時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

おもしろきこともなき世を

2020年04月13日 | 歴史のこみち

多摩爺の「歴史の小径(その2)」
おもしろきこともなき世を - 春風の痕跡 - (山口県下関市)

「疾風のごとく生きるとは、ひとより先を歩むこと。」
直木賞作家、故・葉室麟氏が、維新の風雲児「高杉晋作」の生涯を描き綴った
「春風伝(しゅんぷうでん)」の、
ぱっと目が行く帯の一行目に・・・ そんな言葉が記してあった。

高杉晋作に数多くの名前があったことを知る人は少ない。
諱(いみな)は春風(はるかぜ)、通称は晋作、さらには東一、和助、字は暢夫、号は楠樹、東行など
多くの名を名乗っているが、一般的には諱が本名とされることから、
本名は「高杉晋作」じゃなく、「高杉春風」と呼ぶことが正しいのかも知れない。

なお、墓所は号の東行に因み東行庵(下関市吉田)と呼ばれ、
長州藩出身の陸軍大将・山県狂介(山県有朋)が開基している。


関門海峡の畔(下関市唐戸の岸壁)に、二人の志士を称える石碑(青春交響の塔)がある。
遡ること約150年、この国の回天に奔走しながらも、
新しい国の形を見とどけることなく逝った・・・ 晋作と龍馬

郷土出身の直木賞作家、故・古川薫氏の言葉を刻んだ碑文には・・・ 次にように記してあった。

  慶応元年(1865年)の太陽が、東経131度の子午線上に燃え、戦う青春の交響詩が轟く時、
  歴史の海流は天にむかって、怒濤の水柱を噴き上げ、無限の時空へ変革の恐竜を這わせた。

  維新史を旋回させた二つの雄魂
  その名 高杉晋作
  その名 坂本龍馬


  慶応二年の潮を押し流す、関門海峡の辺りで演じられた日本史の名場面
  あの日、両雄が夢見た豊かな永遠の未来を貫く創造の糧としたい。

高杉晋作と坂本龍馬、間違いなく歴史の主役になり得る逸材だったにも拘わらず、
誰よりも、この国のあるべき姿を眺望し、その目で確かめたかったであろうにも拘わらず、
新しい時代の主役を張るべき逸材は、明治という舞台にその名を残すことはなかった。

間違ってたら申し訳ないが、私の記憶が正しければ、青春交響の塔を訪れた5月5日は、
古川薫氏の命日では・・・ なかっただろうか?
維新を通して、郷土史を掘り下げてくださった古川薫氏のご冥福を改めて祈念する。

晋作といえば、奇兵隊を創設し、二度目の長州征伐を仕掛けてきた幕府軍を小倉城で返り討ちにし、
禁門の変でうけた朝敵(賊軍)の汚名を返上したことに注目が集まるが、
もう一つ・・・ 絶対に忘れてはならない大きな功績があった。

それは、晋作が亡くなる3年前の元治元年(1864年)
長州が英米仏蘭の四か国連合艦隊を相手に戦い、
木っ端微塵に敗れた下関戦争(馬関戦争)で任された敗戦処理にある。


藩主に成り代わって大役を務めた晋作は、
関門海峡通行の自由、薪炭の供与、寄港と上陸の自由はすんなり認め、

さらに賠償金の要求は認めたものの、
支払いは幕府に付け替え(長州藩に攘夷を認めた幕府に支払義務があるとの論法)た。


しかし、なにはさておき、最も大きかった功績は、
彦島(下関の西に隣接する島)の租借要求を徹して拒み・・・ 耐え凌ぎきったことだろう。

当時、高杉の通訳をしていたのが伊藤俊輔(初代総理・伊藤博文)だった。
後に伊藤は・・・ もし、あの時、晋作が租借要求で譲歩していたら、
彦島は香港になり、下関は九龍半島になってたと語り、
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。
 衆目駭然、敢て正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや。」
と評した。

大河の如き関門の海を目の前にし、156年前の晋作の雄姿に思いを馳せてみる。
これもまた、歴史好きの長州人にとってはかけがえない・・・ 自慢の一興ではなかろうか。

高杉は郷土を代表する自慢の偉人だが、何故か大河ドラマの主役にその名が上って来ない。
けっこう破天荒な生き様で面白いと思うんだが・・・・ 何故なんだろう?
NHK大河ドラマ「龍馬伝」では伊勢谷友介さんが晋作を演じたものの、
同じ大河の「西郷どん」では全く出てこない。

どちらの大河でも、龍馬が桂小五郎に薩長連合を持ち掛ける場面があったが、
あの場面に晋作が居たかどうかは別にして、
間違いなく、桂と行動を共にしていたはずだが扱いが薄過ぎる。

何故なんだ・・・ ? 私の推論は、いささか穿った見かたで恐縮だが、
防長一(防長とは周防と長門の二国)の美人と評判の妻(まさ)を実家の萩に残し、
妾(うの)に看取られ、病死したことにあるのではなかろうか?

