青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-25 03:03:07 | 月の世の物語・別章

ある街角の、あるアパートの一室で、白い卵型の顔に、黒髪を丁寧に整えた一人の若者が、わきにスケッチブックを抱え、画材を入れたカバンを手に持って、上着の襟を整えながら、ひゅう、と口を鳴らしました。彼はこれから外に出かけ、近くの公園に向かい、噴水を囲む木々の風景をスケッチすることにしていました。

外に出ると、空は気持ちよく晴れて、風は春の薫りを運んできました。若者は、いろいろと苦労はあるが、人生はそれほど悪いものではないな、と思っていました。やれば、なんとかなるものなんだ。希望はある。つまずきはあっても、それほど運が悪いわけじゃない。チャンスはやってくるものさ。彼は一冊のスケッチブックに、将来への夢をこめて、明かるい舗道を公園に向かって歩きはじめました。

歩いているうちに、彼はふと何気ない舗道のでこぼこにつまずき、おっと、と言いながら倒れかけました。そのとき、彼はいきなりめまいを感じ、風景がぐらりとゆれたような気がしました。しかし、すぐに気分を取り戻し、体勢を整えました。どうした?昨日の寝不足がたたったかな。彼はそう思いながら、また歩きだそうとしました。すると、目の前に、灰色の上着に黒いズボンをはいて、スケッチブックとカバンを持って歩いていく男の後ろ姿が見えました。彼は、あれ?と声をあげました。あれは、おれじゃないか。なぜおれが、あそこを歩いているんだ?…いや待てよ。おれはここにいる。じゃあ、あれは、誰なんだ?

彼は、その後ろ姿を追いかけ、「おい」と声をかけました。すると男は彼を振り向き、彼そっくりの顔で、目を光らせながら、にやり、と彼に笑いかけると、そのまままた前を向き、行ってしまいました。彼はそれを追いかけようとしましたが、なぜかもう、そこから一歩も進むことができませんでした。

な、なんなんだ、なんなんだ、一体……。彼が茫然として、もう一人の自分の姿が、角を曲がって消えていくのを見送ったその時でした。どこからか、彼の名を呼ぶ声がし、ガシャン、ガシャン、と音がして、彼の周りを透明なガラスの壁が囲み、一瞬のうちに彼は立方体のガラスの檻の中に閉じ込められました。「愚か者よ」その声は言いました。「思い出せ。あなたは生まれる前、怪と契約した。今度の自分の人生をやるから、自分に最高の幸福を与えよと。あなたはこれから、その結果をその目で見なければならない」。

その言葉に、男は、はっとしました。ああ、そうだ!確かにおれはそうした。生まれる前、あのでっかい怪に会いに行った!生まれるたび、何をやってもいつも失敗して、結局は不幸なことになって死んでしまうから、今度こそこの地球で、決して壊れることのない大きな幸福を手に入れたかったのだ。でも、これはちがう。これはちがう。あれはおれじゃない。あれは、おれが生きているんじゃない!

また誰かの声がして、ガラスの檻の中に響きました。
「あなたは怪に人生を売った。だからこれからはあの怪があなたを生きていく。しかし彼がやったことは、神の道理によって、あなた自身がやったこととして計算される。あなたはもう何もすることはできない。彼はあなた自身をあなたとして勝手に生き、その人生を栄光へと導くことだろう。あらゆる敵を打ち破り、勝利していくだろう。それはすべて、あなたがやったことになる。見るがよい」
すると、ガラスの檻の壁に、ちらちらと光る数字の並んだ細長い長方形のメーターが現れました。そのメーターを見て、彼は目を見開きました。なんだこれは!
「愚か者よ」とまた声は言いました。「そのメーターの数値はあなたの罪の量を表す。あなたは怪があなたとしてこの地上で生きている間、そのガラスの檻の中から、全てを見ていなければならない」。

彼はちらちらと光りながらゆっくりと数値をあげていくメーターを見ながら、ガラスの檻をたたき、そこから出ようともがきました。しかしどんなに叩いてもガラスの壁は決して割れることはなく、彼の懸命の拳や蹴りを何倍もの力で跳ね返しました。彼はおろおろとしながら、檻の真ん中に立ちつくし、周囲を見回しました。早回しの映像のように、時はどんどんと進み、一瞬にして風景が変わり、彼は自分を生きている怪が、兵として軍に従事し、憎しみに燃えながら銃を打ち、何人もの敵を殺しているのを見ました。
「まさか、まさか、まさか、なんでなんだ。おれは、絵を描きたいんだ。兵隊になんかなりたくない。絵を描きたいんだ!」

彼は壁のメーターを見ました。すると前見たときよりも一段とその数値は上がっていました。ガラスの向こうの自分が銃を打つたび、数値はカチカチと音を立てて変わり、だんだんと増えていきました。「ちがう!おれがやったんじゃない!あれは断じておれじゃない!」彼は叫びました。しかし答える声はなく、ただ数を数えるメーターの音だけが響きました。

風景はまた変わり、彼を演じている怪は、病院の中にいました。彼はひとときそこで、戦いで得た体の傷を癒していました。ガラスの中の男はほっと息をつき、病室のベッドに横たわっている男に向かって叫びました。
「もうやめろ!もういい!あの契約はなしだ!おれにおれを返せ!おれがおれを生きる!返してくれ、返してくれ、おれの人生を!」
しかしその声は、ガラスの向こうの男に聞こえることはありませんでした。ガラスの中の男は、ベッドの上の男に、無数のムカデがとりついて、人形のように彼の体を操り、何事かを看護婦に語っているのを見つめていました。その話を聞いて、看護婦は目を見開きながら驚いていました。この人は普通じゃないわ、と看護婦は心の中で思い、恐れを抱いていました。

「ああ、ああ……」彼はあえぎながら力なく膝をつき、ガラスの壁を叩きながら、嗚咽をあげて泣き始めました。「出してくれえ、出してくれ!あれは、おれじゃない!おれが、あんなことを言うはずがない!」
しかし、誰も答えるものはいませんでした。

時がすぎました。しばらくの間、ガラスの檻の中に横たわり、ぼんやりと怪が生きる自分の人生を見守っていた彼は、ある時、彼が政治家になるために選挙に立候補し、人々に向かって高らかな声で演説をしているのを見ました。彼はその演説を聞き、もうたまらないというように、ガラスにすがりつき、言いました。ああ…、おれだ、おれが、おれがやっている。あんなことを、あんなことをやっている。メーターがカチカチと音を鳴らし、数値をあげていくのを、彼は振り向くこともなく、聞いていました。
民衆は彼の力ある演説の言葉に心ひかれ、彼は絶大な支持を得て、政治家としての道を歩み始め、だんだんと大きな権力を得てゆきました。

彼はやがて、大きくとても立派な家に住みました。家政婦をやとい、自分の世話をさせました。庭師もやとい、自分の好きな木や花を庭に植えさせ、暇なときにはそれを眺めて楽しみました。食べるものもたいそういいものになりました。異国から呼び寄せた調理人に、見たこともないような凝った料理を作らせ、彼はいかにもそれをうまそうに食べ、次第に太ってゆきました。

そして、地球の空を、暗雲が襲いました。姿の見えぬ怪が、神のまなざしを巧みによけたつもりで、人々の耳に地獄が来ることをささやきました。戦争でした。人々は互いに互いを妬み、憎み、殺し合いを始めました。そのとき、ガラスの向こうの自分は、もう国の最高の地位にいました。まさに、彼が生まれる前の夢に描いた通り、それはあたかも、最高の幸福のように見えました。誰もが彼の言葉に従い、人形のように彼に操られ、次々と戦場に向かい、惨い殺戮を行っていきました。

ガラスの中の男は、もう口をきくこともできず、ただ、メーターの数値が上がっていくのを、見ていました。数値はどんどんと跳ね上がり、やがてそのメーターでは計りきれなくなり、ボン、と破裂して消えたかと思うと、今度はもっと大きな数値を測れる新しいメーターが現れ、また数値をカチカチと打ち始めました。ガラスの中の男は、ひ、とひきつって笑い、よろよろとひざをついて頭を振りました。まさか、うそだ、こんなこと。おれはやってない、ここまでひどいことは、やってない…。できるはずが、ない……。

