はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

Lubuntu13.10のスキャナ動作

2013年10月26日 | 日記

 というわけで、

http://cweb.canon.jp/drv-upd/ij-mfp/linux-sd-mg3230-200.html 

というサイトで scangearmp-mg3200series-2.00-1-deb.tar.gz というドライバを発見。インストールを試みる。インストールそのものはうまくいくのだが、Lubuntu付属のスキャンソフトでは挙動しない。

 ちなみに解凍したファイルは実行形式ではないただのテキストなのでターミナル上で解凍先ディレクトリに入り

sudo sh ./install.sh

とすると上手くインストールができた。

 インストール後、ターミナルを開いて scangearmp と入力すると、スキャンソフトが起動する。最初は「スキャナが見つからない」という表示ダイアログが表示されるが、その後最初のときにスキャンしてスキャナを発見する。スキャナを発見すると scangearmp が起動するので、そこからスキャンが上手くいくようになった。

 どうやら、GUI画面のアプリケーションとするには、色々それだけでツールを使った作業が必要のようで、オレのように「使えればいいや、別にターミナル画面でのコマンド入力嫌いじゃないし」という感じの人には文句は無さそうである。GUI以上にメニューに登録するためのLubnntuのメニュー構造がわからん。

 オレは開発者じゃないから使えればよいのである。しかもスキャナである。そんなもん、滅多に使わないのは明白であるから、コマンド名を忘れないようにするために、ここに記載するわけだ。


lubuntu13.10を入れてみた

2013年10月25日 | 日記

 もはや、LinuxにOSを入れ替えて使っているLenovo Idea Pad S206なのだが、Lubuntu13.10に入れ替えてみた。13.04まではWi-fiにつないでいるプリンターが使えなかったのだが、それはどうやらプロトコルが違っていたようである。

 Lubuntu13.04はブラウザがGoogleChromeがデフォルトだったのだが、こいつはネットワークにつながると、勝手に英文のサイトを日本語に訳してくれる。で、その画面を見ていたため、CUPSの設定画面、つまりlocalhost:631で表示される画面が翻訳されてしまってlptプロトコルが発見できなかったのである。これ、単純にオレのミスなのだが、これが分かれば簡単だった。

 キャノンのFINE MG3230という安物プリンタでも利用が可能となる。ただし、この複合機の持つスキャナ機能は、Lubuntu標準の『シンプルスキャン」では検知できないため、スキャナは当面置いておく。

 IdeaPadにはCCDカメラも付いているのだが、マジメにインストールできると、これもguvcviewというアプリケーションがインストールされていて使用可能となる。動画として保存もできるので、何かの会合で画面を相手に向けておけば記録として残る按配である。

 インストール後、うまくいかなかったのは音である。ADSL関連のものがなぜかインストールされていなかった。仕方なしにsynapticでADSL関連の、それもUbuntuマークが付属しているものを放り込み再起動したら音も出るようになった。

 NTFSフォーマットのUSB接続のHDDは
       sudo apt-get install ntfs-config
でうまく認識できるようになったし、LubuntuソフトウェアセンターからsambaをインストールするとWindowsマシンにつないだ共有ディスクも利用可能となる。

 DVDの再生は、上記のADSL関連の音の問題が解決した後、VLCプレーヤーをLubuntuソフトウェアセンターからインストールし、更に市販のコピーガード機能が働いている視聴困難なDVDには
    sudo /etc/share/doc/libdvdread4/install-css.sh
を実行することで視聴が可能となる。

 オフィススウィートはLibreOfficeを、これまたLubuntuソフトウェアセンターからダウンロードし、インストールが容易である。

 インターネット環境はブラウザがFirefox24.0に戻り、大きなお世話の自動翻訳をしてくれるGoogleChromeから開放される。あれは確かに便利なのだが、時として日本語が意味不明となることも多いのである。その日本語を英語に自動翻訳しなおしてみると、さらにワケのワカラヌものとなるのだ。面白いから一度やってみることをお勧めする。何度か繰り返すと、とても言語とは思えぬ世界が生じ、爆笑の嵐になること請け合いである。 