そして・・・ その「うの」を歌った都都逸(どどいつ)が、
あまりに突拍子もなく、あまりにも破天荒過ぎて、
倫理と正義に厳しい現在では、ちょっと受け入れ難いものがあるのかもしれない?

 ♪ 三千世界の鴉(からす)を殺し 主(ぬし)と添寝がしてみたい

鴉が煩いから殺してしまえという意味ではない。
遊女は客を繋ぎとめるために、他の客に体を許さないことを誓い、
熊野神社の護符の裏に起請文(誓約書)を書く。


この誓いを破れば、熊野神社の使いの鴉が三羽死ぬと言われていることから、
約束を守るというのがオチだが、

この都都逸では、世の中の鴉を全て殺しても良いので、妾と朝まで添い寝をしていたいと歌ってる。

よって、浮気の正当化という視点と、動物愛護という視点から捉えれば、
コンプライアンスが求められる公共放送(NHK)が、
今のご時世に、大河ドラマで扱うには無理がある・・・ ? というのが私の見立てだ。

良い仕事してるし、波乱万丈で見せ場も十分あり、キャラクター的にも申し分ないんだが、
大河ドラマで、晋作が主役になることは厳しいのかもしれない。

また、あまり有名ではないが、資金面で高杉晋作や久坂玄瑞など長州藩を援助し、
一時期は坂本龍馬が身を寄せたこともある、
維新を陰で支え続けたパトロン・白石正一郎(下関の豪商)の役割など、

晋作とともにスポットを当ててもらうと面白いんだが
残念ながら大河には縁がないのかもしれない。


慶応3年(1867年)4月11日
おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」との辞世の句を残し
肺結核の療養中・・・ 桜の花が散るが如く、
下関市桜山の地で享年29歳(満27歳)の生涯を閉じる。


故郷を遠く離れて30余年、気がつけば東京での生活は、晋作の生涯よりも長くなり、
あれほど、余裕も余力もなかったのに、
いまじゃ使いきれないほどの時間を持てあましている日々がある。

ふと我に戻れば、そこには先を見ることを忘れ、過去を振り返って余韻に浸っている自分がいた。

企業戦士として、この歳になるまで頑張ってきたんだから、それはそれで良いと思うし、
故郷の英雄との比較など、おそれ多くて滅相もないが、
疾風のごとく生き、人より先を見据えながら、歩みを続けた故郷の英雄の生き様が、
あまりにもカッコ良すぎて眩い。


あれから150星霜、時代は明治・大正・昭和・平成を経て、令和という新しい世を迎えた。
はたして今の世の中は、晋作が見ていた先の世界と、重なっているのだろうか?
その答えを聞いてみたいような気がするのは・・・ 私だけではないだろう。


高杉晋作の像 下関市長府川端1-2-3
 この国の歴史を変えた奇兵隊が挙兵した功山寺に建つ、甲冑をまとい騎乗した晋作像

国宝・功山寺仏殿
 功山寺境内にあり、桁行・梁間とも三間、一重入母屋の屋根に裳階(もこし)がついた
 桧皮(ひわだ)葺の二重屋根の建物

 内部の柱に「此堂元応二年(1320年)卯月五日柱立」と記されていることから、
 鎌倉時代の建築とされている。

 建築年代のはっきりしている禅宗様建築では日本最古らしい。

青春交響の塔 下関市あるかぽーと(関門海峡を臨む岸壁に遊園地や水族館などが併設されている。)
 明治維新の電源地・下関のシンボルとして、彫刻家・澄川喜一氏によるモニュメント
 高杉晋作(左)と坂本龍馬(右)のレリーフが埋め込まれ、
 右隣りには・・・ 直木賞作家・古川薫氏の起草文を刻んだ石碑が建つ。

コメント    この記事についてブログを書く
« あなたならどうする。 | トップ | ふりむかないで »

コメントを投稿

歴史のこみち」カテゴリの最新記事