彼はガラスの外から、がりがりと言う猛烈な音が響いてくるのを聞いて、振り向きました。するとそこでは、鉄色の怪物のような戦車隊が、ある村を襲い、家々をひきつぶし、逃げまどう人々を追って砲撃を繰り返していました。村のそこここに、血にまみれ、体をつぶされた惨い死体がるいるいと横たわっていました。戦車は逃げる人々をどこまでも追いかけ、彼らが死に絶えるまで、攻撃をやめませんでした。

ふと風景が変わり、彼は、輝く紋章を描いた大きな旗の下で、自分が雄々しく手を挙げて、大勢の民衆のたたえる言葉に答えている風景を見ていました。彼は今や、独裁者でした。民衆の間を、怪が飛びまわり、彼らの脳を奪い、人々を群衆の暗黒の怪物へと変えてゆきました。人々の拍手に迎えられ、彼は大げさに手を振りながら、国の栄光を語り、自分たちが神とともにあると語り、だれも自分たちを負かすことはできない。われわれこそが、神に選ばれた人間だと叫びました。人々は狂気の中でそれを信じ込み、まっすぐに、彼の導く道を迷うことなく進んでいきました。

虐殺が行われました。彼らは、自分らとは違う、卑しく、正しくない、選ばれなかった人々を、次々に、生きていても意味もないからと殺していきました。人々は、それぞれに、人間が考えられる限りの惨いやり方で、いとも簡単に、殺されていきました。
ある者は、鉄のとげの生えた重い板に挟まれ、ある者は毒をまぜられた水の中に裸で放り込まれ、またある者は生きたまま薪と一緒に巨大なかまどに放り込まれて焼かれました。人の腕をちぎり、足をちぎり、目をつぶし、皮をはぎ、これほどひどいことをできるのかと、神も驚くほどのことを、人々は平気で、いとも簡単に、それほど変わったことでもないというように、やっていきました。

全ては、彼の命令で行われたことでした。ガラスの中で、彼は、信じられないという顔をしながらただ茫然とそれを見ていました。「神よ」彼はガラスの中にひざまずき、懸命に祈り、助けを請いました。「悔い改めます。まちがっていました。わたしは、まちがっていました。ゆるして、ゆるしてください……」しかし今更、何を言おうと無駄でした。

ガラスの向こうの彼は、一層栄光の上に登り、まさに新たに進化を遂げた真の人間として民衆の前に現れ、民衆の信仰を一身に浴びていました。彼は紋章の下、凛々しくも美しい衣装を身につけ、手を挙げて民衆の喜びに答えながら、新たな神のお告げを彼らに叫びました。

「人々よ!神はわたしに告げられた。殺せ。我々以外のものは、全て殺せ!なぜなら彼らは、神の導きによる進化の道からこぼれた、人類の失格者だからだ!」

メーターの数値が、跳ね上がりました。ガラスの中の男は、もう、耐えられませんでした。ガラスの壁を、手が砕けてもいいというほど何度も何度も、叩き、叩き、全身を切り裂かんばかりの声で、叫びました。

「やめろ! アドルフ!!!」


 
 
 
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2025-01-24 03:26:42 | 月の世の物語・別章

彼は、一面に鏡を敷き詰めた、どこまでも広い王宮の床のようなところで、常に手を鏡について頭を下げ、ひざまずいていました。頭上はるかな月は、その鏡に映り、いつも、そんな彼の様子を下から静かに見守っていました。彼は、もう何百年もの間、その鏡の部屋にひざまずき、頭を下げて、次々に目の前に現れる、誰かの足がはいた黒い皮靴を、自分の舌でなめて清めていました。

ひとことに皮靴と言っても、いろいろあり、中には表面にびっしりと画びょうを張り付けた意地悪な靴があり、彼はそれを、口から血を流しながらなめなければなりませんでした。また時には、童女がはくような小さな皮靴に、密かに毒がぬってあり、彼はその毒にあたって七日ももだえ苦しむことがありました。また時には、鏡に、靴の主のにやにやと笑う顔が映って見えることもあり、その顔は彼を見て嘲笑い、「馬鹿め、死ね」とののしりました。

彼はある人生において、ある国の、ある地方を治める武将でした。そのとき国は戦国の時代でした。たくさんの男たちが、国の覇権を争い、その知恵と力と誇りをかけて、戦っていました。彼はかなり知恵のある武将で、あるとき敵を巧みに罠にはめ、周りを取り囲んで一斉に攻め込み、あっけなく勝利をつかみました。しかし勝利の美酒に酔ったのもつかの間、敵も馬鹿ではありませんでした。彼の使った罠を逆手にとり、それを活用してもっと凝った罠をつくり、彼は自分の使った手と同じ手にはめられ、敵の小兵の放った矢に喉を突かれて死にました。彼の治めていた地方は、敵に占領され、民と兵たちは次々に惨い目にあわされて殺され、あるいは奴隷として扱われ、重い労役を課されたり、恐ろしく恥ずかしい仕事をやらねばならなくなりました。

そして死後、彼は、自分が駒のように扱い、その命と人生を奪ったたくさんの人々の前にひざまずき、その靴をなめねばならなくなりました。それは生前と、まったく逆の姿でした。生きている頃、彼の姿を見ると、人々は地に手をついて彼にひれ伏し、彼を恐れました。彼はその人たちを、とるにたらぬものだというように、これといって興味も示さず、通り過ぎて行きました。それがこんな結果になるとは、彼は思いもしませんでした。その地獄の管理人は、彼に深く教え込みました。
「よいか。ただおまえは、人に『歩け』と言っただけで、その人の誇りを奪ったことになったのだ。言葉には気をつけよ。人に『歩きなさい』と言えるのは、人間ではない。神と、人を愛に導く清らかな人の霊だけだ」
また管理人は、こうも言いました。
「人は少しでも人より強い知恵と力をつければ、すぐにそれに驕り、もっと良いものになろうと人を馬鹿にし始める。あなたもまたそうだ。馬鹿と言えば、馬鹿と返ってくるように、戦って勝てば、必ず負ける。人は常に人に勝つことを求めるが、常に勝つ者などいない。常に勝利するものがあるとすれば、それは愛のみだ。愛でなければ、何ものにも勝つことはできない。あなたは戦ったが、それは愛ではなかったのだ」

男は、何百年かの間を、ただただ人の前にひざまずき、靴をなめ続け、その性根をたたきなおされていきました。男は、最初の頃こそ胸に反抗の心を燃やし続けていましたが、年月が過ぎていくうちに、だんだんと、こうして人の前にひれ伏さねばならない人の屈辱感とつらさがわかってくるようになりました。自分のしたことがなんであったのか、彼はその賢さをようやく違う方向に向け始めました。確かに、まちがっていたと、彼は思いました。このように無理やり人に頭を下げさせることは、確かにまちがいだ。それだけならともかく、自分は彼らをもののように扱い、人と戦わせ、その命と人生の全てを奪った。それはすべて、自分の力と知恵の素晴らしさを人に見せつけ、敵を殺して勝つためだった。

彼は、ある日、靴をなめながら、ふうと息をつき、目から涙を流しました。そして心を変えて、すまなかったと謝りながら、心をこめて丹念にその靴をなめました。胸が震えて、涙がとまらなくなりました。その仕事が、とても大切な、幸せのように思えました。ずっとこうしていこう。全てに耐えて、皆に謝ってゆこう、彼がそう思った、その時でした。

ふと、周りの風景が変わり、彼は白い服を着て、いつしか果てもない砂漠の中に立っていました。そのはるか上空では、彼を見つめていた一人の青年が、魔法で翼ある天使に姿を変え、「ヤオ・フェイ・ライ」と彼を呼びながら、彼のそばに舞い降りました。いくつかの人生の中で、キリスト教徒として戦ったこともある彼は、思わずその姿の前にひざまずき、手を組みました。

