田舎が北海道の山奥である。天塩川という川の水源から中流域にかけて扇状地が広がっていて、その盆地にあるわけだが、無論天塩川という河川の水源のある天塩岳の一部地域も、今は平成の大合併で同じ市になっている。
合併した旧朝日町は天塩岳という山の麓に広がり、かっては士別市の一部であったのだが、その後町として独立した。林業が主な産業で、昭和の初期からは、山林から切り出した木材を士別市の国鉄駅まで運ぶ軽便鉄道なども走っていた。オレは鉄道が走っている記憶は無いのだが、オレが小学生の頃までは、その路線を道路として作り替えた道がバス通路となっていて、軽便鉄道の線路なども残っていた。
朝日町からは札幌オリンピックのノルディック複合の選手も出ていて。札幌オリンピックではジャンプでは上位だったが、後半のクロスカントリーで大敗し、残念な事にメダルをのがした、などということもあった。
国内大会ではそれなりの大会も開けるジャンプ台もある。隣の市である名寄市にあるピヤシリシャンツェほどの大きさは無いのだが、小学生などが冬になるとポンポンと飛ぶジャンプ台だ。
真冬には氷点下30度になる事もある。小学生の頃には、氷点下30度を下回る気温だと、学校が休校となった。氷点下25度から30度の間は学校の始業が1時間遅れとなる。
これほど寒いと二重窓の戸外側の窓ガラスに室内の湿度が氷となって張り付く。その張り付いた氷の模様で、だいたい氷点下20度、25度、30度以下が判別できる。外気温の低下状態によって、凍りついた水分の氷結時間の違いからか、模様が違うのである。
現在は、高橋尚子が小出監督に入部を直訴した土地として知られている。夏ともなると、日本各地の実業団や大学などの長距離陸上選手が合宿に訪れる。陸上の町となっている。ただ、少子化である。高齢化もすすんでいる。私の妹は50歳を過ぎているのだが、未だに「若い人」と言われているらしい。
当然のように若い人のための施設などは少ない。普通高校と商業高校があったのだが、今はこの高校も統合されていて、オレが卒業したはずの高校は「過去のもの」となっている。オレの甥っ子が最後の卒業生に近いのか。オレが通った事もない校舎は、すでに学校の建物ととしては利用されていない。
冬場にはスキーなどが小中高と体育の授業であったわけだが、その当時に使われていたスキー場も、今はスキー場としては使われていないらしい。
そうした様変わりはあるわけだが、とりわけ変わったのが町の産業だろう。羊の種類に顔が黒いサフォーク種というものがいて、どうやらその羊が町の特産になっているようなのだ。
正直に言おう。オレがジンギスカンというモノを初めて食したのは、多分小学生の高学年になってからだ。オレの父親が肉嫌いであって、カレーライスなども滅多に食せなかったのである。肉の類を家族が食べている脇で、箱入りのウニをご飯のともにしていた父親の姿を思い出す。
オレはウニが苦手である。幼い頃、頭に石をぶつけられ、頭から大量に出血した事があった。その問のちの匂いと味が、実はウニの味と同じに感じるのである。そんなわけで、オレはウニを旨いと思った事が無い。
まぁ、それはともあれ、地方の疲弊は実にすごく、オレの従兄弟が務めていた地元のスーパーは経営が破綻し、より大きな資本のスーパーに九州されてしまった。従兄弟は母方の農家の跡継ぎだったのだが、農業を来たった結果、叔父が継いでいた農家も廃業した。当然、母親の実家の建物も無くなる。家の前に二本大きな杉が立っていた、本州の農家のような古い作りの家を、北海道ように改築しながら使っていた。覚えている限りは、大きな土間があったことは覚えている。その後そこに床が敷き詰められ居間としてつかわれたのだが、土間だった頃には大量の雛などを飼育していた。犬も猫も馬も飼っていて、確か納屋の奥には羊もいた。覚えている限り、そこで最初に記憶にある犬はアイヌ犬である。最後の犬は、芝犬系の雑種だったと思う。代替わりはしているのだが、すべての犬と、オレは即座に仲良くなれた。今でもたいていの犬とは仲良くなれる。
こんな風にグダグダとちょっと田舎について思ったこと、思い出したことを書き綴ってみる。