はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

xubuntu13.04をIdeaPad 206に入れる

2013年04月29日 | 日記
LinuxのディストリビューションあるUbuntuは、デスクトップがGNOMEであり、利用したいと思っているIdeaPadには荷が重い。入れてはいたのだが、動作が緩慢だったので、13.04バージョンが発表されたのを気に、デスクトップのマネージャがXfceであるXubuntuに入れ替えてみた。

厄介なのはGNOMEでもインストールを正常にしても動かなかったSkypeなのだが、それは諦めるとして(内蔵CCDが動作しないようである)、ネット環境は他に問題が無い。

インストール時にspeech-dispatcher disabled :edit/etc/default/speech-dispatcherなどの表示が出て、Enterキーを間を置かずに押すと、なぜか起動時にカーネルパニックが起きて、PCそのものの起動が出来ない状態となった。再度インストールを行い、表示が出ても1時間ほど放置してからEnterキーを押すと、起動が可能になった。なにやらブートのための処理が問題だったようである。今でもシャットダウン時には、一瞬表示が出るのだが、何故か問題なくシャットダウンは出来る。再度の起動も問題が無い。なんらかの不整合があるのだろうが、使えるので使う。この程度のことは、実はWindowsでも経験しているから、不具合があっても顕在化し、利用できなくなるまで使う、というスタンスを変える気は無い。

Xubuntuに限らずLinux関連では、市販のDVDが用いているコピーガード機能によって、再生すらできないという状態が起きる。これもまた、/usr/shear/doc/libdvdread4/install-css.sh とターミナルからコマンドラインでsudoを使って入力することで解消する。

本来は64bit版導入を試みてわかったのだが、何故か64bit版では無線LANのネットワークが見えないという常態となる。これはUbuntuでも起きていることなので、どうやらハードウェア上の制限が何かあるのだろう。調べる気にもなれなかった。

ブラウザは毎度おなじみのFirefoxであり、メール環境はThunderbirdである。Thunderbirdには、すべて既読となったメールでも未読が1残表示され続けるという変なバグがあったのだが、それは解消したのだろうか。まぁ、解消しなくても当面の利用では問題がないし、いざとなればSylpheedに変更すれば問題ないだろうから、そのまま使うこととする。

現在プリンタがインク切れで電源を止めているのだが、ネットワーク経由で使えるHP社のものである。インクを購入後にCPUSで設定をするつもりである。HPLIPが必要になるのかなぁ。面倒である。

VLCメディアプレーヤーのインストールもしてみたのだが、なぜか最初は異様な遅延がXubuntuだけではなく、当該LANに繋がっているマシン全体に起きた。ルータの問題なのかどうか。ルータのログには不具合は記載されていない。であるならば、XubuntuにVLCを導入するに際して起きた問題なのか。しかし、残念ながら突然VLCのインストールは問題なく進行し始め完了した。テスト用のDVDとして所持している「スタートレック」の再生も問題ない。

システムのインストール時の意味不明な挙動とVLCインストール時の不可解な遅延・滞留は無関係ではないかも知れないのだが、原因は多分多岐に渡るのであるから、究明すら手に余る。

農業「経営」

2013年04月23日 | 日記
日本の農業は、長い間農業従事者によって作られてきた。農業が「経営」が必要な「業」であるという自覚は、多分殆どの農民が持っていない常態が続いた。そうした経営的な思想は、戦前では一部の地主だけが持つものであったし、戦後の農地解放で土地を取得した旧小作農の多くは、単なる労働力を小作農時代と同様に使い、直接農業からの収入を得ることによって、幾許かの小作農時代よりも良い生活を行えるだけであった。

もちろん、旧小作農の多くは、農業を経営という視点で捉えることはなかったし、狭隘な土地からの収入だけでは生活が賄えないため、兼業農家という形態が増えたのである。

経営を知らぬ農家の代わりに経営を担ったのが、全国に展開する農協である。収穫への支払いと流通を握ることによって、農家の経営は農業機器の導入や肥料などの供給を含め、農協にお任せの時代が続いた。

その農協は、日本の農業政策を上意下達的に農家に伝える役割を果たしてもいる。収入は銀行業務を兼ねた農協を通じて農家に配布され、その運用益が高度経済成長時には高金利によって莫大なものとなり、農家の多くはその好景気から生まれる利得によって、海外団体観光ツアーなども満喫していた。日本の海外旅行の中心が「ノキョー」だった時代があったわけである。

