2017年1月15日(日)
正月早々、坂本龍馬が暗殺される5日前の書簡が発見された、という新聞報道があった。
1867年10月の大政奉還・江戸幕府滅亡の翌月、11月15日坂本龍馬が暗殺される。その5日前11月10付になっている。
「新国家」ということばが使われているのは、龍馬の手紙では初めてらしい。書簡は福井藩の中根雪江に宛てたもので、大政奉還後の財政担当に福井藩の三岡八郎を早く出してほしい、というようなことが書かれている。
坂本龍馬と三岡八郎(後の由利公正)の出会いは、尾崎護著『経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材』(文春文庫、1998年)に、次のように書かれている。
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八郎は立ち上がって、戸外をのぞいて見ると、深夜だというのに確かに川の方角で人声がする。太刀を片手に足羽川の見える庭先に出た。月明かりのなかを小舟が岸に着こうとしていた。
一人が、
「おおい、みついし、おるか」
と叫んだ。今でも三石と呼ぶのは小楠に決まっている。酔っているようだった。
「この夜更けに舟とは危ないではないですか、先生」
走り寄った八郎に小楠が言った。
「いや、土佐の坂本龍馬が来てな。飲んでいるうちにお前に会いたいというから、川をへだてて向こう側が三岡八郎の家だ といって、連れてきてやった」
ご機嫌である。
「いや心配なさるな。わしは土佐の荒海で舟にはなれておる。軍艦でも動かせる」
連れの大男が笑って、
「坂本龍馬でござる。勝先生の使いで参った」
と会釈した。
小楠は自分が先に立ってさっさと八郎の家に向かった。
八郎の家で即席の宴会が始まった。
(中略)
三人は時局を論じてとどまるところがなかった。朝廷も幕府も、今のようなことなら国を滅ぼしてしまう。三人はこもごもに憂いた。
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幕末の頃日本列島の海には多くの外国船が姿を現すようになる。米国ペリーの黒船は日本に開国を迫り、幕府も日米修好通商条約を結び鎖国から開国へと流れが変わっていく。
勝海舟は、海防には海軍の増強が必要と幕府に働きかけ、神戸に海軍の操練所を建設することになったが、資金が乏しく、資金援助を福井藩に頼った。その時、勝海舟の使いで福井に赴いたのが坂本龍馬だった。
福井藩では、藩に招かれていた横井小楠の助言などもあり、生糸を中心に外国と貿易を推進する物産総会所がつくられ、膨大な利益を得ていた。三岡八郎は、その物産総会所運営の中心にいた。
福井に着いた坂本龍馬は、当地に滞在していた熊本藩の横井小楠と再会、小楠の紹介で三岡八郎に会い、三人で大いに飲み、将来の日本を論じた。1863年、坂本龍馬が暗殺される4年前のことである。
龍馬が暗殺された頃、三岡八郎は福井で藩の主流と対立し蟄居・謹慎、横井小楠は熊本で士籍剥奪の処分を受けていた。二人が新政府の要職に就くには、福井・熊本の両藩でさまざまな葛藤があった。
しかし、三岡八郎と横井小楠は両藩が処分を解除し、幕府打倒に活躍した小松帯刀、木戸孝允、後藤象二郎、大久保利通らと共に新政府に参与として迎えられる。
新政府に出仕した三岡八郎と横井小楠は京都で再会した時、坂本龍馬について何を語り合ったであろうか。
来年は、1868年の明治改元から150年になる。この機会に明治維新について勉強したいと思う。『経綸のとき』の再読もその一つにしたい。横井小楠に関しては『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(徳永洋著、新潮新書、2005年)がある。
横井小楠の「国是七条」、坂本龍馬の「船中八策」、三岡八郎が草案した「五箇条の御誓文」は、三人の関係をよく現している。
このことについては、ブログ2016.4.24『「四時軒」と坂本龍馬【熊本の話題】』を見ていただきたい。
