青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-15 03:36:42 | 月の世の物語・別章

「やれ、今度はまた、ずいぶんと暗いところに落ちたな」竪琴弾きは、頭上を覆う厚い木々の梢を透いて降ってくる、かすかな霧雨を浴びて、少々不快な冷気に耐えながら、鬱蒼とした森の闇の中を、月珠の光だけをたよりにして、歩いていました。「どうしてこう、僕が担当する罪びとには、変わった人が多いんだろう?」彼は、行く手をさえぎる太い木の枝を腰をかがめてくぐりながら、独り言を言いました。

やがて月珠が何かに気付いたかのように、きらりと光を強めました。するとその光を、小さな水たまりのような池が反射し、そのそばに立った太い木の幹を照らしだしました。その幹には、全体的に体が少し小さく縮んだ一人の男が、しっかりと腕をまきつけて抱きついていました。竪琴弾きはその姿を見ると胸に手をあて、おお、神よ、とささやきながら上を見上げました。男は、体の上半分は、頭の小さい貧相な醜い男でありましたが、腰から下はしっぽの生えた猿になっており、木に抱きついていなければ立って自分の体を支えられないような形になっていました。竪琴弾きはとにかく、背中の竪琴を前に回して左腕に抱えると、「やあ、久しぶりですね」と男に声をかけました。光の気配に気づいていた男は、その声に、おずおずと振り向き、「ああ、どうもぉ、ひさしぶりでやす、だんな」と恥ずかしそうに、にたにたしながら言いました。

「今度の人生は三十六年で終わりましたね。まずは復習しましょうか」竪琴弾きは池の近くに横たわった太い倒木の上に座り、竪琴を膝に載せました。霧雨はいつしか止んでいて、彼は体をぶるっと震わせ、冷たい雨の気を飛ばして衣服を乾かしました。そして琴糸をびんと弾き、目の前に何枚かの書類を呼び出して、それを手にして読みながら、言いました。

「先ず、あなたは生まれる前、怪と契約して、人生を他人から盗みましたね」竪琴弾きが厳しい声で言うと、男は木に抱きついたまま、へへ、へへ、と笑いました。「…それで本当はもっと貧しい家に生まれるはずが、怪に裏から操作をさせて他人と入れ替わり、とても裕福な家に生まれました。それで人生バラ色といきたかったのでしょうが、たいした才もないのに努力も勉強もせず、容姿的にもとりえはない上、つまらない遊びにばかりお金を使い、親の助けでなんとか学校を卒業して就職したものの、仕事も長続きせず、ぶらぶら遊んでばかりいて、しまいに家族にも嫌われて、結局は勘当同然でその家を出ざるを得ませんでした。それからあなたは都会に出て、ある街の片隅でやくざ者に拾われ、しばらく地下にある怪しげなカジノで働きました。しかしある日、ゲームで少々『危ない』人を相手にいかさまをやってしまい、それがばれて、チンピラ数人によって袋だたきにされ、それが原因で、路上に引き取り手のない遺体をさらして死にました。享年三十六歳と四カ月。…以上に間違いはありませんか?」
竪琴弾きが言うと、男は相変わらずにたにた笑いながら、「はい、そのとおりでやす。まちがいございやせん」と言いました。

竪琴弾きは、また琴糸をはじいて書類を手元から消すと、男の足を見て言いました。「その足はどうしたんです?」すると男は困ったような目で竪琴弾きの方を見て微笑み、わかってるでしょう?と言いたげに首をすくめました。もちろん竪琴弾きには、それを見たときからわかっていました。彼は怪に頼んで人生を変えてもらった代わりに、その足を怪にとられてしまったのでした。

「へ、おれ、馬鹿なもんで、なんもできなくてえ。金持ちになったら、ちょっとはましかなって…、へへ、へへ、なんとかしなきゃあって思ったんだけど、なんかおれ、なんもやんなくって、おれって馬鹿ばっかりで、なんでこんなことしかできないのって、始終そんなことばっか言われて、つまりその、つらかったですよ。それだけだな。へへ、じんせえって、つらいよなって、馬鹿だなおれって、へへ、すんません、だんな、なんもまともにできないんですよお。で、つい怪に頼んじまって…」

