講談社文庫からの上田秀人の奥祐筆秘帳に続く、新しいシリーズである。例によって、政治的な策動・謀略などが背景に描かれる。
今度は舞台が加賀百万石である。江戸幕府の四代将軍家綱は、生来蒲柳ということで、半井典薬頭は下馬将軍とも呼ばれた大老酒井雅楽頭から、家綱の死期を問質されるところから物語は始まる。
酒井家は世良田次郎三郎を祖とする徳川(松平)とは祖を同じくする。むしろ、徳川よりも長幼の序では上位に当たる家系でもある。家綱亡き後を巡り、いわゆるテンポラリーな将軍擁立を図ったのが酒井雅楽頭でもある。家綱には館林宰相である綱吉と、甲府宰相綱重がいたが、この時期には綱重が亡くなり、その息子綱豊が甲府宰相を継承していた時期である。五代将軍綱吉の養子となり六代将軍家宣として幕府を継承するのは、この話の後のことだ。
酒井雅楽頭は家綱の後継として、宮将軍などの擁立も画策しているのだが、ここで上田秀人は加賀百万石の太守である前田綱紀を雅楽頭が擁立する候補者として登場させる。前田綱紀もまた、政略結婚により徳川の血を引くに至っている。飾りとしての将軍を簡単に廃することができる相手として、家綱亡き後五代将軍の候補として、しかも執政衆の思い通りに政を行うための人形として、使い勝手を主眼に置いた人事である。
加賀藩にこのことが知れ渡ると、藩は大騒ぎとなる。連枝でもある前田直作は幕府との対立を防ごうとする穏健派であるが、反幕府の強硬派はこの前田直作を誅することも辞さない。加賀城下で前田直作の暗殺を防いだのが、瀬能数馬である。どうやら、この瀬能数馬が主人公らしい。
付家老の本多安房長政の命により、江戸に伺候し、藩主前田綱紀に会うこととなった前田直作の警備として、瀬能数馬も同行することとなる。江戸への途次、前田直作を亡き者にしようとする策謀が巡らされるわけだが、その策謀のクライマックスとなるところで、この巻は終わる。
上田秀人の小説には、単純な物語が複数の形でひとつの小説の中に複合して著されるため、時として複雑に見えるものが多い。ディテールに凝っている。しかし、プロットとしては概ね政治権力の暗闘と、剣豪同士の争いという複数の単純な話を合体したものだといえる。それを豊な筆力で大過なくまとめ、ダイナミズムを生み出す。問答無用で面白いし、主人公やその周囲の人間が、我々の現代的な価値観に近いと思える正邪の判断がそこにある。だからこそ読みやすい。
実は現代に生きる人にとっては賄賂であるようなものは、実は円滑に諸事を行うための必須なことであった。田沼意次の時代、田沼の賄賂政治が槍玉に挙がるが、江戸中期のこの時代には、こうした付け届けは極普通のことであった。例えば町奉行同心などは、商家からの付け届けで生きていたと言っても過言ではない。その代わり、町奉行所同心は町々の揉め事の仲裁などを行い、地回りに睨みを利かし、無理無体無茶が蔓延らないように心を配るし、それを行わない同心には商家もあからさまに付け届けなどは減額する。そうした行動が庶民からの信頼を生み、付け届けだけで千石の旗本以上の生活ができた。二十俵二人扶持、三十俵三人扶持の碌しかはいする程度のお上のためではなく、庶民のために立ったことがらの方が多い。それが武家社会の中で、町奉行所の与力・同心などが「不浄役人」と揶揄される元となっている。