!

風よ、憤懣の響きを籠めて白頭から雪崩れてこい!
濤よ、激憤の沫(しぶ)きを揚げて豆満江に迸(ほとばし)れ!
おゝ、××(日章)旗を飜す強盗ども!
父母と姉と同志の血を地に灑(そそ)ぎ
故国からおれを追ひ
いま剣をかざして間島に迫る××(日本)の兵匪!
おゝ、お前らの前におれたちがまた屈従せねばならぬと言ふのか
太てぶてしい強盗どもを待遇する途をおれたちが知らぬといふのか

春は音を立てゝ河瀬に流れ
風は木犀の香を伝へてくる
露を帯びた芝草に車座になり
おれたちはいま送られた素晴らしいビラを読み上げる
それは国境を越えて解放のために闘ふ同志の声
撃鉄を前に、悠然と階級の赤旗を掲げるプロレタリアートの叫び
「在満日本××(革命)兵士委員会」の檄!

ビラをポケットに
おれたちはまた銃を取って忍んで行かう
雪溶けのせゝらぎはおれたちの進軍を伝へ
見覚えのある合歓(ねむ)の林は喜んでおれたちを迎へるだらう
やつら!蒼ざめた執政の蔭に
購はれた歓声を挙げるなら挙げるがいゝ
疲れ切った号外売りに
嘘っぱちの勝利を告げるなら告げさせろ
おれたちは不死身だ!
おれたちはいくたびか敗けはした
銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした
だが
密林に潜んだ十人は百人となって現はれなんだか!
十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!
「生くる日の限り解放のために身を献げ
赤旗のもとに喜んで死なう!」
「東方××(革命)軍」の軍旗に唇を触れ、宣誓したあの言葉をおれが忘れようか
おれたちは間島のパルチザン。身をもってソヴェートを護る鉄の腕。生死を赤旗と共にする決死隊
いま長白の嶺を越えて
革命の進軍歌を全世界に響かせる
――海 隔てつわれら腕(かいな)結びゆく
――いざ戦はんいざ、奮い立ていざ
――あゝインターナショナルわれらがもの・・・・・・

1932・3・13


槙村浩(まきむらこう 本名・吉田豊道、1912~38)は、多喜二より9歳年下。高知県生まれで、英才教育で知られた土佐中学、リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、1931年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加するともに日本共産青年同盟に加盟した。

 高知市にあった歩兵44連隊で反戦ビラをまくなどの活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島(かんとう)パルチザンの歌」(32年)など、国際連帯の立場から、今日でも高く評価されている反戦詩を次々に発表します。しかし、間もなく検挙投獄され、長期の獄中での拘禁によって精神的なダメージをうけ、精神病院で死去した。26歳だった。

 当時の日本政府は、朝鮮・台湾などの植民地にたいし、過酷な搾取と抑圧をおこなうとともに、人民の抵抗にたいしては残虐な血の弾圧を加えた。朝鮮人民が1919年3月1日から「独立万歳」をさけんで朝鮮全土で独立運動をおこしたときには、天皇制の軍隊は、容赦なく銃火をあびせ、8000人近い人人々を殺し、多くの人びとを投獄した。


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土井大助さんの奥さんが11月16日ごろ亡くなった。土井さんの生涯を支えてきた半生を偲び、ご冥福をお祈りしたい。




                            合掌
 

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