「ヤオ・フェイ・ライ。あなたは何百年かの罪の浄化を行い、深く悔いた。そのため、次の段階に進むために、試験を課されることになった。見よ」天使は言いながら、砂漠のはるか向こうを指差しました。すると砂漠の中に、蛇のようにくねりまがった、一筋の白い道が現れました。天使は言いました。
「ヤオ・フェイ・ライ、あなたはこの道を進み、次々に問われる質問に、すべて『はい』と答えなさい。決して『いいえ』と言ってはならない。もしあなたが、質問に『いいえ』と言えば、そこで試験は中断され、すぐに元の地獄に戻り、また人々の靴をなめねばならなくなるだろう」ヤオ・フェイ・ライと呼ばれた男は、天使に祈りの姿を見せながら、素直に、はいと答え、その言葉通り、道を進み始めました。

彼が、道を歩いてゆくと、しばらくして、行く手をさえぎるように、蛙の形をした石像が道の真ん中に現れ、目を光らせて彼を見つめ、言いました。「ヤオ・フェイ・ライ!この盗っ人め!よくもあんなことをやったものだ!」すると彼は、いつだったか、戦いの中で敵の穀蔵を襲い、そこから兵糧を全て奪ったことがあるのを思い出しました。彼は胸を突かれるように苦しい思いがしましたが、静かに「…はい」と答えました。すると蛙の姿はすぐに消え、再び目の前に白い道が現れました。

またしばらく道を行くと、今度は道の真ん中に猿の像が現れ、目を光らせて言いました。「ヤオ・フェイ・ライ!この嘘つきめ!よくも裏切ったな!」するとヤオ・フェイ・ライは、かつて密約を結んだ国を、戦の情勢が変わるや否や軽々と裏切り、敵側についたことがあるのを思い出しました。彼はそれを思い返すと恥ずかしさに身が縮み、消え入るような声で「…はい」と答えました。猿の像はすぐに消えました。

そうして、彼が道を進んでゆくたび、次々と、蛇や兎やイタチや蟹などの像が次々と現れ、彼に厳しい質問をしていきました。彼はそのたびに思わぬ過去の痛い傷をつかれ、眉に苦悩を見せたり、悔しさに歯をかみしめたり、恥に涙を流したりしながら、「はい」と答えてゆきました。

彼は、次々と質問に答え、やがて、ふと、そこから道が消えてなくなっているところまで来て、戸惑いました。上空を見ると、常に彼の様子を見守っていた天使が、硬い表情のまま静かに行く手を指差し、「進みなさい」と言いました。彼はそれに「はい」と答え、道の消えている向こうへ、一歩足を踏み出しました。すると突然、そこに大きな石の扉が現れました。その扉の上には、燃えるような目をした獅子の顔の石像があり、その獅子が、まさに吠えるような声で、彼に問いを投げつけました。

「ヤオ・フェイ・ライ!おまえなど、すべて馬鹿だ!!」

ヤオ・フェイ・ライは、ぐっと、黙りこみ、茫然と獅子の顔を見つめました。…馬鹿だと?おれが、賢いこのおれが、すべて馬鹿だと?

すると突然、頭骨を割るようなひどい叫び声が、脳裏に蘇りました。「この能無しめ!死ね!」
それはかつて、作戦に失敗した部下に向かって彼が発した言葉でした。主君の言葉が絶対だったその時代、その部下は彼の言うとおり、翌日自ら喉をついて死にました。

それは彼が、最も栄光を味わった人生でのことでした。部下の失敗で状況は不利に陥ったものの、彼は寸前に思いついた奇策で優勢を取り戻し、何とか敵に勝利して、自分の持つ壮大な宮殿へと、悠々と帰ってきました。多くの召使が彼の前にひざまずき、彼は食卓で上等な酒に酔い、遠く山海から運ばれた豊かな食材を使った豪華な料理に舌鼓を打ちました。そしてたくさんの美女たちが、玉の寝床に横たわり、薄布を脱いで白い裸体をさらし、誘惑のまなざしで彼を見つめました。しかしそれは、一瞬の夢でした。

彼は宮殿でしばしの憩いを得たあと、すぐに戦に向かい、今度は散々に敵に弄ばれ、命からがら逃げ帰りました。敵はさらに追い打ちをかけ、彼を追って彼の国を攻め始めました。町に、蟻のように敵の兵が攻め込み、彼の国は燃え上がりました。彼は必死に攻め返しましたが、運が彼を見放したように、彼の攻撃は敵に次々と打ち砕かれ、やがて火は彼の宮殿をも燃やし始めました。

炎の中で、多くの人々が死に、あるいは鼠のように彼を見捨てて逃げていきました。彼は敗れ、燃え上がる宮殿に一人残されました。負ければ、全ては終わりでした。やがて彼は敵の兵に捕らえられ、敵の将によって裁かれ、目をつぶされて、残りの短い人生を、寒い牢獄の中で、腐った飯を食わされながら、生きねばなりませんでした。

何のために、戦ったのか。あれは何のためだったのか。美女と寝るためか。うまい食い物のためか。豪華な宮殿に住むためか。

常勝の男とはだれだ。そんなものがいれば嘘だ。すべてに勝利して、すべてを組み敷いて、おれのみが勝つのだ、おれ以外はすべて負け犬だと、そんな男がどこにいる。それはおれか?馬鹿な!おれは負けた。いつも、いつもそうだった。何度かは勝って、何もかもがおれのものになったかに見えた。でもすぐにそれは消えた。おれは負けて、負けて、負け続けた!そしておれに集まるすべての人をそれに巻き込んで、死んだ!

なぜだ!? なぜ戦った!何のために!
彼は、幻を見ました。それは、玉に飾った光る鎧を身にまとい、駿馬を駆って、雄々しく剣を振るうかつての自分の姿でした。彼は目を見開きました。あれは誰だ?なんて格好をしている。なんであんなことをしている?
そのとき、頭の奥を、何かがかちんと割れる音がしました。ああ!彼は心の中で叫びました。わかった。あれは、あれは、…馬鹿だ。

ヤオ・フェイ・ライの心を、静かな風が吹きました。涙は、彼の頬を見知らぬ別の生き物のように流れ、砂漠の砂にほたほたと落ちました。遠い昔の雄たけびが、喉の奥にかすかによぎりました。やがて彼は、身にはりついていた重い鎧の影を脱ぎ、不思議に安らいだ笑いを見せながら、ゆっくりと獅子を見上げ、小さな声で、確かに、「はい」と、答えました。

すると獅子は、かすかに顔をゆらし、彼の顔を見下ろしながらしばし沈黙したと思うと、目をとじて静かにうなずき、扉を開きました。ヤオ・フェイ・ライは、いつしか、静かな緑の森の中にいました。

見ると、森の木々の一本一本には、薄い石の板で作られた扉が立てかけられてあり、それぞれに、小さな名札が貼り付けられていました。
「ヤオ・フェイ・ライ」天使の声が、かすかに遠ざかりながら聞こえました。「ゆく道を探しなさい。たくさんの扉の中に、あなたのゆく道がある。その道を自ら探し、扉を開きなさい…」
彼はその言葉に「はい」と答えて従い、森の木々の間を歩いて、一枚一枚の扉に貼られた名札の名を、ひとつひとつ、読んでゆきました。

シモーネ・ガブリエリ、ミヒャエル・フェスカ、カツラギ・ナオヒコ、アントニア・デニツ、ピエール・ヴィリオン、ムハメド・サドール、ユリアンナ・クリシコワ、シリル・ヒギンス、サリク・テトル、ヨナタン・デ・カーロ……。やがて彼は、その中に、ふと心を魅かれる名前を見つけ、その扉の前に立ち止まりました。

エン・クォ・メイ。

ヤオ・フェイ・ライは、その名に、どこか不思議な懐かしさを感じながら、自然に扉の取っ手に手をかけました。扉は彼のその手を引くように、勝手に開いて、彼を中に導きました。するとまた、いつしか、彼は見知らぬ家の中にいて、目の前で、作業台の上にうつむいて一心に土をこねている、広い背中の男を見つめていました。