竪琴弾きは天を見上げて、また、神よ、とつぶやきました。そして男に向かい、「自分を馬鹿だなんて、言ってはだめですよ…」と言いかけると、男はそれをさえぎるように、言いました。「わかってやす、わかってやす、馬鹿なんですよ、おれ、わかってんだけどな。自分、馬鹿だって言って、自分で決めつけるのがいけないんですよね。何度も言われますよ。みんなに言われますよ。やめろやめろって。自分で自分を馬鹿にすんなって。だから馬鹿になるんだって。わかってんです。わかってんです。でもおれ、馬鹿なもんで、なんか、馬鹿だって言っちゃうんですよ。それで馬鹿んなって、馬鹿なことばっかりやっちまって…」
竪琴弾きは手を振り、もういい、と彼に言いました。でも男はへらへらして「つらいなあ、おれ。なんか、いやな感じだな。嫌われるんですよお。みんなに、嫌われるんですよお。つまんないことしかできないのに、陰でケチくさいワルばっかりやるって、言われるんですよお。女なんか、みんな、おれを見るとあっちへ行っちまうんだ。へへ、なんでかな。なんでかな。おれ、つらいなあ。いや、わかってんですけどね。馬鹿が、馬鹿だっていって、馬鹿んなって、馬鹿ばあっかりやってんのが、馬鹿なんですよね」といつまでも繰り言を言うのでした。

竪琴弾きはいい加減その男の相手をするのがいやになってきましたが、これも仕事だと自分に言い聞かせ、辛抱強く、語りかけました。
「では、わかっているのなら、勉強をしましょう。これまであなたは何度も地球に生まれてきましたけれど、ほとんどの人生は、だいたい似たようなもので、たいした勉強をすることもなく、ものごとを簡単にうまくやろうとして、そのためにいつも失敗して、若くして悲劇的に死んでいます。地球というところはね、ずるいことやうまいことをやって、自分だけ幸せになりにいくってとこじゃないんですよ。あそこで生きるには、強い力と正しい知恵が必要です。人類は厳しい環境を耐えて生き伸びながら学んでゆく中で、やがて強烈に愛を感じるようになるんです。それで人間は、愛を深く勉強するために、地球に行くというのが本当なんです。もっとも今は、それもだいぶすたれたような形になっていますが…」

男は相変わらずにたにたしながら、困ったような顔で、へへ、へへ、と笑いました。竪琴弾きは真面目な顔で彼の目を見つめ、言いました。「どうです?学校に行っては。月の世にはあなたのような人が勉強するための学校もありますよ。ここで罪をつぐないながら月を師として勉強するというのも道ですが、あなたのような人は、学校で直接、教師に習った方がいいと思うんですが…」
「へ、へへ、でもおれ、半分猿だしな。見られるの、恥ずかしいな。みんなに言われるな。何やってそんなことになったんだって。それ、ちょっといやかな。でも、行ったほうがいいよな。そうですよね。行ったほうがいいかな。でも、つらいしな。いや、行かないって言ってるんじゃないですよ。でもなんかな、おれ、猿だしな、馬鹿だしな…」

竪琴弾きは、深い大げさなため息をつき、もうやめろ、と言いました。男はにたにたしながら、へつらうような顔で、横目でじっと彼を見ていました。

竪琴弾きは、膝に乗せた竪琴を鳴らし、歌を歌い始めました。すると、暗い森の木々が不意にゆれ始め、頭上を覆っていた黒い梢が少し開いて空に口を開け、何かがむしばんだように深く欠けた、白い三日月が見えました。「あ、ああ、お月さま、お月さまだ、いいな、いいな、だんな、ありがとう、お月さま、好きだあ」男はそういうと、木の幹から体を離し、土の上を這いながら池の端に座り、お月さまの光をしばし浴びました。