こうした農協の、殆ど乱脈とも言える経理が、農業の政策転換、例えば減反政策などによって破綻する。経営実態の殆どを農協に頼っていた農家は、農協に「貯蓄」していたはずの金が、バブル崩壊やらリーマンショックなどによって単純に失われる羽目になる。更に、農政の転換による業態転換への支出などが、農家の体力を奪う。農家が頼っていた農協も、小さな地域農協が次々と破綻し、吸収合併などの合従連衡が起こり、身近な農協というものが縁遠い金融機関の農協として農家に対峙する。業としての農に見切りをつける離農者の増加や、後継者の離反による従事者の高齢化に伴い、耕作放棄地が増加する。

農業と言う産業をどう育てるかという政策がこの国にはなく、あるのは米が過剰生産されると減反する、などという継ぎ接ぎ膏薬のような形しかない。池田町はワインの町と言っているのだが、そうした付加価値をつけた製品なども、流行り廃りという風潮に流された結果、池田ワインなどが持て囃された時期が過ぎると、定番として消費者の中に浸透したとまではいかない。かって隆盛を誇った池田町も、思うような成長が続いていない。

責任の所在がハッキリしないまま、政策が行われ、結果に対する推測が誤った場合であっても、その変換は行われない。負けている太平洋戦争を「勝つまで続ける」と言い張った当時の政府の姿と似ている。

TPPとやらの絡みで、農業が脚光を浴びている。その浴び方は必ずしも嬉しい姿ではない。どうしてそのような姿を今晒すようになったのか、というのは、残念ながら農家の農政に対する当事者意識の低さとともに、殆ど流通業者が決めている「商品」としての農作物の「規格」の問題もある。胡瓜が曲がっていると嫌だとか、形の悪い人参は避けるという消費者の「見た目」による判断である。店頭で鮮度保持剤によって見た目の鮮度が保たれると、泥つきの葱などよりも鮮度保持剤まみれの商品の方が好まれる。土が付いていて汚い、という意識である。何やらお隣の韓国の「見た目が大事」だから美容整形が大流行、という話と似ている。美容整形農作物だけをスーパーマーケットで鮮度保持剤まみれのまま有難がって珍重する。何やら生産者の経営喪失の感覚と、消費者のモノを見る目の喪失が相俟って、日本の農業の未来は明るいものとは言えないようだなぁ。

自分探しが嫌いだ。

2013年04月19日 | 日記
世の中には「自分探し」などをしている人が多い。でも、それは「今在る自分は本当の自分じゃない」などという幻想というか妄想を糧にしてのものだろう。例えば「他人から評価されない」「自分の能力はこんなものじゃない」などという、一種の仮想の自分を単に作り上げているだけだ。

人は多様な生き物であるが、しかし単独では生きられない。社会という母集団の中での自分の存在位置を確かめたいという思いがあるのだろう。しかし、社会の中での自分の位置付けは、残念ながら自分では決められない。その社会の中の構成員である他人が「評価」して決めるものである。つまり、社会の中での位置付けとは、文字通り他人が主として評価する位置付けに他ならない。

で、あるならば、そもそも仮想の自分という他者の評価を排する自己充足的な評価が、そもそも自分という社会的存在に於いて意味を持つことであるのかどうか。そもそも探すべき自分などが存在するのかどうかすら怪しい。評価そのものも怪しいし、評価すべき自分と言う存在すら怪しいのである。

それでも、どうしても自分探しを続けたいのならば、一度社会生活をすべて断ち切ってみてはどうか。生存すら危うくなるほど、無人島でのロビンソン・クルーソーのような生活を行ってみてはどうか。そこで、生き延びる自分を省みると、何のために生きているのかという問いさえ不毛となるのではないか。ただただ命を繋ぐために、食料として動植物を狩猟採取する。それは単に「生き続けたい」という本能的な衝動だけでしかない。

生命は100%死ぬ。誕生することによって、致死率100%である死という終焉に向かって、一方通行の人生を過ごす。それを知っているからこそ、自分が生き延びる代替措置として子供を欲する。子供にとっては本人の意図とは無関係にこの世に産み出される。しかも、年齢を経ることや事故・事件・病などによって、その生まれた子供は更に確実に死んで行く。その死生の繰り返しが生命を繋ぐわけだが、その摂理の前には「自分」などという個の主張は、実に儚いものではないか。その自然の摂理という範囲でしか人は存在していない。そこを脱するための、ある種の思想が仏教の解脱である。でも、残念なことに、生きている人間は解脱できない。自然の摂理でもある死の前に屈する。

