多摩爺の「歴史の小径(その3)」
こだまでしょうか。 - みすゞのまなざし - (山口県長門市)
思いだしてほしい。
9年前の、あの時(東日本大震災の直後)のことを・・・
テレビを付けたら、いつも放映されていた「公益社団法人ACジャパン」のCMを思い出してほしい。
繰り返し、繰り返し放送されていたのは、
明治の末期から昭和の初期にかけて500篇もの詩を書き残した
童謡詩人・金子みすゞの「こだまでしょうか」だった。
こだまでしょうか 金子みすゞ
「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。
そして、あとでさみしくなって、
「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、誰でも。
山口県の北西部に位置する、日本海に面した人口約3万人の小さな港町・長門市仙崎
明治36年、この町に生まれ、昭和5年、26歳という若さで短い生涯を終えた
童謡詩人・金子みすゞ(本名・金子テル)の故郷であるとともに、
現在進行形で40余年、私を支え続けてくれている女房の故郷でもある。
波乱に満ちた、みすゞの生涯を急ぎ足で辿ってみると、あまりにも薄幸なことから、
詳しく記すことに躊躇ってしまう。
3歳の時に不慮の事故で父を亡くすと、母の再婚にともない仙崎から下関に移り住む。
大正15年に義父が経営する店に勤めていた番頭と結婚し娘を生むが、
夫と義父が不仲となり夫が勤め先を追われてしまうと、
みすゞは夫に従うが、自暴自棄となった夫の放蕩が収まらず昭和5年に離婚
その後、娘の親権で夫と折り合いがつかず、
遺書を残して服毒自殺し、享年28歳(満26歳)の短い生涯を終えている。
JR仙崎駅前から、横断歩道を一つ渡って、
青海島に向かって真っすぐ延びる路地(金子みすゞ通り)に、
中天まで駆け上った初夏の太陽が、ジリジリと地べたを焦がしていた。
日本海を渡って来た生暖かい潮風のなかを、
水筒を襷がけにした幼稚園児たちが、ワイワイガヤガヤ歩いて来た。
魚屋さんのまえで、店先にいたオヤジさんに向けて「おはようございます。」と園児が挨拶すると、
目を細めながら見ていた魚屋のオヤジさんも「おはようございます。」と、
微笑みかけ丁寧に挨拶を返した。
自転車に乗った、通りすがりの爺さんもつられて・・・ 思わず微笑んだ。
何気ない、何処ででも見かけるようなワンシーンだが、
ふと・・・ 金子みすゞの「こだまでしょうか」が脳裏に浮かんできた。
同じ言葉、それを優しく繰り返すことによって得られるもの、
それは、相手を受け入れるという・・・ 穏やかな、穏やかな安らぎ感
数カ月前のことだった。
じきに3歳になる孫娘と散歩をしていたとき、
なにかにつまづいてこけてしまい、大きな声で泣いてしまった。
汚れを拭きながら「大丈夫、大丈夫、もう痛くないよ。」と声をかけた私に対して、
「痛かったね。痛かったね。」と声をかけたのが女房だった。
どちらの言葉が、孫娘に安らぎを与えたのだろうか?
「おはようございます。」と「痛かったね。」
言葉は全く違うが、同じ言葉を繰り返すことで、脳が感じる不思議な不思議な・・・ 安らぎ
「そういうことだったのか。」
「そういうことだった。」のである。
金子みすゞの故郷で、みすゞが訴えたかった意味(みすゞのこころ)を実感するとは、
これもまた、何かの縁なのかも知れない。
少し前のことだが「金子みすゞ記念館」で館長を務められてる方の記事を読んだことを思い出した。
館長は、みすゞさんのまなざしは、
「私とあなた」ではなく、「あなたと私」ですと仰っておられた。
「あなた」と「私」の関係とは、いったいどういうことなのか?
「私とあなた」のまなざしで生きるとは、自分を中心に考えて生きること
「私」のほうが「あなた」よりも大事だから、自分の位置が相手より上になってしまう。
相手を理解するためには、自分中心で上になってしまった「私」の位置を、
「あなた」の位置まで下げなければならない。
だから「理解する。」とは、
英語で「アンダースタンド・under(下)stand(立つ)」と書く。
大事な「私」を後にすると・・・ とても大切なことが見えてくる。
たぶん、そのような内容のお話だったと記憶している。
言葉一つなんだが、つなぐ言葉を前後のどちらに置くかによって、
その関係性が大きく変わってしまう。
自分にそういった意識がなかったとしても、相手にそういった意識がないかどうかは分からない。
さらに、日本語には・・・ 行間に秘められた思い(隠された伝えたい意思)がそこに加わってくる。
そこまで考えて日常会話をしてたら、堅苦しくてしょうがないとも思うが、
テレビを見てると、たまに今の日本語「ちょっとおかしいよね。」なんて思うこともある。
そう捉えれば・・・ 言葉を覚え始めの幼児に、正しい日本語を正確に教えることは、
とっても肝要なことで、童話が果たす役割は、とてつもなく大きいと痛感する。
日本海の小さな港町で遭遇した・・・ 小さな、小さな「ほっこり(幸せ)」
こういった光景は、この町に限った特別なことではない。
気づくかどうかを別にすれば、
いつでも、どこかで、普通に、毎日のように眼の前で繰り広げられている。
ある人は「優れた作品は読み手が大人であるか、子どもであるかを問わない。」と云っていた。
新型コロナウイルスの感染拡大で、外に出ることがメッキリ少なくなったが、
下り坂を歩き始めたと自覚したとき、
上り坂では見えなかったものが、たくさん見えていることに気づく。
普段の生活のなかで、いつも当たり前のように繰り広げられる
「小さなほっこり(幸せ)」を・・・ 見逃さないようしたいと思う。
「金子みすゞ通り」でみかけた、ちょっと微笑ましい光景
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