 CUPSの設定の疑問が、なぜか勝手にブラウザが翻訳していた日本語にあると判明するのに、殆ど数ヶ月もかかってしまった。ippでもつながらない、httpでもつながらないと悩んでいたオレはアホである。プロトコルが違うんだから接続できないのは当たり前だ。ただ、CUPSのネットワーク検知機能には当該プリンターは対応していないようだ。要するにパッシブモードでのWi-fi上での存在なのだろう。しかも、pingのように単に存在確認だけのプロトコルには応答するようだが、スキャンするようなタイプのものには応答しないようである。プリンターキューの名前も付けていないのだが、lpt://IPアドレス とCUPSのプリンタ定義ファイルを選んだだけで、問題なく使えるようになった。

 本当にあとはプリンター複合機のスキャナだけなのだが、hplipのようにうまく設定ファイルが記述されているものって少ないんだよなぁ。

 

追記:
 ネットを検索していたら
   http://ubuntuforums.org/showthread.php?t=1655880

Scanner is easy: download the "MG5200series-scanner_driver.tar" software from the canon website here. Extract, and in the extracted folder, extract the "scangearmp-mg5200series-1.60-1-deb.tar.gz" file.

Install the software in the terminal by navigating to the folder you last extracted, and type:

Code:
sudo ./install.sh

Once installed, to run the software, in a terminal type:

Code:
scangearmp

Or, setup a new menu item called "Scanner" or "ScanGear" etc, and use the same command.

I found that when I first ran scangearmp, there was no identified scanner. there is a single button that will search for a scanner. Found it within seconds.

という記述を見たので、MG3230でも使えるかどうか、試してみようと思う。この実験は明日だなぁ。

追記2:
 http://cweb.canon.jp/drv-upd/ij-mfp/linux-sd-mg3230-200.html 

というサイトで scangearmp-mg3200series-2.00-1-deb.tar.gz というドライバを発見。果たしてインストールできるかどうか。gz+tarの手動での方法を思い出しながら上記の追記での ./install なんぞしなければならぬのだなあ。 


世の中には理解できぬ事ばかり

2013年10月22日 | 日記

 経済の専門家というヒトタチがいる。そのヒトタチの多くは金融の専門家の場合が多い。

 ガソリンで動くエンジンにとっては、ガソリンが生産で動くことが消費だといえる。そのエンジンを良好に回すためのものがオイルに当たる金融だと思っていた。しかし、どうやら金融というオイルが、自分がガソリンに取って代わってエンジンを回そうとしているのが、昨今の状態に見える。

 もちろん、油は油だから、オイルでもエンジンは動くかも知れない。しかし、ガソリン用に作られたエンジンである。当然のように、出力も低下し、様々な潤滑系の不純物によって、エンジンの性能は発揮できないどころか、時として焼きつき、エンジンそのものが破損する。

 そうした姿の顕著な例が、日本に於けるバブル崩壊だったのではないか。それまでの堅調な上昇経済が、金余りというバブルに浮かれているうちに、肝心のガソリンのことを忘れ、エンジンをストールさせてしまった。

 ところが、このエンジンの破損について、多くの場合ガソリンの質などに話が歪められ、懲りもせずに再びオイルだけでエンジンを走らせようとするのが、どうもアベノミクスの正体ではないか。そのアベノミクスも、米国のヘリテージ財団などという保守強硬派路線の敷いたシナリオに基づいて行われているようである。

 生産→流通→消費というのが経済の仕組みで、それが経済のエンジンだとすると、オイルはこの→部分なのだろうと思うのだが、しかし、どうもこの→部分だけが異様に肥大化してしまったという感じが拭えない。

 金融資本主義という言葉があるのだが、この金融というものが、多くの国を実質的に支配下に置き始め、それが国際金融資本という名の下に、物の価値を付加価値という形で高め続け、実質的に暴慢したバブル的価値を押し付けているのではないか。だから、針の一突きでバブルが弾け、物が付加価値の付加を取り除き正味の価値となってデフレ基調に進む。

