時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

浪の下にも都あり。

2020年04月05日 | 歴史のこみち

多摩爺の「歴史の小径(その1)」
浪の下にも都あり。 - 平家終焉の海 - (山口県下関市)

回天(かいてん)・・・ それは時勢を一変させ、衰えていた勢いを盛り返すことをいう。
あまりにも潮の流れが厳しく、まるで大河かと見間違えるような海(関門海峡)は、
この国の歴史を語る上で外すことが出来ない、二つの大きな回天に重要な関わりを持っていた。

その一つは文治元年(1185年)、この国を二分する勢力(源氏と平氏)が
雌雄を決する戦いとなった「壇ノ浦の合戦」

この戦いを切っ掛けにして、源から北条、足利、豊臣を経て、徳川へと700年続く
武士が統治する社会が始まった。


もう一つが文久3年(1863年)、英米仏蘭の列強四か国を相手に、
壇ノ浦の海で長州藩が戦いを挑んだ「下関戦争」

この戦いを切っ掛けにして、歴史は維新(回天)に向けて動き始め、
武士の社会は終焉を迎えることとなった。


よって、この港町の歴史に関わった人物を知りたいとパソコンに向かい、
「維新」、「下関戦争(馬関戦争)」、「奇兵隊」などをキーワードに検索すると、
辿り着く人物は高杉晋作になるが、

「壇ノ浦」、「源氏」、「平氏」というキーワードに変更すると、源義経(よしつね)に辿り着く。

ただ、晋作と義経で決定的に違うことがあるとすれば、この町では晋作伝説は数多く残されているが、
義経伝説は八艘飛びぐらいで他になく、
むしろ戦いに敗れた平氏伝説の方が多くあるのだから不思議なものである。


そう、この町では・・・ 後に「判官びいぎ」という言葉に引用された義経よりも、

悲運の最期を遂げた「平家びいき」の町といっても過言じゃないだろう。

その証拠と言っちゃなんだが、
私が子供の頃、地元の盆踊りで踊ったのは「平家おどり」だったし、
あまり有名じゃないが、ご当地ソング「海峡のまち」の歌詞に
 寿永の春の 夢の跡 恨みを秘めて 赤間宮
   波の底にも 都あり 歩く道にも 眼を落とす 」とあるとおり、

平家を悼むことはあっても、源氏を称えることは記憶に残っていない。

歴史というものは、紛れもなく勝者の都合が良いように後世に伝えられる。
しかし、敗者に寄り添い続けてきたこの町に・・・ その論理は成り立たない。
というのも、敗者に寄り添える最大の要因は、
幼帝・安徳天皇がこの海で亡くなり埋葬されているからではなかろうか。


さらには・・・ 三種の神器の一つ「宝剣」が、
壇ノ浦のどこかにあるということも、一つのロマンになっている。


戦況から最後を覚悟した母(平清盛の子・建礼門院徳子)方の祖母二位尼(平時子)は、
三種の神器のうち神璽(しんじ)と宝剣(ほうけん)・を身につけると、
安徳天皇を抱き抱え、「波の下にも都がございます。」と慰め、
壇ノ浦の急流に身を投じたとされている。


この時、三種の神器(歴代天皇が代々継承してきた鏡・玉・剣)のうち、
八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、源氏軍が確保したものの
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、壇ノ浦の海から回収することが出来なかった。

よって、現在継承されている剣は、
後鳥羽天皇以降の天皇が、伊勢神宮から献上されたものを正式な宝剣とし、

現在・・・ 草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢神宮の内宮にご神体として奉斎され、
八尺瓊勾玉は、草薙剣の形代(かたしろ=代わりの物)とともに、
皇居・吹上御所「剣璽(けんじ)の間」に安置されている。


