2018年6月28日(木)
65年前、5歳だった「子ども」の遊び場は「駅」だった。そのころはJRの「駅」では無い、国鉄の「駅」。
「駅」が遊び場になったのは2歳の頃からか3歳の頃からだろうが記憶にない。「ばあちゃん」が子守で連れてきたのか、「じいちゃん」が汽車を見に連れてきたのか、「とうちゃん」が「駅」に用事があって連れてきたのか、最初のきっかけがなんだったかも記憶にない。そのうち家から一人で遊びに行くようになった。お昼ご飯や、夕飯の時間に帰らないと、「ばあちゃん」や「じいちゃん」や「とうちゃん」や「かあちゃん」が迎えにくる。
「駅」は楽しい。
「子ども」には「汽車」の到着が近づいてくるのがわかる。ポイントの切り替えをしたり、信号機を操作したり、「駅員さん」の動きが慌ただしくなる。「子ども」は改札口の外から、動く「駅員さん」たちを出来るだけ近くで見ようと移動する。毎日のように遊びに来ていても、改札口の中ホームへと入ると叱られる。危ないから叱られるのだと、「子ども」もなんとなくわかっている。
「汽車」に乗る人たちは、「駅」の窓口で切符を買う。しばらくは待合室の椅子に坐って待っている。乗る「汽車」の時間が近くなると、改札が始まる。乗る人たちは改札口に並んで、「駅員さん」の手に切符を渡す。「駅員さん」はその切符を手に取り、改札鋏で切符の端を少し切って、乗る人に返す。改札口の中に入って、見送る人に手を振る人もいる。「子ども」の近くで手を振っている人もいる。
煙を吐いて「汽車」がホームに着くと、大勢の人が降りてくる。改札口の「駅員さん」に切符を手渡しして、通り抜けていく。洋服の人も、和服の人も、通り抜けて行く。「駅」を出ると、バス停へ向かったり、市内電車の電停へ向かったり、菊池電車の駅へ向かったり、歩いて、京町の方へ、池田町の方へ、花園町の方へ行く人たちもいる。「駅」の横の交番で道を尋ねる人たちもいる。
貨物列車が停まらずに通過することもある。1つ、2つ、3つ、と「子ども」は貨車の数を数える。「子ども」は数の数え方を、貨車を数えることで覚えた。50ぐらいまで数えたような気がする。
その「駅」に停まらない特急が通過する時が凄い。走る「汽車」から、機関車に乗っている人が、これまでの区間のタブレットを「駅員さん」に渡す。その勢いで、次の区間のタブレットを別の「駅員さん」から直ぐに受け取る。渡して受け取る、その素早しさを「子ども」は眼を真ん丸にして眺めていた。
「汽車」が出発すると、次の「汽車」まで時間がある。その間も「駅」は忙しい。「駅員さん」はこの仕事、あの仕事と動き回る。
「駅」を利用する人たちは、「汽車」に乗る人たちだけでは無い。「電報」の受付もする。まだ家庭に電話など無かった時代、もちろん携帯電話など無い時代、手紙や葉書よりも早く伝えたいときは「電報」で伝えていた。
荷物を「鉄道」で送る人も来る。「鉄道」で運ばれてきた荷物を受け取る人も来る。宅配便などは無かった。郵便小包で送れないような大きな物は鉄道便で送っていた。駅で遊んでいると「とうちゃん」が荷物の受け取りに来ることもあった。
「子ども」はそんな様子も見てまわる。ホームとの柵を鉄棒代わりに遊ぶ、交番の中に入っても遊ぶ、駅の前の広場でも遊ぶ。2系統あった市内電車の電停でも遊ぶ。菊池電車の駅でも遊ぶ。「駅」の周りは「子ども」とって何でも遊び場になる。1日中飽きることは無い。
「子ども」は小学生になると「駅」で遊ばなくなった。行動範囲が広がっていく。そして、中学生、高校生、社会人へとなっていく。
いつの頃かは覚えてはないけど、国鉄の鉄道の行き着く駅が、南は「枕崎駅」、北は「稚内駅」だということを知る。南の終着駅は「枕崎駅」だが最も南に位置する駅が「西大山駅」だと知ったのはそれよりも後だった。
会社員を辞めて、プチ「鉄道の旅」を始めた。「西大山駅」は、1度だけ通過した。ホームに降りて記念写真だけは撮れた。「稚内駅」は、利尻・礼文の旅に参加した時、観光バスで見学した。
今年5月、縄文を学ぶ旅を始めようと指宿に出かけた。途中、喜入駅で降りた。指宿行を待つ間、待合室で時刻表を見ていたら、「西大山駅」へ行こうとよ、と呼びかける「誰か」がいた。
急遽、指宿駅に下りる予定を変更して、乗り越してJR最南端の駅「西大山駅」で下車した。
帰りの指宿駅方面への列車を待つ間、無人駅で駅舎も無い「西大山駅」の周りをブラブラしていると、「稚内駅」へは行かないの、とささやく「誰か」がいた。
