時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

諸君、狂いたまえ!

2021年05月14日 | 歴史のこみち

多摩爺の「歴史の小径(その6)」
諸君、狂いたまえ! - 草莽崛起 - (山口県萩市)

遡ること約160年、「諸君、狂いたまえ!」と叫び、
西欧列強からの外圧によって、武士を中心とした世の中が脅かされた時代にあって、
国を憂う若者の背中を強く押し、奮い立たせるタイムリーなメッセージを発した人物がいた。

日本海に面した「指月城(しづきじょう)」を中心に、武家屋敷がいまなお残る、
山陰の小さな城下町「萩」
まさか・・・ こんな小さな町から、明治維新を成し遂げた若者が、
陸続とでてくるとは想像もつかなかっただろう。
その先頭に立ったのが、「諸君、狂いたまえ!」と叫んだ吉田松陰だった。

それは・・・ 約260年続いた徳川幕府を倒しただけに止まらず、
議会制度、司法制度、身分制度、地方行政などの統治機構を、大胆に変革するとともに、
外交、金融、産業、経済、物流、教育などの近代化を強力に推し進めており、
まさに、関ケ原以来・・・ 時勢を一変させた、回天といっても良いのではなかろうか?

この国の各地で、国を憂う学者たちが声を挙げ始めた・・・ 江戸時代の末期
城下から少し外れた、松本村に建てられた、
八畳と十畳半の二間からなる小舎「松下村塾」から維新の胎動は始まった


長州藩の藩校「明倫館」の塾頭を務めていながら、
叔父・玉木文之進が主宰していた私塾「松下村塾」を引き継ぎ、
僅か2年の間に・・・ 「草莽崛起(そうもうくっき)」の思考を掲げ、
士分に限られていた藩校とは違って、
身分の隔てなく若者たちの育成にあたったのが・・・ 吉田松陰、その人だった。

ある作家は、吉田松陰の生き様を・・・ 次のように記している。
「 彼が一生は、教唆者に非ず、率先者なり。夢想者に非ず、実行者なり。
  彼は未だかつて、背後より人を煽動せず、彼はつねに前に立って、これを麾(さしまね)けり。
  これが真の革命家の方程式だ。 」

まさにその通りだと思うが、彼の思考を行動から振り返ってみると、
全く狂ってなかったとも思えないことも多く、
なんだかハチャメチャで、面白すぎて・・・ いまなお解せない謎があり、
浪漫に生きた男の生き様のようにも思えるが、
彼を支えた家族からしたら、堪ったもんじゃなかったかもしれない。


例えば、友人との約束を守るために、藩から出される通行手形を待たずに旅立ち脱藩の罪を負ったり、
ペリー来航時に密航を企て失敗すると、逃げれば良いものを、わざわざ自首したり、
安政大獄では、聞かれてもないのに老中の暗殺計画を喋ってしまい、伝馬町の露となってしまった。
わざわざ罪になる行動を、進んで取ってるんだから・・・ やっぱり狂っていたのかもしれない。


一般的な常識で直視すれば、彼の行動に問題があったことは、どうやら間違いないようだが、
約160年前・・・ 彼から講義を受けた長州藩の若者たちは、身分に捉われることなく国を憂い、
「諸君、狂いたまえ!」の言葉のとおりに決起し、回天の偉業を成し遂げている。

実によくできたストーリーだが・・・ よくよく考えれば、それは総て結果オーライであって、
弟子の行動が、結果をともなっていなければ、
そこら辺りで見かける、頭は良いが、いささか気が短い、
「おっちょっこちょい」のオッサンということで、かたずけられていたかもしれない。

歴史とは、そんなものかも知れないが・・・ 歴史が、思惑通りに進んだことから、
僅か2年とはいえ、彼が講義した「松下村塾」は、世界が認める文化遺産に認定されるんだから、
いまになってみれば、歴史が彼を必要とするぐらい、なにかを持っていたのかもしれない。

萩の町は・・・ 長州藩・毛利氏が開いた日本海に面した、静かで小さな城下町だが、
維新から約160年の時を経てなお、
高杉晋作の生家や、木戸孝允(桂小五郎)の旧宅などが保存されていたり、
戦に備えて作られた迷路のような道路「平安古鍵曲り(ひやこかいまがり)」がCMに登場するなど、
そこかしこから吹いてくる、古(いにしえ)の風が、旅人を歓迎してくれ、
歴史好きには堪らない町である。