彼はその背中に呼びかけました。「エン・クォ・メイさん」。すると男は、驚いたように作業台から顔をあげて振り向き、彼を見ました。その顔を見てヤオ・フェイ・ライは驚きました。どこかで会ったことがあるような気がしましたが、それはどうしても思い出すことができませんでした。エン・クォ・メイは、驚きながらも喜びを顔に表して彼に近づき、土だらけの手で彼の体を抱きしめて、言いました。
「来たのか!おまえも、来たのか!あの道を!」

エン・クォ・メイは自分が今、村で陶工をしていると告げ、一緒に仕事をしよう、とヤオ・フェイ・ライに言いました。ヤオ・フェイ・ライは、ただ「はい」と答えました。

こうして、ヤオ・フェイ・ライは、エン・クォ・メイの元で、しばらく陶器を作る仕事の手伝いをすることになりました。彼らは不思議に息があい、ヤオ・フェイ・ライは、もともとの賢さを発揮して、すぐに仕事を覚え、なかなか上手に器を作れるようになりました。
露草色の空の月に照らされながら、彼らはともに働き、時にお茶を飲みながら語り合い、少しずつ、静かに友情を深めていきました。

はるか昔、彼らが、国境を挟んで互いに剣を向け合った武将であったことがわかるのは、まだずっと先のことでした。

 
 
 
 
 
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2025-01-23 03:22:38 | 月の世の物語・別章

豆のさやの形の船に乗った少年は、露草色の空にかかる白い月を目指し、まっすぐに飛んでいました。彼の船の中には、石炭のように黒く曇った水晶の箱が置いてあり、それは、風も精霊の手も神の手も触れていないのに、こんこんと音を鳴らしながら、鼠がおびえているように震えてうごめいていました。

「ふう」彼は息をついて、ゆっくりと月に船を下ろしました。白いなめらかな大地の続く月の上に、月長石の小山のような地形がひとつあり、その山にはあちこちに、ガラスをはめこんだ四角い窓がたくさんありました。少年は船を山のすぐ前に下ろすと、後ろの席から例の黒い水晶の箱をとり、船から降りて山に向かいました。そして山の前で自分の名前と要件を告げると、すぐに目の前にガラスの扉が現れ、それが開いて、彼を中に呼び込みました。

そこは、月のお役所でした。彼は受付に出てきた若い役人の一人に、黒い箱を差し出して、言いました。「これです。例のもの。でも、どうしてなんです?けっこう便利だったんだけどな、いろんな魔法に使えて」少年が言うと、役人は「ふむ」と言って、黒い箱を受け取り、蓋を開けて中を確かめました。その中では、かつて、少年が地球上で友人からもらった地球の魔法玉が入っていました。小さな魔法玉は、触れるものの指を焼くほどの熱の光を放ちながら、心臓のようにどくどくと鼓動しつつ、触れもしないのに、箱の中をころころと転がっていました。役人は言いました。
「上部のご命令でね。月の世にある地球玉は全て回収するようにとのことなんだ。理由は言えない。君も最近は、これの扱いに、少々困ってたろう?」「…ええ、それは。ちょっと前からだったかな。だんだんと熱くなってきて、素手で触れなくなったから、手袋をはいて扱ってたんですけど…」少年は役人の持っている黒い箱を見ながら、まだ残念そうな顔をしていました。地球の魔法玉は、彼の船を動かす魔法の道具としてすばらしい働きをして、特に地球に向かって人や荷物を運ぶときなどは、それは早いスピードで船を運んでくれたものでした。

「ちょっと待ってくれたまえ」役人はそういうと、黒い箱を持って、受付の部屋から姿を消し、数分後、透明な水晶の箱を持ってきて現れました。「天の国の月長石だよ。あそこの職人が魔法を念入りに行って作ってくれたものだ。地球玉を提出したものは、代わりにこれをもらえることになっている」透明な水晶の箱の中には、厚い月光をたっぷり吸いこんだ、小さな光る月長石の玉が入っていました。それは地球玉のような熱の光は持っていませんでしたが、静かにも清らかな白い光を濃く放っていました。役人はそれを、箱ごと少年に渡しました。

「ありがとうございます」少年は水晶の箱を受け取りながら言いました。そして役人に挨拶をすると、静かにガラスの扉から出て行きました。少年は船に戻ると、水晶の箱から月長石の玉を取り出して、それを手にとってしばらく眺めました。「地球玉とはまるで違うなあ。あれは怖いくらい迫力があったけど、これはなんだか、きれいな女性が静かに笑ってるみたいだ。…どんなものだろう、とにかく使ってみるか」彼は、操縦席の舵の真ん中に描いてある紋章の中に、その月長石の玉を放り込むと、呪文を唱えてみました。すると、船はまるで重さがないかのようにふわりと浮かびあがり、舵を勝手に回して、船を動かし始めました。少年は、「おおっと」と言いながらあわてて舵を握りました。「お、軽いや」言いながら彼は舵を操りつつ操縦席にある幾つかのスイッチを押しました。すると船は彼の命令に従い、羽根のように軽く、月の風の中を飛んでゆきました。「…へえ、これもいいや」少年は満足して笑い、船のスピードを上げ、露草色の村に向かって、静かに下りてゆきました。

地球玉を受け取った役人は、お役所の中の廊下を何度か曲がり、奥の階段を上り始めました。そして最上階にある小さな扉の前に止まると、少々発音の難しい呪文を唱え、自分の名と要件を述べました。すると、扉は開くこともなく、中から一人の女性役人が扉を透いて現れて、役人の差し出した黒い箱を受け取りました。「では、頼みます」役人が言うと、女性役人は小さく頭を下げ、「わかりました」と答え、また扉の向こうへ、扉を開くこともなく、入って行きました。役人は、女性役人が消えていったのを確かめると、黙って扉に背を向け、自分の仕事場へと帰ってゆきました。

その部屋は、聖者以外の男性は決して中に入ってはならない部屋でした。黒い箱を受け取った女性役人がその中に入ると、そこには何人かの高い力を持つ女性役人がいて、それぞれに、知能器の前に座ったり、帳面に銀のペンでしきりに何かを書いていたり、月長石に吸い込んだ月光に呪文を振りこんではしきりに光の糸をひきだし、それで何かを編んでいたりしていました。

「新しい地球玉がきたわ」黒い箱を持った女性役人が言うと、ほかの女性役人たちが一斉に彼女を振り向き、それぞれの椅子から立ち上がって彼女の元に近寄り、箱の中の地球玉を覗きこみました。

「まあ、これはまた、変わってるわね」「ええ。前にここに来たものは、いつだったかしら」「ひと月前よ。あのときの玉はまだ、こんなに熱くはなかったし、震えてもいなかったわ」「…まるで、何かにおびえているみたい」

女性役人たちは、地球玉を取り囲んでしばし会話を交わしたあと、熱い地球玉には触れることなく指で魔法を起こして箱からふわりと取り出し、それを宙に浮かせたまま運んで、部屋の隅にある祭壇のような形をした大きな知能器の前の台に置きました。別の女性役人が、清めの呪文をつぶやきつつ、ある一連の詩のような複雑なパスワードをキーボードに打ち込みました。すると知能器の大きな画面に、緑の光を放つ美しい神の紋章が現れ、女性役人たちはその紋章の前に一斉に頭を下げ、祈りを捧げました。

「清らかにもお美しき神の御心に感謝します。愛なる光にとことわの栄がありますように」女性役人たちが紋章に向かって深く礼儀をすると、台の上で震えていた地球玉が突然鋭い光を放ち、悲鳴を上げるような、きぃ、という音を上げて、かちんとひび割れ、だんだんと光を弱めながら、小さくなり始めました。

一定の儀礼を終えると、女性役人はまた深く神への感謝を表し、再びキーボードを打って、神の紋章を消しました。そしてひび割れて小さくなった地球玉に、おそるおそる触り、手にとりました。玉は、ひび割れながらも、まだかすかに内部に光をともし、それはじくじくと痛む傷に耐えるかのように、点滅を繰り返していました。