翌6月、JR最北端の駅「稚内駅」へ向かう。
飛行機で北海道へ。幾つかの縄文を学ぶ見学を済ませ、旭川に泊まる。翌日、旭川駅9時発「宗谷」に乗る。札幌駅始発の列車は、ほぼ満席。旭川駅を出てしばらくは、田植えがすんだ田んぼの風景が広がる。その後は、単調な景色を眺めているだけ。北海道らしい広々とした大地と、牛がのんびりしている姿が見れるようになったのは、稚内が近づいてからだった。
(旭川駅9時発「宗谷」に乗る)
(旭川駅9時発「宗谷」)
(田植え後の田んぼ)
(名寄駅で)
(牛がのんびりと)
旭川駅から3時間40分。ようやく「稚内駅」に着いた。
(稚内駅に着く)
ガラス越しに、着いた「列車」を大勢の人たちが写真に収めている。ちょうど4年前、同じくらいの時間に、同じようにガラス越しに写真撮った。その時、「観光で来て、ホームの外から写真撮るのではなく、列車で来てホームで写真撮りたい。」と思ったことが甦る。ホームで写真を撮る。「枕崎駅」から何キロ、「西大山駅」から何キロなどの案内板が目につく。4年前はホームの外から撮ったけど、ホームの中で撮ると、やはり嬉しい。
(線路はここまで)
(JR最北端の駅)
(西大山駅からの距離)
(南の終着駅とは友好都市)
改札口をでたところは、複合施設「キタカラ」で、JR稚内駅、バスターミナル、映画館、コンビニ、グループホーム、高齢者住宅、地域交流センターなどが一体となっている。「道の駅わっかない」でもある。賑やかではあるが、ホームを出るとJR最北端の駅「稚内駅」に着いたという感激は薄れだす。小さくてもいいから、駅舎だけ独立してあって欲しい。その「駅」とホームを眺めていたいと思う。
(窓越しに。4枚上の写真の車止めの裏側)
(旧稚内駅時代の終着地点。現在の終着地点の延長上にある。)
(複合施設「キタカラ」)
(道の駅の説明板)
(記念入場券。「来駅証明書」とセットで売ってある。乗って来なくても買えるのが残念。)
「古希」になった今年、「誰か」の声に引き摺られ、JR最南端の駅「西大山駅」とJR最北端の駅「稚内駅」に初めて下車した。
そうしたら、「子ども」の頃の「駅」のことが次から次へと思い出されてくる。
65年前、5歳だった「子ども」の遊び場は「駅」だった。そのころはJRの「駅」では無い、国鉄の「駅」。
「駅」が遊び場になったのは2歳の頃からか3歳の頃からだろうが記憶にない。「ばあちゃん」が子守で連れてきたのか、「じいちゃん」が汽車を見に連れてきたのか、「とうちゃん」が「駅」に用事があって連れてきたのか、最初のきっかけがなんだったかも記憶にない。そのうち家から一人で遊びに行くようになった。お昼ご飯や、夕飯の時間に帰らないと、「ばあちゃん」や「じいちゃん」や「とうちゃん」や「かあちゃん」が迎えにくる。
「駅」は楽しい。
「子ども」には「汽車」の到着が近づいてくるのがわかる。ポイントの切り替えをしたり、信号機を操作したり、「駅員さん」の動きが慌ただしくなる。「子ども」は改札口の外から、動く「駅員さん」たちを出来るだけ近くで見ようと移動する。毎日のように遊びに来ていても、改札口の中ホームへと入ると叱られる。危ないから叱られるのだと、「子ども」もなんとなくわかっている。
「汽車」に乗る人たちは、「駅」の窓口で切符を買う。しばらくは待合室の椅子に坐って待っている。乗る「汽車」の時間が近くなると、改札が始まる。乗る人たちは改札口に並んで、「駅員さん」の手に切符を渡す。「駅員さん」はその切符を手に取り、改札鋏で切符の端を少し切って、乗る人に返す。改札口の中に入って、見送る人に手を振る人もいる。「子ども」の近くで手を振っている人もいる。
煙を吐いて「汽車」がホームに着くと、大勢の人が降りてくる。改札口の「駅員さん」に切符を手渡しして、通り抜けていく。洋服の人も、和服の人も、通り抜けて行く。「駅」を出ると、バス停へ向かったり、市内電車の電停へ向かったり、菊池電車の駅へ向かったり、歩いて、京町の方へ、池田町の方へ、花園町の方へ行く人たちもいる。「駅」の横の交番で道を尋ねる人たちもいる。
貨物列車が停まらずに通過することもある。1つ、2つ、3つ、と「子ども」は貨車の数を数える。「子ども」は数の数え方を、貨車を数えることで覚えた。50ぐらいまで数えたような気がする。
その「駅」に停まらない特急が通過する時が凄い。走る「汽車」から、機関車に乗っている人が、これまでの区間のタブレットを「駅員さん」に渡す。その勢いで、次の区間のタブレットを別の「駅員さん」から直ぐに受け取る。渡して受け取る、その素早しさを「子ども」は眼を真ん丸にして眺めていた。