正月早々、坂本龍馬が暗殺される5日前の書簡が発見された、という新聞報道があった。
1867年10月の大政奉還・江戸幕府滅亡の翌月、11月15日坂本龍馬が暗殺される。その5日前11月10付になっている。
「新国家」ということばが使われているのは、龍馬の手紙では初めてらしい。書簡は福井藩の中根雪江に宛てたもので、大政奉還後の財政担当に福井藩の三岡八郎を早く出してほしい、というようなことが書かれている。
坂本龍馬と三岡八郎(後の由利公正)の出会いは、尾崎護著『経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材』(文春文庫、1998年)に、次のように書かれている。
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八郎は立ち上がって、戸外をのぞいて見ると、深夜だというのに確かに川の方角で人声がする。太刀を片手に足羽川の見える庭先に出た。月明かりのなかを小舟が岸に着こうとしていた。
一人が、
「おおい、みついし、おるか」
と叫んだ。今でも三石と呼ぶのは小楠に決まっている。酔っているようだった。
「この夜更けに舟とは危ないではないですか、先生」
走り寄った八郎に小楠が言った。
「いや、土佐の坂本龍馬が来てな。飲んでいるうちにお前に会いたいというから、川をへだてて向こう側が三岡八郎の家だ といって、連れてきてやった」
ご機嫌である。
「いや心配なさるな。わしは土佐の荒海で舟にはなれておる。軍艦でも動かせる」
連れの大男が笑って、
「坂本龍馬でござる。勝先生の使いで参った」
と会釈した。
小楠は自分が先に立ってさっさと八郎の家に向かった。
八郎の家で即席の宴会が始まった。
(中略)
三人は時局を論じてとどまるところがなかった。朝廷も幕府も、今のようなことなら国を滅ぼしてしまう。三人はこもごもに憂いた。
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幕末の頃日本列島の海には多くの外国船が姿を現すようになる。米国ペリーの黒船は日本に開国を迫り、幕府も日米修好通商条約を結び鎖国から開国へと流れが変わっていく。
勝海舟は、海防には海軍の増強が必要と幕府に働きかけ、神戸に海軍の操練所を建設することになったが、資金が乏しく、資金援助を福井藩に頼った。その時、勝海舟の使いで福井に赴いたのが坂本龍馬だった。
福井藩では、藩に招かれていた横井小楠の助言などもあり、生糸を中心に外国と貿易を推進する物産総会所がつくられ、膨大な利益を得ていた。三岡八郎は、その物産総会所運営の中心にいた。
福井に着いた坂本龍馬は、当地に滞在していた熊本藩の横井小楠と再会、小楠の紹介で三岡八郎に会い、三人で大いに飲み、将来の日本を論じた。1863年、坂本龍馬が暗殺される4年前のことである。
龍馬が暗殺された頃、三岡八郎は福井で藩の主流と対立し蟄居・謹慎、横井小楠は熊本で士籍剥奪の処分を受けていた。二人が新政府の要職に就くには、福井・熊本の両藩でさまざまな葛藤があった。
しかし、三岡八郎と横井小楠は両藩が処分を解除し、幕府打倒に活躍した小松帯刀、木戸孝允、後藤象二郎、大久保利通らと共に新政府に参与として迎えられる。
新政府に出仕した三岡八郎と横井小楠は京都で再会した時、坂本龍馬について何を語り合ったであろうか。
来年は、1868年の明治改元から150年になる。この機会に明治維新について勉強したいと思う。『経綸のとき』の再読もその一つにしたい。横井小楠に関しては『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(徳永洋著、新潮新書、2005年)がある。
横井小楠の「国是七条」、坂本龍馬の「船中八策」、三岡八郎が草案した「五箇条の御誓文」は、三人の関係をよく現している。
このことについては、ブログ2016.4.24『「四時軒」と坂本龍馬【熊本の話題】』を見ていただきたい。
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