「…ひびが入ったわ。これは何のおしるしかしら?」「わたしたちに、わかることではないわ。神が教えて下さらない限り。…推測はできるけれど」「ええ、おそらく地球玉は、今の地球に、何らかの筋道を通って共鳴しているのよ。水晶球を全て埋め終わってからよ、地球玉がこんな風になりだしたのは」

彼女らの仕事は、この地球玉のように、清らかなものと汚れたるものの複雑に入り組んだ、普通の魔法ではなかなか手に負えない汚れを、神の紋章の力を借りることによって清めることでした。今の地球上には、一言汚れといっても、さまざまなものがあり、一見清らかに見えるものが、奥の奥に恐ろしい汚れを秘めていることがあるものなどが、たくさんありました。それは時々、罪びととともに月の世に持ち込まれ、所々で人の目をくらまし、さまざまな害を及ぼすことがあったのです。

女性役人の一人は、とにかくひびの入ったその玉を、透明な水晶の箱に入れ、日付と採取した場所、測定した光度や清めの印などを書いたシールを箱に貼り、部屋の奥にあるもう一つの部屋の扉を開け、その中に入っていきました。数人の女性役人もその後を追いました。奥の部屋には、棚の上に、水晶の箱に閉じ込められた数々の地球玉が、見えやすいように斜めにたてかけられ、日付の順に並べられていました。

女性役人たちは、ひびの入った地球玉を、棚の一番端に立てかけると、呪文をつぶやいて手の中に帳面を出し、そこに書いてある地球玉の観察記録に目を通しました。そして棚に並んだ地球玉を注意深く観察していると、日を追って、地球玉がだんだんと小さくなり、光を弱め、代わりに何か、分厚い影のようなものが、表面に現れてきているのに気付きました。「これは何?」ひとりの女性役人が言いました。「玉の奥に潜んでいた地上の汚れが出てきたのね。普通は玉そのものの熱や光で常に浄化されているはずだけれど」「神の浄化を受けるとなぜか光が弱まって、汚れの方がきつく表面に出てきてしまう」「そうね。水晶球は確かに、何らかの影響を地球に及ぼしているのよ。それで神の浄化を受けると、地球の真実がこの小さな地球玉に見えてくるんだわ…」女性役人たちは会話を交わしながら、帳面に新たな観察記録を記すと、それを手から消し、奥の部屋から元の部屋へと戻りました。

「準備は着々と進んでいる」突然、ひとりの女性役人が、自分でも思いもしなかったことを、何かに操られたかのように言いました。ほかの女性役人は一斉に彼女を見ました。彼女らにはわかっていました。神が彼女の口を動かしたことを。こういうことは、この部屋では珍しくありませんでした。女性らしいきめ細やかな霊感を持ち、神のために己の座を空けることをしなやかにできる彼女らの魂には、あまりにも透明で傷つきやすい清らかな神の御手が、傷つくこと少なく、同じ段階の男性よりもかなり簡単に触れることができるからです。

「準備は着々と進んでいる?」ほかの女性役人が繰り返して言いました。だれかがため息をつき、額をもみながら、しばし何かを考え込んだかと思うと、指をぱちんと弾き、一息呪文を唱えて、部屋の真ん中の中空に、地球の幻を描きました。他の女性役人たちもそれを見つめました。女性役人たちは、地球の幻をくるくるとまわしながら、しばしその様子を観察していました。「埋められた水晶球によって、地球上の影が、清いものと分別されはじめているのだとすれば、地球玉の変化も納得いく…かしら」一人の女性役人が言うと、隣にいた女性役人が首をかしげつつ、言いました。「わからないわ。神のなさることは、理解できないことが多すぎる。こうして見たところ、地球上にあまり変化が見えるとは思えないけれど…」

と、ある女性役人が、ふと何かの霊感に打たれて、片方の瞳を紫色に変え、通常とは違う瞳で地球を見てみました。「待って、ちょっと地球を止めて」その女性役人が何かに気づいて言うと、目の前でくるくると回っていた地球が止まりました。「見て、ここ」彼女は指から光を出し、地球上のある一点を差しました。「水晶の陣の相当近くにあるところ。目に見えない火山がある」すると他の女性役人たちは、彼女と同じように片目を紫色に変え、その一点を見てみました。「まあ、ほんとう!」「これは、普通に見ていてはわからないわ!神のお導きね!一体なんなのかしら?」「活動をしているわけではないみたい。いや、まだしていない、というべきかしら」「ほかにはないかしら。探してみましょう」
女性役人たちはまた幻の地球を回し、同じような見えない火山がないか、探し始めました。そうして彼女らが地球を注意深く観察していくと、まだ火山というよりはその萌芽というべき透明な盛り上がりが、水晶の陣の近くに七つほど、現れているのがわかりました。
「おお!」と、彼女らは感嘆の声をあげました。「神はおやりなさっている!」「確かに、神の御業だわ。なんてことなの。これはどういうことなの?」

ひとりの女性役人が、知能器の前に座り、先ほど発見したばかりの、地球の見えない火山のデータをかき集め、知能器に放り込み、人類の進化度数と罪功数、そして地球玉の変化データを振りこんで分析を始めました。彼女はキーボードをカチカチと打って魔法計算をしてみましたが、知能器はある程度まで計算を進めたものの、突然硬い壁にぶつかったように、こん、と音をたてて画面が真っ白になり、「接触不可能」という青い文字が点滅しました。

「接触不可能?」「聖域だわ。これは、触れてはいけない神の秘密なのよ」「わたしたちでも、だめなの?わたしたちは決して秘密をもらしはしないのに」「きっとだめなのよ。でなければ神は教えて下さるはず」

「ちょっと待って」知能器の前に座っていた女性役人が言いました。「見えない火山を、地球上の見える火山に比喩して計算してみる」彼女は、一番発達した見えない火山を知能器の画面に呼び、それに一番よく似た地球上の見える火山に比喩して、再び同じ魔法計算を試みました。知能器は、かなり強引な比喩をやらされて、幾度か戸惑い、奇妙な音を出して驚きましたが、十数分もかけてなんとか正しい計算結果を吐きだしました。それを見た女性役人は、まるまると目を見開いて、一瞬、あっと声を飲みました。

「…なんてこと!これがもし、本当に起こったら、地球人類は壊滅してしまう!」周囲がざわりとうごめきました。誰かが叫ぶように言いました。「うそ!そんなことはあり得ないわ。神は人類は滅びないとおっしゃっているのに!」「これは比喩よ。データだってまだ少なすぎる。でもなんでこんな結果が出るの?」「見せて、わたしにも」女性役人たちは、画面に映る計算結果を一斉に見つめ、ほぼ同時に驚きの顔を見せました。そして、震えながら口を覆い、あるいは額に手をあてて首を振り、あるいは指を組んで祈りの姿を見せ、それぞれに受けた心の衝撃を表面に表しました。

「…こんなことになるの?地球は」「これはあくまでも比喩よ。現実に起こるはずはない」「そうよね。神は決して、地球をお見捨てにはならない。けれど、もし神がお見捨てになったら…」「そう、きっと、こうなるのだわ…」女性役人たちは、神の真実の恐ろしさを垣間見てしまったことに身の縮むような戦慄を感じ、震えていました。

「あの見えない火山を使って、きっと神は人類をなんとか救うおつもりなのよ」ある女性役人が、一筋の光を求めるように言いました。それを別の女性役人が制して言いました。「待って、…これ以上深く探るのは、やめましょう。わたしたちは見てはいけないものを見てしまうかもしれない」すると、皆はそれに一斉にうなずきました。しかし彼女らは、ショックから抜け出すことができず、茫然と息を飲み、苦しそうに顔を歪め、地球の幻を見つめました。

「なんてことをしたの!あなたたちは!」一人の女性役人が、青い地球の幻に向かって激しくどなりつけました。彼女は悔しそうに歯を食いしばり、ぽろぽろと頬に涙を流していました。
「こんな、こんなことになっているなんて……」彼女は手で顔を覆い、とうとう声をあげて泣き始めました。ほかの女性役人たちは困ったように顔を見合わせ、とにかく彼女の周りに集まり、なだめるように言いました。