残念なことにあなたも私も思っている「自分」は、ただただそこに居る「自分」だけなのであり、外に求めて探しても、そんなものは存在しない。むしろ、母集団となる社会の中で、どう社会そのものを今の自分が生きて行くのかが、多分問題なのだろう。自分を探すのではなく、生き方を探すのならば、それは十分に理解はできるのだが、そのためには、それまでの自分を時として変えねばならぬ場合もある。その変化には、多くの場合苦痛が伴う。更に母集団である社会というものについて「自分がどうあれば生きやすいのか」を考えねばならない。社会は複数の個の主張しあう場でもあるから、十分に「自分」にとってだけ都合の良いものにはならない。他者の個、つまり他人の「自分」と自分の「自分」を折り合いを付けながら生きていく。その折り合いを付ける作業が実は大変で、容易に「自分探し」などをしている暇は無いのである。

寒い・・・

2013年04月18日 | 日記
札幌のこのところの気温は、東京あたりの真冬の温度である。最高気温が10度に届かず、最低気温が0~3度程度である。当然であるが桜の開花などはまだまだである。

気の早い虫などは、日中の日差しに騙されて羽化し、しかし夜の気温で飛ぶ力さえ失う。そうした先走った大型の蚊のような虫は、実はここ数日の寒の戻りとも言うべき寒さで、また姿を消した。

例年ならば、すでに最高気温が15度を超える日があっても不思議ではないのだが、今年はまだそこまで暖かくならない。

北海道では殆どの家屋が二重窓である。真冬の寒さを乗り越える暖房が必須であり、その暖気を逃さぬための方法として二重窓が一般的な家屋の造りである。そのため、外気温が10度程度になると、暖房は朝夕だけで間に合うことが多い。特に起居していれば、その程度の気温で、窓から日差しさえ入れば、実際に暖房を停止していても、冬の着衣のままで生活に不自由はしない。ただし、それは「日差しがある日」に限られる。

この時期は、曇天や雨天、場合によっては降雪などがあって、そうした日は真冬ほどではないのだが、暖房が一日中必要となる場合も多い。

ここのところの札幌は、時折雲の切れ間から陽が射す程度であり、早朝は晴れて昼は曇天ということも多い。夜半から早朝まで晴れると、これが放射冷却という気象状態を伴い、気温を下げて一層寒さを助長する。夜から朝にかけての曇天は、おきた場合には寒々しい印象を与えるのだが、実はそれほど急激な気温の低下を示すものではない。ただ、そのまま日がな一日晴れ間がなければ、寒々しい一日となってしまう。

例年になく冬の降雪が多かった札幌である。つい先日、ようやく積雪0になったばかりである。平地で積雪が無くなったとしても、札幌を囲む周囲の山々の景色は、まだまだ白銀の尾根尾根が続く。春の香りは漂うのだが、本格的な春は、まだちょっとだけ足踏みしていて、私の周囲には届いていないようだ。

インチキ臭い

2013年04月16日 | 日記
科学技術という言葉がある。でも、科学と技術は別物であると思うのだ。科学というのは、物事の本質を人間が理解できる限り極める作業であるし、技術とは特定の目的を実現するための方法のことだ。

特定の物事を極め理解しようとするには、科学的な探求と技術的な実現性を兼ね備える必要があるのだが、だから一緒というわけではないし、混同してはいけない。

例えば、巨大な粒子加速器を作るのは技術であるが、その粒子加速器を使って何を探求するのかは科学である。つまり、粒子加速器の設計も施工も技術なのだが、そうした粒子加速器の必要性や原理などの「なぜ」に正対するのが科学であるといえる。だから、密接な関係はあるのだが、だからと言って一緒くたにして良いものというわけではない。

科学者と呼称している技術者が、実は日本には多すぎる。核物理学者と原子核工学者では、たぶん寄ってたつ立場が違う。原子核工学者は、核物理学の基本は押える必要があるだろう。でなければ、核爆弾や核発電所の設計などはできない。しかし、核物理学者は放射線発生源の放射性物質のエネルギー量などは容易に分かるのだが、必ずしも核爆弾や核発電所について熟知しているわけではない。

福島第一原発事故以降、放射線の影響などについては門外漢とも言える「核物理学者」や「原子核工学者」が決めたともいえるICRPの基準ですべてを語っている。様々に分化している現在の科学や医療などにまたがって、様々な現象を一元的に理解し事象を説明できる人が居ないことに、どうして誰も不安を抱かないのか。

更に、放射線防護の専門家と称する人たちが、最高裁の事情判決のような「政治的」な判断に立った「安全」を語るのはなぜなのか。自身の学問に対してすら、正対しできぬ御用学者とは何なのか。チェルノブイリの30年後であるベラルーシやウクライナの現状から、福島の未来を心配することこそが、正しく物事を評価するための尺度じゃないのか。どうも、政治家のように物差しを持ち帰ることで保身を図るような「科学者」が多すぎると思うのである。