壇ノ浦の古戦場からほど近い下関市阿弥陀寺町には、
とてもじゃないが寺社には見えない竜宮城のような艶やかな社がある。

合戦の後、源頼朝の命により安徳天皇を埋葬した阿弥陀寺は、
明治に入って廃仏毀釈によって赤間宮に改称され、

昭和15年(1940年)には赤間神宮(安徳天皇陵)に改称されている。

個人的には、赤間神宮そのものをどうこう言うつもりはないが、
廃仏毀釈については、寺社を神社に強制的に変更したのだから・・・ 異議ありと記しておきたい。

いささか講釈が過ぎたが、長州人として過ごし生活の中で感じていた、平氏とはなんだったのか?
直木賞作家、故・葉室麟氏の随筆「柚子は九年で」に、
その視点を見つけたような気がしたので・・・ 記しておきたい。


 ・私は歴史の敗者を描きたい。彼らの存在に意味はなかったのか?
 ・歴史はいのちの火のリレーであるとともに、いのちが虚しく奪われてきた悲しみの連鎖であり、
  だからこそ、歴史を主題とする小説は・・・ 書き継がれる。
 ・栄華の誇りを捨て、亡ぶ美しさにとらわれない生き方を選択したことに、
  毅然とした意志の力を感じる。

 ・地方にいるからこそ、歴史の断面が見え敗者の生き様が見えてくる。
 ・歴史はその時代の勝者が書き残すもので、
  中央にいればどうしても歴史の勝者の視点になってしまう。


歴史の勝者は間違いなく源氏だが、この町(下関)の民は歴史の敗者(平氏)に寄り添って来た。
都落ちし、さらには落人となっても生き抜くことに意義があり、
生き延びてこそ、敗者の論理もまた語り継がれてゆき・・・ そこに歴史が出来る。
約850年という歳月が流れてなお、語り継がれる敗者の声、
敗者の生き様には毅然とした意志があった。


かつて、壇ノ浦界隈に住む漁師は小船に正座して漁をしていた言い伝えがある。
現在、そういった風習はないが、昭和の中頃まではそうだったという。
平氏の血を継ぐと言われている彼らは、
船べりに正座して釣り糸を垂れ、糸を手繰り、生活の糧を得ていた。

祖先への畏敬を念は文献のみならず、仕事の作法としてつい最近まで引き継がれていたのだ。


既に終ってしまった歴史上の決着を、今さら覆すことは出来ないが、
語り継がれ、受け継がれた敗者の意思を、未来に活かすことが出来るならば、
敗者の生き様は、新たな価値を生み出し・・・ 輝きを発する。

歴史に富める下関
未来に富める下関
この町の発展が・・・ その答えなんだと思う。


赤間神宮
パッと見は、竜宮城のような神社だが・・・ 元々はお寺だったというから驚きである。


赤間神宮
竜宮城のような鳥居を潜ると本殿の前に出てくる。

赤間神宮
この石碑が・・・ 赤間神宮がお寺(阿弥陀寺)だったことを証明している。


安徳天皇御陵
赤間神宮に向かって左隣、気づかずに見過ごす観光客も多い。(忘れないでほしいね。)


平家の一杯水 下関市前田2-1(国道9号線沿い)
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将が、深く傷ついた体で流れ着き、岸辺で飲んだという湧き水
一口目は真水だったが、二口目には塩水に変わっていたという言い伝えが残っている。
現在も赤間神宮の神事に使われるなど大切に保存されている。

岸壁から望む壇ノ浦
関門橋の下辺りで、源氏と平氏の戦いが繰り広げられた。

ご当地ソング「海峡のまち」
 朝日に光る 波しぶき 行きかう漁船 連絡船
  早鞆の瀬戸おしわけて 汽笛も響く虹の橋  あ~ぁ海峡のまち 海峡のまち 下関

  寿永の春の 夢の跡 恨みを秘めて 赤間宮
  波の底にも 都あり 歩く道にも 眼を落とす あ~ぁ海峡のまち 海峡のまち 下関

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