「大丈夫、幻よ。全ては、計算上の幻」「そうよ。比喩だと言ったじゃないの」「でも、現実に起こっても、不思議ではないことなのね」「ええ、計算上に、神の愛という絶対のXがなければ」「…信じましょう、神を。神がわたしたちを裏切るはずがない。でなければ、なぜ今まで、わたしたちが地球のためにがんばってきたのか、わからない」「そうよ。真実は幻とは全く違う。神の真実はいつも、わたしたちの計算と予測をはるかに上回るもの」「愛が、人類を見捨てるはずはない」

女性役人たちは、泣き濡れている彼女を真ん中に、まなざしを交わしあい、手を取り合い、お互いの心を確かめました。やがて泣いていた彼女もその心に響き、「神よ」と天を見上げて指を組み、「地球をお救いください」と祈りました。

女性役人たちは、この部屋で見つけた透明な火山のことも、また幻の比喩計算の結果のことも、部屋の外の誰にも漏らさないことを、決めました。そして、必ず、皆でできる限りのことをして地球を助けようと、誓い合いました。

部屋の真ん中に浮かぶ幻の地球は、独楽のようにくるくると回りながら、何も聞かなかったかのような振りをして、冷たく覚めた幻の心を、彼女らの涙から背けていました。


 
 
 
 
 
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2025-01-22 03:10:44 | 月の世の物語・別章

月の世には、ただひとところだけ、罪のない人々が住むところがありました。そこには、やわらかな毛布をどこまでも広げてしきつめたような、はてもなくひろがる黄色い砂丘があり、勿忘草色の空に浮かぶ黄金色の月が、ほんのりと熱を含んだ月光で、常に砂丘を温めていました。

黄色い砂丘のあちこちには、透明な水晶の卵がたくさん散らばっていて、その中には、寒さに心を閉じた人々が、硬く目を閉じ、胎児のように自分を抱いて眠っていました。彼らは、地上で生きていたとき、魂が生きてゆくために必要な愛を与えられることが少なすぎ、それがために、あまりに寂しく、苦しく、深く傷つき、石の心の中に深く魂を閉じ込めてしまい、罪のないにも関わらず、どうしても月の癒しを必要として、死後この砂丘を訪れ、透明な水晶の卵の中に、魂の安らぎを求めて閉じこもっているのでした。

卵の間の所々には、たくさんの月色灯が細い立木のように立っており、月光とともに彼らの心を照らし、温めようとしていました。そして、たくさんの女性の導き手が、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、美しい呪文の歌を歌いつつ、愛に飢えた氷のような人生を送ってきた人々の心を癒そうと、細やかに卵の世話をし、日々、彼らに愛を語り続けていました。

ある日、一人の導き手が、遠く砂丘の向こうに、蜃気楼のように、青い海が見えるのに気付きました。するとその導き手は、あるひとつの水晶の卵を探し出し、その中に眠っている一人の女に近づいて、そっとその耳にささやきました。
「さあ、出なさい」すると、卵の中の女は、何かに操られるかのように、うっすらと目を開き、何を見るでもない瞳を、ぼんやりと導き手の方に向けました。その瞳を見て、導き手の女性は、胸に激しい痛みを感じざるを得ませんでした。なんとひどいことをされたのか、あなたは。愛されて当然なのに、なぜ人々は、ひとかけらの愛さえ、あなたに与えなかったのか。

女は生きていたとき、染色を芸とする一人の職人でした。彼女が染めあげて布に描く絵は、それはそれは美しく、人々に感動を与えました。たくさんの人々が、彼女の才能をほめ、評価しました。しかし、本当に彼女が必要としていたものを、与える者は、誰もいませんでした。彼女は、布の中に、とても美しい理想の貴公子の姿を描くのが上手でした。そんな、地上にはありえない天使のような男性を布の上に描くことが、彼女の幸福でした。しかし、彼女は美しくはなかったため、地上の男性は決して彼女に愛を与えようとはしませんでした。そして、彼女を生んだ両親さえもが、彼女の才能を喜ぶよりも、密かに嫉妬して、表面上は温かな言葉をかけつつも、彼女のために必要な本当の愛を与えることをしませんでした。

彼女は、その鋭い芸術家の感性の中で、周囲の人々の嘘に敏感に傷つき、表面上は笑って嘘につきあいながらも、内面は深く傷つき、それは魂の奥に、氷の刃を受けたほどのひどい寂しさの病となってとりつき、彼女の人生を一層寒く、孤独にさせてゆきました。

そのようにして死後、彼女はこの黄色い月下の砂丘に降り、ひっそりと水晶の卵の中に閉じこもり、じくじくと痛む自分の魂の傷と語り合いながら、一人ずっと、己の卑しさと愚かさをかみしめつつ、ただ石のように動かず、眠っていたのでした。

導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らし、女に微笑みかけました。すると女は、魔法にかかったように、手をその鈴にのばし、そのままするりと卵から抜け出しました。「さあ、いきましょう」導き手は女の手をとり、ゆっくりと立たせると、その体を支えるようにしながら、彼女に合わせてそろそろと歩き、女を蜃気楼の海辺へと連れてゆきました。

砂丘の丘を、一つ超えると、もう海風が吹いていました。海は瑠璃色で、はてもない向こうまで広がっていました。導き手は、女を海辺に座らせると、自分もその隣に座り、水晶の鈴をころころ鳴らしながら、やさしい呪文の歌を歌い、その魂に愛を深く語りかけていきました。
「さあ、そろそろおいでになりますよ」導き手は言いました。すると、海のはるか向こうに、小さな人影が現れ、それがだんだんとこちらに歩いて近づいてくるのが見えてきました。女は、ただ何もわからないというように、ぼんやりと海を見つめていました。

人影は、海の上をゆっくりと歩いてきて、岸辺にいる女の方へと近づいてきました。その人の姿が、すぐ目の前まで来たときになって、はっと、女は気付きました。その人は、背の高い細やかな体をしたとても美しい青年で、水色に透き通った長い髪をしており、青ざめたような白い額に、金に縁取られた丸い瑠璃の玉をはめ込んでいました。その瞳もまた深い瑠璃色で、天使のように美しい顔に、切ない愛の微笑みを表して、静かに女を見つめていました。

「ああ」女は声をあげました。昔彼女は、こんな風に、不思議に古風な服を着た、美しい若者の姿を布に描いたことがありました。目の前の人は、その絵の中の若者に、それはよく似ておりました。女はしばしただその人の美しい姿に目を奪われていました。その人は、女のまなざしをやさしく見つめ返し、そっと女の名前を呼び、「あなたを愛している」と言いました。しかし、その声は、石のように固まってしまった女の心の壁に阻まれて、その奥の彼女の痛い魂の傷にはまだ届きませんでした。

導き手が彼女の耳元に口を寄せ、ささやきました。「忘れましたか。彼はずっと、あなたを導いていた精霊です。あなたの芸術の霊感を助け、常にあなたを愛していた精霊です。ああ、悲しいことに、あなたの人生の中で、心よりあなたを愛していたのは、あの頃あなたの目には見えなかったこの方だけでした…」

女はただ沈黙して、精霊の姿ばかり見ていました。すると精霊は、右手を風の中に振りあげ、月光を一つかみ取ると、拳の中でしばしそれをもみこんで、それを女の目の前に突き出し、ゆっくりと手を開きました。するとその手の中には、小さな金の箱があり、精霊は彼女の目の前で、静かにその箱を開きました。見ると箱の中には、月光でできた金に、血のように赤い珊瑚の珠をはめ込んだ、細い指輪が入っていました。精霊は、その指輪を箱から取り出すと、女の小さな白い左手をとり、その薬指に、そっと指輪をはめ、もう一度、「あなたを愛している」とささやきました。

