福岡県西方沖地震 - Wikipedia
平成17年3月20日、あの日は、春分の日だった。実家で母といた。
足が不自由になっていた母が腰掛けている横にいたときに、揺れた。
実家は震度4だったが、それでも、体験したことのない怖さだった。
自力では殆ど歩けない母の傍にいて良かった。
翌朝、帰宅する道すがら、舗道に倒れかからんばかりに倉庫が傾いていた。
すぐに役所に電話したら、ほどなく立ち入り禁止のロープが張られた。
かつてチケット購入のため、寝袋で泊まり込んだ舗道には、
ビルからシャワーのように硝子が降り注いでいた。
もし、あの日が午後だったら、休日の午後だったら、
多勢の怪我人で溢れ帰っただろう。繁華街のビルだったから。
我が家の周囲は、液状化で舗道と建物との差が10-20cmほどもあった。
我が家はマンションの中層階。周囲と同じく、浮いていた。
玄関を開けると、直ぐには入れなかった。
大きな家具は斜めにかませていたので、どれも無事だった。
油断していたローボードが、派手に動き、ビデオデッキはぶら下がり
大型テレビが棚から、かなりジャンプしていた。
もし、テレビの前にいたら、直撃して、大怪我していたかもしれない。
四分割しているローボードは、凸凹のまま今も動かしてない。
壁にかかった鏡は斜めになった当時のまんま。
あまりにも散乱していたので、直ぐには手が回らなかったのだが、
記念に残しておこうと思ったのだった。忘れないようにと。
この1か月後、最大余震があった。自宅で寝ていて、飛び起きた。
自宅にいなかった本震よりも、被害が出なかった余震の方が怖かった。
義姉にメールしようとしても、ミスタッチばかりで打てなかった。
義姉から電話もらって初めて、電話できることに気付いた。
それくらい、動転していたのだった。
余震でも混乱した。
もし、あの日、自宅にいたら、どんなに怖かっただろう。
それから1年ほどは、震度1でも、感じていた。
揺れたと思ったら、他の地域でのみ震度が出ていることもしばしばだった。
あれから、甚大な被害の地震が続出している。
私は幼少期に、床上浸水に遭い、救援物資の毛布で育っている。
そして、あの日からは、20年。虎ノ門の会社に出勤していた次兄が
あと1本ずれていたら、兄が犠牲者だったかもしれない。
災害、事件事故は他人ごとではない。
安全、安心な、暮らしでありますように。