「汽車」が出発すると、次の「汽車」まで時間がある。その間も「駅」は忙しい。「駅員さん」はこの仕事、あの仕事と動き回る。
「駅」を利用する人たちは、「汽車」に乗る人たちだけでは無い。「電報」の受付もする。まだ家庭に電話など無かった時代、もちろん携帯電話など無い時代、手紙や葉書よりも早く伝えたいときは「電報」で伝えていた。
荷物を「鉄道」で送る人も来る。「鉄道」で運ばれてきた荷物を受け取る人も来る。宅配便などは無かった。郵便小包で送れないような大きな物は鉄道便で送っていた。駅で遊んでいると「とうちゃん」が荷物の受け取りに来ることもあった。
「子ども」はそんな様子も見てまわる。ホームとの柵を鉄棒代わりに遊ぶ、交番の中に入っても遊ぶ、駅の前の広場でも遊ぶ。2系統あった市内電車の電停でも遊ぶ。菊池電車の駅でも遊ぶ。「駅」の周りは「子ども」とって何でも遊び場になる。1日中飽きることは無い。
「子ども」は小学生になると「駅」で遊ばなくなった。行動範囲が広がっていく。そして、中学生、高校生、社会人へとなっていく。
いつの頃かは覚えてはないけど、国鉄の鉄道の行き着く駅が、南は「枕崎駅」、北は「稚内駅」だということを知る。南の終着駅は「枕崎駅」だが最も南に位置する駅が「西大山駅」だと知ったのはそれよりも後だった。
会社員を辞めて、プチ「鉄道の旅」を始めた。「西大山駅」は、1度だけ通過した。ホームに降りて記念写真だけは撮れた。「稚内駅」は、利尻・礼文の旅に参加した時、観光バスで見学した。
今年5月、縄文を学ぶ旅を始めようと指宿に出かけた。途中、喜入駅で降りた。指宿行を待つ間、待合室で時刻表を見ていたら、「西大山駅」へ行こうとよ、と呼びかける「誰か」がいた。
急遽、指宿駅に下りる予定を変更して、乗り越してJR最南端の駅「西大山駅」で下車した。
帰りの指宿駅方面への列車を待つ間、無人駅で駅舎も無い「西大山駅」の周りをブラブラしていると、「稚内駅」へは行かないの、とささやく「誰か」がいた。
翌6月、JR最北端の駅「稚内駅」へ向かう。
飛行機で北海道へ。幾つかの縄文を学ぶ見学を済ませ、旭川に泊まる。翌日、旭川駅9時発「宗谷」に乗る。札幌駅始発の列車は、ほぼ満席。旭川駅を出てしばらくは、田植えがすんだ田んぼの風景が広がる。その後は、単調な景色を眺めているだけ。北海道らしい広々とした大地と、牛がのんびりしている姿が見れるようになったのは、稚内が近づいてからだった。
(旭川駅9時発「宗谷」に乗る)
(旭川駅9時発「宗谷」)
(田植え後の田んぼ)
(名寄駅で)
(牛がのんびりと)
旭川駅から3時間40分。ようやく「稚内駅」に着いた。
(稚内駅に着く)
ガラス越しに、着いた「列車」を大勢の人たちが写真に収めている。ちょうど4年前、同じくらいの時間に、同じようにガラス越しに写真撮った。その時、「観光で来て、ホームの外から写真撮るのではなく、列車で来てホームで写真撮りたい。」と思ったことが甦る。ホームで写真を撮る。「枕崎駅」から何キロ、「西大山駅」から何キロなどの案内板が目につく。4年前はホームの外から撮ったけど、ホームの中で撮ると、やはり嬉しい。
(線路はここまで)
(JR最北端の駅)
(西大山駅からの距離)
(南の終着駅とは友好都市)
改札口をでたところは、複合施設「キタカラ」で、JR稚内駅、バスターミナル、映画館、コンビニ、グループホーム、高齢者住宅、地域交流センターなどが一体となっている。「道の駅わっかない」でもある。賑やかではあるが、ホームを出るとJR最北端の駅「稚内駅」に着いたという感激は薄れだす。小さくてもいいから、駅舎だけ独立してあって欲しい。その「駅」とホームを眺めていたいと思う。
(窓越しに。4枚上の写真の車止めの裏側)
(旧稚内駅時代の終着地点。現在の終着地点の延長上にある。)
(複合施設「キタカラ」)
(道の駅の説明板)
(記念入場券。「来駅証明書」とセットで売ってある。乗って来なくても買えるのが残念。)
「古希」になった今年、「誰か」の声に引き摺られ、JR最南端の駅「西大山駅」とJR最北端の駅「稚内駅」に初めて下車した。
そうしたら、「子ども」の頃の「駅」のことが次から次へと思い出されてくる。
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