女は、ただ、精霊の顔ばかり見つめていました。そして、昔の自分の技を思い出し、右手で砂をかいて、美しい若者の顔を描き始めました。精霊はまた、「あなたを愛している」と言いました。そして、何度も、何度も、彼がそういうたびに、女の顔は、少しずつ、美しくなってゆきました。やがて彼女は、砂の上に、それは見事な、美しい若者の微笑みの顔を描いていました。

「あなたを愛している」精霊は言いました。そうして、その声は、やっと、彼女の石の心を破り、かすかにその魂に響きました。すると、彼女は、表情を凍りつかせたまま目を見開き、涙をほろほろと流し始めました。嗚咽が漏れ始め、彼女は手で顔を覆うと、幼女のように泣き始めました。導き手はその背中を優しくなでて、「いいのですよ、いいのですよ、それはあなたのものなのです。あなたが受け取って、当然のものなのです」と言いました。女は導き手の膝の上にくずおれ、ひとしきり、泣きじゃくりました。
ああ、ああ、ああ…

やがて、ふと風向きが変わり、水色の透明な髪をした若者が、空を見上げました。「ああ、そろそろゆかねば」彼は言いました。導き手に背中をたたかれ、女は泣き顔をあげて、精霊の方を見ました。精霊はその顔にまた微笑み、「心よりあなたを愛している」と言うと、そっと背中を向けて、また海の向こうに向かって歩き始めました。

「大丈夫、また来てくださりますよ。あの方は決してあなたのことを忘れはしませんから」導き手が言いました。女はただ、砂の上に手をついて、海の向こうに消えていく精霊の後ろ姿を見送っていました。そしてその姿が、本当に海のかなたに消えて見えなくなってしまうと同時に、海も消え、もうそこには、はるかな砂丘ばかりが広がっていました。

「立ちましょう」導き手が言うと、女は黙って立ち上がり、彼女に体に支えられながら、砂の上を歩いて、また自分の卵の中に戻ってゆきました。金の指輪は、温かい月光を宿し、彼女の寂しさにそっと唇を近付け、愛していると、かすかな声で繰り返し、オルゴールのようにささやき続けました。

導き手は、女が前よりも少し美しくなり、幾分、魂の傷が癒えているのに、ほっと息をつくと、ふとまた、気配を感じて、振り向きました。すると今度は、砂丘の向こうに、はるかな緑の草原の蜃気楼が見えました。導き手は、卵の群れの中を探し、ある若者が閉じこもっている、少し青く染まった水晶の卵を見つけ出しました。

「さあ、出なさい」導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らして、彼の耳にささやきました。すると彼はすぐに目を開けて、彼女の導きを待つこともなく、すぐに卵から出てきました。彼はかつて、地上で純真な愛を詠った詩人でしたが、真心で愛していた女性に、ひどい裏切りをされて見捨てられ、それゆえに魂に深い傷を負い、寒い孤独の病に落ちて、そのまま命萎えて死んでしまったのでした。

若者は命じられることもなく、自ら自分の左手に目をやりました。その薬指には、月光の金に青いトルコ石の玉をはめ込んだ指輪がありました。
「いきましょう。またおいでくださったわ」導き手が言うまでもなく、彼は草原を目指して歩き始めました。そして彼はもう知っていました。草原の向こうから、かつて彼の詩の霊感を助け、心より彼を愛し導いていてくれていた精霊が、ひたすら自分を目指して歩いてきてくれていることを。彼女は、銀の長い髪の間から、三本の紅玉の小さな角を生やしており、透き通った薄紅色の美しい瞳で、いつも彼の真実のまなざしを吸い込んでは、心から「愛している」と言ってくれることを。

「ああ、ああ」と、彼は子供のように笑いながら駆けだし、草原を目指しました。導き手は、慌てて彼を追いかけました。愛する人、愛する人、愛する人!彼は叫びながら走り、草原の端にたどりついて、はるかかなたからやって来るその人の姿を見つけました。
喜びが胸にあふれ出し、彼は、ああ、ああ!と空に響く声で、彼女を呼び続けました。精霊はその声にこたえ、細い手をあげて、彼に向かって振りました。

涙が若者の頬を流れ、その魂が、生き生きと息づいて光り出すのを、そばから導き手がそっと見守っていました。導き手もまた、彼のほおをなでる風に、そっと「愛している」という声をまぜて、その耳に忍び込ませました。

このようにして、まだ若くして弱く、ただ純真でありすぎるがゆえに、正直でありすぎるがゆえに、地上で深く傷つきすぎた人々の魂を、温かき砂丘の月の使いである女性の導き手たちは、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、遠い遠いはるかな昔から、ずっと癒し続けているのでした。


 
 
 
 
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2025-01-21 03:18:19 | 月の世の物語・別章

日の都の片隅に、大きなガラスの温室を備えた植物園があり、そこを、ひとりの女性が管理していました。温室には、地球上の熱帯や温帯や寒帯などに棲む植物が、何の不思議もないという顔で自然に肩を並べて咲いたり、薫ったり、葉や枝を伸ばしたりしていました。女性は日照界の水色の制服を身につけ、黒髪を長くたらし、切れ長の細い瞼の奥には、まっすぐに澄んだ美しい茶色の瞳を隠していました。

彼女は植物の霊たちをとても愛していましたが、中でも一番好きなのは、イネでした。なぜなら彼らは、常に愛をもって、自分の全てを与えるために地上に生きているからでした。彼女は日々、イネと語り合い、己自身を与えるという愛の痛みと喜びを、胸に深く吸い込み、魂に歓喜を覚えながら、学んでいました。

ある日、そこを、ひとりの人間の若者が、訪れました。彼は、地上で生きていたとき、一人の芸術家でした。彼はとても優れた才能を持ち、純粋に正しいことを信じていて、地上でまっすぐに絵画の道に励んでいました。しかし、その才能と美しさを怪や周りの人たちに妬まれ、彼は様々な惨いいじめに会い、結局最後は皆に馬鹿者とののしられて見捨てられ、酒と薬に溺れたあげく、何枚かの理想の女性像を地上に残して、孤独に死んでしまいました。

彼のような目にあった人々は、死後、よく自分をいじめた人々に復讐してしまい、その罪によって月の世に向かう者もいるのですが、彼はそうはせず、自分をいじめ殺した人々を恨まずに許したため、日照界の門をくぐりました。そして、日の都にある芸術の学校に通いながら、再び地上で生まれる日のために、日々学んで過ごしていました。

若者は、おずおずと温室の扉をくぐると、中にいる女性に挨拶をし、いつものようにスケッチブックを出して、彼女に絵を描かせてくれと、頼みました。女性は、戸惑いつつも微笑み、「いいですよ」と答えました。すると若者は大喜びで、温室の片隅に座り、スケッチブックに鉛筆を走らせながら、言いました。
「あ、いいです、ポーズはとらないで。自然に動いていてください。僕が勝手に描いていますから」若者は、幸福に満ちた素直な瞳で、温室の中で働く彼女の姿を追い、次々に、何枚も、彼女の顔や、何気ないしぐさや、イネに触れるときのやわらかな指先などを、描いていきました。

若者は、この日照界の女性に、恋をしていました。彼女にも、それはわかっていました。彼女は、人間の素直な恋心を、優しく受け止めながらも、心の中には、少し戸惑いを感じていました。彼が、彼女を見て、思わず感動のため息をつくときなど、どうしていいかわからず、思わず植物たちにふれようとする手が固まってしまいました。

罪びとの心を導くことも難しいことですが、人間の、素直な愛の心に触れていくことも、苦しいことでありました。彼女は、彼のために、自分を無いことにして、全てを与えねばなりませんでした。なぜなら彼が見ているのは、まだ、本当の彼女自身ではなく、彼女の向こうに見ている、女神のように美しい理想の女性像であったからです。