さらには、武家屋敷が並ぶ菊屋横丁を散策すると、
土壁の上から飛び出して伸びた枝からは、
この町の人たちが大事に育てた「夏みかん」の橙色が彩りを添え、
「夏みかん」を使った和菓子を、江戸時代から作っている老舗もあったりして、
昼下がりにお茶しても・・・ 和の雰囲気を感じる楽しい町だった。

閑話休題 
吉田松陰がいた時代から、約160年の歳月を経たいま、
現在を生きる若者たちは、いま目の前で起こっている国難について、
はたして・・・ 国難と捉えているのだろうか?

家族の不幸と、他人への迷惑を顧みることなく、自由を謳歌し、為政者の声に耳を傾けようとはせず、
ストレス発散を言い訳にして酒に浸り、我がもの顔で繁華街や行楽地に繰り出す姿に、
全ての若者が、そうだとは思わないが、
彼らの言動や行動に、国を憂う姿を見つけることはできない。

残念なのは・・・ だれに遠慮してるのか、なにに遠慮してるのか、
諫める言葉を口にする大人たちが、為政者にも、メディアにもいないことだろう。

吉田松陰が存命なら、160年後の若者に、いったいどういった言葉をなげかけるだろうか?
それを聞いてみたいと思うのは・・・ 私だけではないだろう。

彼は「正しいと思うことを、正しいと思うだけで行動しないことは悪だ。」という信念があり、
行動することを重んじる、行動主義の人であった。
そして、その信念こそが「諸君、狂いたまえ!」の言葉に秘められた思惑だった。

コロナ禍、東京オリンピック・パラリンピック、領土問題、
さらには・・・ 終わったはずの戦後補償など、
吉田松陰がいた時代にも匹敵する外圧にさらされ、
責任をとらないメディアの煽りとも取れる報道姿勢に、いまや、国民の思考は二分されてしまった。

さて、この国難を、いったいどうやって解決に導くのだろうか。
歴史に学べば・・・ それは為政者ではなく、後継の若者ということになるが、
160年を経た、この国の後継の若者たちは、吉田松陰が叫んだ「諸君、狂いたまえ!」の言葉を、
どうやら、そのまま直訳して捉えているようだ。


緊急事態宣言下のなか・・・ 日夜、路上飲みに興じる若者たちの姿を報道で見るにつけ、
言葉が適切でないことは百も承知だが、あえて言わせてもらいたい。
「きみたちは、狂ってる。」

この国の若者たちは、いったいどうしてしまったんだろうか?

そこら辺りの爺さんの声に、力があるとは思えないが・・・ 私は訴えたい。
「いでよ! 後継の若者たち」と・・・ 私は訴えたい。


世界文化遺産「松下村塾」 萩市椿東1537(松陰神社敷地内) 
 木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、幕末期に吉田松陰が主宰した私塾
 当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名がつけられた。

 天保13年(1842年)に松陰の叔父にあたる玉木文之進が自宅で私塾を開いたのがそのルーツ
 後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し子弟の教育にあたった後、
 安政4年(1857年)、28歳の松陰がこれを引き継いでいる。

 松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、
 わずか1年余りの間に、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎などなど、
 明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を輩出している。

高杉晋作(左)、吉田松陰(中)、久坂玄瑞(右)の像 萩市大字椿1258(道の駅・萩往還)
 長門の国・萩から周防の国・三田尻を経て、京へ江戸へと向かった街道「萩往還」に建てられた
 晋作・松陰・玄瑞の像、
現在は道の駅「萩往還」として、観光客で賑わっている。

 高杉晋作と久坂玄瑞(禁門の変で討死)は「識の高杉、才の久坂」と称され、
 「松下村塾の双璧」と呼ばれており、

 二人に吉田稔麿(池田屋事件で討死)を加えて「松下村塾の三秀」、
 三人に入江九一(禁門の変で討死)を加えて「松下村塾の四天王」と呼ばれている。

 返す返すも残念だったことがあるとすれば
 長州藩(吉田松陰門下)で最も優秀と称されていた四天王は、
 誰一人として、明治という時代にその名を残すことがなかったことだろう。
 彼らが維新を超えて存命であったならば、違った形の明治政府があったかもしれない。

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