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はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

インチキ臭い

2013年04月16日 | 日記
科学技術という言葉がある。でも、科学と技術は別物であると思うのだ。科学というのは、物事の本質を人間が理解できる限り極める作業であるし、技術とは特定の目的を実現するための方法のことだ。

特定の物事を極め理解しようとするには、科学的な探求と技術的な実現性を兼ね備える必要があるのだが、だから一緒というわけではないし、混同してはいけない。

例えば、巨大な粒子加速器を作るのは技術であるが、その粒子加速器を使って何を探求するのかは科学である。つまり、粒子加速器の設計も施工も技術なのだが、そうした粒子加速器の必要性や原理などの「なぜ」に正対するのが科学であるといえる。だから、密接な関係はあるのだが、だからと言って一緒くたにして良いものというわけではない。

科学者と呼称している技術者が、実は日本には多すぎる。核物理学者と原子核工学者では、たぶん寄ってたつ立場が違う。原子核工学者は、核物理学の基本は押える必要があるだろう。でなければ、核爆弾や核発電所の設計などはできない。しかし、核物理学者は放射線発生源の放射性物質のエネルギー量などは容易に分かるのだが、必ずしも核爆弾や核発電所について熟知しているわけではない。

福島第一原発事故以降、放射線の影響などについては門外漢とも言える「核物理学者」や「原子核工学者」が決めたともいえるICRPの基準ですべてを語っている。様々に分化している現在の科学や医療などにまたがって、様々な現象を一元的に理解し事象を説明できる人が居ないことに、どうして誰も不安を抱かないのか。

更に、放射線防護の専門家と称する人たちが、最高裁の事情判決のような「政治的」な判断に立った「安全」を語るのはなぜなのか。自身の学問に対してすら、正対しできぬ御用学者とは何なのか。チェルノブイリの30年後であるベラルーシやウクライナの現状から、福島の未来を心配することこそが、正しく物事を評価するための尺度じゃないのか。どうも、政治家のように物差しを持ち帰ることで保身を図るような「科学者」が多すぎると思うのである。

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