スケッチブックに十何枚かの素描を仕上げたあと、若者は、まだ幼さは感じるものの変わらぬ素直な明るい目をして彼女に近づき、仕上げた絵のいくつかを見せました。スケッチブックの中には、彼女が思いもしなかった、髪のかすかな乱れや、ほんのりとしたほほえみや、何かに驚いたときの瞳などが、とても豊かな技で、見事に描かれていました。女性はしばしそれを見ると、本当に、見事ですね、と素直に喜び、「ありがとう、いつも美しく描いてくださって」とお礼を言いました。若者は恐縮しながら、言いました。「これをもとにして、今度は油絵の完成作品を描いて持ってきます。すばらしい霊感を得ることができました。神とあなたのおかげです。絵が完成したら、ぜひ見てください」女性は微笑みつつ、ええ、もちろん、と答えました。若者は相変わらず、嬉しさを満面に表して、温室を去っていくまで彼女の顔からずっと目を離さずにいました。

若者が去っていくと、女性は微笑みを変えることはなくも、少し疲れを覚え、イネの元を訪れて、癒しを求めました。イネは、ほほ、と笑い、やさしく言いました。「あれでいいのですよ。あの若者は、あなたを困らせるようなことは決してしませんから」すると女性はあごに指をふれながら、目に悩みの色を見せて言いました。「わかっているの。でもむずかしいわ。男性の心って、時々、どうしていいかわからないくらい、わたしを悩ませるの。彼らはとても純粋で、深くわたしたちを愛してくれるけれど、ほんとうはどこかが違うってことを、わかっている人は少ないのだもの」「彼は、そんなに愚かではありませんよ。人間は確かにまだ若いけれど、彼は、適切な場所で、間違っていることは間違っていると、ちゃんと言える人です。あんな若者がいることが、人類の未来を本当に明るくさせるでしょう。あなたは何も悩むことはありません。あなたは、ただ、あなたでいればいいのです。そうしたら彼は、あなたから勝手に何かを得て、自らを創造してゆきます。男性が女性に求めているものは、ほんのごく簡単なことですよ。ただ、自らとして、ほほえんでいればいいのです」イネはやさしく言いました。

そして日照界の女性は、再び、日常の仕事に戻ってゆきました。彼女は温室の植物の霊たちと、日々、人間たちのことについて語り合いました。ある熱帯の森の野生蘭は、強く人間を批判しました。彼らの地球上でのものを知らなすぎることや、驕りたかぶっていることを見ていると、自分の方が恥ずかしくてたまらないと、彼は言いました。彼女は彼と語り合い、人間はまだ若くて学んでいる途中なのだと言いました。白い頂を抱く高山に棲むある黄金色の小さな花は、いつもため息をつき、人間が風を汚しすぎると嘆いていました。彼女は、本当にそうねと、相槌を打ちながら、どうにかしていかなければと、花と同じため息をつきました。温室の隅で、密かに咲いている薔薇は、彼女が話しかけると、少し困ったような微笑みを見せ、ただ静かに心を閉じて、何も言おうとはしませんでした。彼女は薔薇の心に触れると、彼らの心の傷がどんなに深いかを感じ、悲哀に沈まざるを得ませんでした。

このようにして、彼女は毎日植物と語り合い、彼らから得た人間に関する情報や感想などを記録してゆき、植物と人間のきずなを地球上でどうやって結んでゆけばいいかという課題に、日々取り組んでいるのでした。

あれからよほど日が経ったある日のこと、また突然、芸術家の若者が温室の彼女の元を訪れました。彼の手には、大きなカンヴァスが抱えられており、彼は相変わらず満面に喜びを表しながら彼女を見て、「できました!見てください!」と温室のガラスに響く声をあげました。彼はあれから少し日焼けして、肩のあたりの筋肉が増えていました。それは彼が、彼女の絵を描くために、上質の絵の具を手に入れようと、どこかで労働奉仕をしてきたからでした。日照界の女性は、微笑みを変えず、戸惑いを隠しながら彼の心を受け入れ、温室の隅に立てかけられたカンヴァスの絵に、見入りました。

そこには、澄んだ茶色の瞳に、イネの緑を映しこんで微笑む、美しい黒髪の女の姿が描かれていました。彼女は白い指をイネのまっすぐな緑の葉の中に差し込み、熱い憧れの色を表情に表して、ひたすらまっすぐに、何かを追いかけているようにイネを見つめていました。それを見た女性は驚いて、はあ、と思わず感動の声をあげました。

「すばらしいわ」と彼女は言いました。…ここまで、この人は、わたしを見ていたんだわ。彼女は、若者の才能と思わぬ魂の進歩に驚いていました。そう、わたしはいつも、こんな風に、イネに憧れている。確かに、イネのようになりたいと願っている。彼はそれを見抜いていたのだわ。なんてこと。わかってなかったのは、わたしのほうだったのね。彼がわたしに恋するのは、ああ、わたしが、イネを愛しているからなのだわ!

彼女は胸の感動を隠すこともなく、歓喜の心でしばしの間ずっと絵に見入っていました。そんな彼女の顔を、若者もまた、嬉しげに見ていました。やがて彼女は言いました。
「ありがとう、わたしを描いてくださって。とても、うれしいわ。わたしはいつも、こんな風に、イネを見ているのね」
「はい、それは美しく、愛に満ちた目で。僕はそれが嬉しくてたまらないんだ。こんな女性がいるんだって、嬉しくてたまらないんだ。それを表現してみたい。いっぱい描いてみたい。また地上に生まれることができたら、今度こそ、女性の本当の美しさを、地球上で表現してみたいのです」若者は、熱い心で彼女に語りかけました。日照界の女性は、男性の熱い心に触れると、まるで神に触れたかのように一瞬おののき、身の縮むような怖さを少し感じました。彼女は何かに揺れ動こうとする自分の心を律し、しばし自分を離れたところから見て、観察しました。そう、女性とは、こうして男性を愛してしまうものなのかしら。彼女は、自分の胸の中に、エロスが発した矢の傷のような痛みがあるのを、確かに感じました。彼女はその痛みを実感し、そこから魂を揺すぶる何か熱いものが動き出すのを感じていました。これが、恋というものなのかしら?

若者と女性は、絵を前にしながら、何も言わず、ただふたりでいることに、不思議な熱い幸福を感じていました。すると、突然神は、ふたりに何の予感も与えることなく、無理やりその魂を一つの器の中に入れて溶かしていまいました。あまりのことに、ふたりは茫然としました。女性は、今自分に熱く注がれている若者の視線に、全身を抱きしめられ、どうしてもそれにあらがえない自分の弱さに驚いていました。なぜこんなことがあるのか。なんという快楽。なんという苦しみ。一体なぜこんなにも、男と女は、恋の中に溶けあってしまうのか。わからない。でもここにふたりでいると、それだけで、もう他に何も見えなくなってしまうほど、あなたを、あなただけを、求めてしまうのだ。神様、わたしたちに、一体何をお与えになったのですか?若者は震えながら涙を流し、女性の横顔をひたすら見つめながら、自分を突き動かそうとする何かに必死に耐えていました。

やがて、温室の植物たちが、いつまでもふたりに浸っている彼らに、そっと声をかけました。もうそろそろ、お時間ですよ、おふたりさん。するとふたりは、はっと現実に戻り、同時に後ろを向いて、ずっと植物たちに見られていたことに気づいて、恥じらいの苦笑いを見せつつ、ほっと安堵の息をつきました。

「また、絵を描かせてもらっても、いいですか」若者は、カンヴァスを抱えながら、日照界の女性に言いました。「ええ、わたしでいいのなら」と女性は笑って答えました。

日照界の女性は、カンヴァスを持った若者が、手を振りながら去ってゆくのを、温室の入り口から見送りました。そして彼の姿が消えて見えなくなると、つかの間の恋の美酒の香りに少しの間ゆらめき、すっと背筋を伸ばして天を見上げ、神に祈り、すぐに平常の自分に戻しました。彼女はイネの元を訪れ、言いました。

「どうしよう、わたし、彼を好きになってしまったわ」するとイネはまた、ほほ、と笑い、「それはそれは。お気をつけあそばせ。恋とは、まことに苦しいものですよ」と言いました。

女性は、何かがおかしくてたまらぬというように白い歯を見せてイネに笑いかけ、今日起こった美しい出来事を思い返しては、ほおっとため息をつき、秘密の記憶の詩の中に、それを深く織り込んでゆこうと、思いました。


 
 
 
 
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