今日のことば】
「辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるものかな」
--河上肇
京都市左京区鹿ケ谷の法然院には『貧乏物語』の著作で有名な経済学者・河上肇のがもある。
門人たちが建てたというその墓碑に記されているのが、本人の手になる掲出の歌である。
河上肇は明治12年(1879)山口県岩国の生まれ。東京帝国大学在学中、足尾銅山の鉱毒事件に関する救済演説会を聞いて、その場でただちに着衣すべてを寄付し新聞記事にもとりあげられた。基底には、聖書マタイ伝の一節への感動があったらしい。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というその教えから、絶対的利他主義へと至り着く萌芽がすでに見られる。
『貧乏物語』は、はじめ『貧乏物語断片』の題名で大阪朝日新聞に連載(大正5年)。
翌年、京都の弘文堂書房から単行本が刊行された。
先進諸国における貧困の実態と原因を解明し、貧乏を根治するには金持ちによる奢侈品消費の自制、富裕層と貧困層との格差是正が必要だと訴え、好評をもって迎えられた。
大正8年(1919)に創刊の個人雑誌『社会問題研究』も、社会問題に関心を持つ多くの若者に影響を与えた。
その後、さらに社会主義経済の実践を求道的に志した河上は、京大教授を辞任。共産党に入党して地下運動にかかわり、検挙され長い獄中生活も味わった。
出所後は、閉戸閑人と号して『自叙伝』の執筆に専心する。昭和21年(1946)1月、終戦による新時代の到来を喜びながら、栄養失調症によって逝去した。
66年の生涯は、まさに墓碑に刻まれた通りであったのだろう。
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