 付加価値はオマケなのだが、オマケが本体と一緒になってしまったところに、この経済の根本的な問題点があるのではないか。メシを炊くのに普通の水道水ではなく、***山麓伏流水などのペットボトル入り市販高級飲料水を使って悦に入っている姿と、実は大差ない。十分に安全な水道水で炊いても、超高級市販飲料水を使って炊いても、その味は気分の範囲での差ほどにしかない。実質的差は概ね皆無に近い。

 であるならば、ビンボーなオレは、別に超高級市販飲料水を買ってまで飯を炊く必要など無いわけであり、水加減さえ間違えなければ、普通に食するに困らない飯が出来上がるわけだ。

 付加価値をすべて認めないというわけではない。ただ、価値を高めるための権威付けのような付加価値などは、屁のツッパリにもならんと思っているのだ。

 本来付加価値を見出すのは消費する側である。例えば芸術である。絵に大金を投資するのは、その画家の名に拠る場合が多い。絵の出来そのものも、名の通った画家は、多くの場合、素晴らしい絵を残しているわけだ。でも、同様に無名の画家の絵でも、私にとって、あるいはあなたにとって、代え難い思いを抱かせるものがあるのだとしたら、それは私や貴方が発見した付加価値に他ならない。付加価値というのは「売る側」によって押し付けられるものではない。買う側の判断によって得るものなのだ。

 多くの商品がマーケティングによって「売る側による付加価値」を上乗せされている。貴方がそれに賛同するならば購入すれば良いのだし、賛同できないならば、買わなければ良い。その程度のものが付加価値といいうものの本質なんだろう。

 金融資本の多くが、この生産の「付加価値」というバブル部分に多くの投資をしている。もはや、その時点で胡散臭さ百倍だと思うのである。 


一事が万事、ゼンジー北京

2013年10月18日 | 日記

 ゼンジー北京という芸人さんがいる。出身地の広島が中国地方にあるため、それを中国と合わせて、芸名を北京としたという人である。手品師であるが、手品はそれほど傑出していない。むしろ、どちらかと言えば下手な部類である。この北京というフェイクと、傑出してはいない手品と言うフェイク。この二重のフェイクが、ちょっと悪相なのに、なぜかそれなりに人気を持った。

 たしか、水中脱出なんぞの大掛かりな手品も行ったことがある。オレはなぜか、ゼンジー北京の一世一代のそのイリュージョンの舞台を生で見た記憶がある。

 イリュージョンというのは、客の錯覚と演者の演出との相乗効果で生まれるのだが、ゼンジー北京さん、例のあの口調である。殆ど緊迫感が客席には無かった。しかし、当の本人は、滅多に無い大ネタであるから、相当に緊張していたようである。あの口調から軽妙さが消え、それなりに切迫感が客席を覆った。しかし、切迫感はあっても、緊張感は皆無である。なぜなら、先代の引田天功などが、こうした大掛かりな脱出マジックは、幾度も行っていたからだ。

 当然、ゼンジー北京も慣れないながらも、脱出には成功する。優れた手品師とは看做されていなかったから、成功したので万雷の拍手である。

 

 日本の現状が、どうにもこのフェイクだらけのゼンジー北京の芸風と繋がる。原発事故以降の現在に至るまでの対処療法的「収束作業」は、その作業そのものが収束に程遠い現状を指し示し、発災当初から小出裕章氏らに指摘されていた汚染水問題は、発災二年を経て、ようやくメディアの大見出しになる。

 コントロールには程遠い状態があってもなお、内閣総理大臣は事態がコントロール下にあると強弁する。このフェイクは、カタコトの日本語を使うゼンジー北京の「日本人なのにオレは日本人じゃないよ」と扮するフェイクと、ほとんど同レベルの発言であり、事実に直接対峙しないフェイクの姿勢そのものを表したものだと言える。

 どうやら、この国の指導者は、子供でも分かる事柄を、ゼンジー北京並みのバレバレの手段で覆い隠そうとしているのではないか。秘密保護法案も、どうやら「何が秘密なのかは秘密」という事を、あからさまに提示したわけだ。つまり、それが許されるような「数の論理」が罷り通る。

 すべての局面で、こうしたアカラサマなゼンジー北京的手法が、罷り通っているのである。一事が万事なのである。つまり、一事が万事ゼンジー北京化してしまっているわけだ。


アンパンマンの自己犠牲

2013年10月15日 | 日記

 アンパンマンの作者のやなせたかしさんの訃報が、Facebookやマスコミなどで流れる。享年94。ご冥福をお祈りする。

 もちろん私はアンパンマン世代ではない。ドラえもん世代でもない。サザエさん世代、しかも江利チエミが実写主人公だったテレビドラマでの世代である。漫画は少年サンデーやマガジンが週刊誌として発刊されたのを覚えている。マンガ雑誌と言うと別札付録テンコ盛りの月刊漫画雑誌、冒険王とかぼくら、少年画報の世代である。

 だからアンパンマンが月刊の絵本であったというのも、今回の訃報ニュースで知った。アニメは「見たことがある」という程度であるから、殆ど中身は知らない。でも、お腹が空いた人がいると、そのアンパンでできた顔を食べさせるようなヒーローだということは知っている。

 やなせたかしという名前を知ったのは「手のひらを太陽に」という歌でである。この作詞がやなせたかしという人だと知ったのは、この曲がNHKの「みんなの歌」で採り上げられたときである。たしか「徹子の部屋」だったと思うが、この歌の成り立ちをやなせさん本人が語っていたのを見たこともある。アンパンマンの作者として脚光を浴び始めた頃だから、相当高齢になってからだ。

 仕事に行き詰まり、どうしようもなく手を電灯ですかしてみたら、その光が手のひらを通過して、自分の体の中に、確かに血が流れていることを実感したときに生まれた詩だという話だったと記憶している。

 やなせさんが従軍していたという話も聞いた。敗戦後、戦地での経験、戦後の経験から、やなせさんは戦争を確実に嫌悪していたのだろう。

 アンパンマンが顔を食べさせる「自己犠牲」は、その相手が「食べることが出来ずに困っている人」という具体的な対象があっての自己犠牲である。スローガンや国という概念を守ることはしていない。戦う相手はバイキンマンであるが、相手がバイキンであっても殺さない。

 戦争で自己犠牲と言うと、特攻隊とか玉砕という話になる。相手を殲滅するか、自分が倒されるか、そうした二者択一である。時として正義の味方と悪の手先との二項対立の物語は、そうした殺伐としたものとなる。それは鉄腕アトムでさえ、敵対するロボットを破壊してしまうという点からも明らかだ。

 ところがやなせさんのアンパンマンはバイキンマンの野望(?)を止めるし、懲らしめるのだが、バイキンマンを殺したりはしない。同時に、補充が利く顔は、困っている人には食べさせるが、自分が死んでしまうほどではない。その按配がキモなんだろうと思うのである。人助けのために自分が死んでは、別に助けなければならない相手を助けることができなくなる。自分に出来る限界の範囲で、自分が関係を築いた個別具体的な「人」のために役立とうとするわけだ。

 役立つためには生きなければならない。そういう前提での自己犠牲である。つまり、出来ることは限られているのだが、その限られた範囲での行為なのだ。

 ともすれば、精神論者は「できないのは精神が弛んでいるからだ」などと情動的な方向に話を持ち込む。でも、実際の話、一人のヒーローが頑張っても、個別に救うことが出来る相手は限られる。これは精神論ではなく、出来る範囲と出来ないことがあることを、明確に示しているわけだ。きわめて合理的なヒーローである。

 アンパンマンは顔が濡れてふやけると力を失う。ふやけて力が失われた顔を、正常の顔に取り替えて力を取り戻す。ふやけてしまった顔は、困っている人がいても食べさせない。美味しくないからだろう。相手の力にならないほど、傷んでいるからだろうし、不潔になっているからだろう。

 目指すべきは特攻隊のような自己犠牲ではなく、アンパンマンの自己犠牲、つまり出来ることを地道に行う自己犠牲なのではないか。