竪琴弾きは、男が、月を浴びて泣きながら、「お月ちゃあん」と誰かを呼んでいるのを聞きました。それは、遠い遠い昔、彼の妻だった女の名でした。その頃彼の生まれた国の人々は、森の中に住み、木や葉っぱで作った簡素な家に住み、森で狩りをしたり木の実を採ったりなどして暮らしていました。

お月ちゃん、と呼ばれた女は、美しくはありませんがそれなりにかわいらしく、少し知的な障害を持っていました。それをいいことに、村の男たちはみんなで彼女を弄び、いじめたり馬鹿にしたりしていました。そしてとうとう村の男みんなに飽きられて捨てられてしまった彼女を、たまたま彼が拾い、そのまま妻としていっしょに暮らし始めたのです。

お月ちゃんは、自分が村の男たちに何をされたのかもほとんどわかっておらず、ただ自分を拾って助けてくれた彼を、純真に信じて、愛していました。それで、いつも彼のそばにより、彼のためにできることをすべてやりました。彼はそれが嬉しくてならず、お月ちゃんをたいそうかわいがりました。そんな彼を村の人は嘲笑いましたが、男は自分に自分の女ができたことが嬉しくてならず、ずっとお月ちゃんをかわいがり続けました。そして、自分が働いてできることは、みんなやりました。彼はお月ちゃんを愛していました。確かに、愛していました。

でも彼は弱く、知恵も力も足りませんでした。結局彼は、お月ちゃんを養うことができず、とうとう餓死させてしまいました。お月ちゃんを死なせてしまったこと、それは彼の心を深く絶望の底に落とし、彼もまた彼女の後を追うように飢えて死にました。

「お月ちゃん、お月ちゃああん」月を見上げて泣く男を見ながら、竪琴弾きは、小さな息を吐きました。男は、あれから何度も人生を地球で送りましたが、あれ以来一度も妻を持ったことがありませんでした。彼は女性が怖く、彼女らに会うとただへらへら笑いながら逃げてゆくことしかできませんでした。そんな彼を相手にする女性など、ほとんどいませんでした。彼も、お月ちゃん以外の女性を愛したことは、一度もありませんでした。

竪琴弾きはポケットから予備の月珠を出して、呪文とともにそれを池に放り込みました。月珠は池の水に溶けて、水面を鏡のように光らせ、それは地上に降りた小さな月のこどものようにも見えました。たとえまた森が暗闇に戻っても、その光が彼の心を照らし、愛しいお月ちゃんの面影を彼は見ることができるでしょう。それでとにかく、男の心がこれ以上暗い所に迷わないようにすることしか、今の彼にはできませんでした。

(彼は、愚かだけど、女性に意地悪をすることだけは、できない。それできっと、どんなに馬鹿をやっても、怪に落ちることはないんだな。結局は、あのお月ちゃんが、彼にとっての救いなんだ)
心の中でそうつぶやくと、竪琴弾きは竪琴を背中にまわし、立ち上がってその場から姿を消しました。すると、木々の梢がまた月を隠し、森はまた暗闇に戻りました。しかし、ただ池だけは、まるで大地の白い目のように光り、森の一隅を明るく照らしていました。男は竪琴弾きがいつの間にかいなくなってしまったのに気付き、子供のように、うわあん、と声をあげました。

「いやだ、いやだよお。みんな、みんな、行っちまうんだ。おれのことがいやだって行っちまうんだ。誰も、おれのことなんか、好きじゃないんだよお。誰もいないんだよお。だっておれ、だっておれ、なんも勉強しないからさあ。馬鹿だからさあ。誰も、誰もともだちいないんだよお。神様、神様、おれに、お月ちゃんをくれよ。お月ちゃんがいいんだよ。おれの女、くれよお。ずっとずっと、おれのそばにいてくれる女、くれよお。そしたらおれ、勉強するよお、まじめに、仕事もするよお。神様、神様、かみさまあ」

木々の陰に隠れてその様子を見ていた竪琴弾きは、また小さく息を吐いて、やれやれ、どうしようもない、と言いながらかぶりをふりました。そして竪琴の紐をにぎりつつ、辛抱強くつきあっていくしかないか、と自分に言い聞かせました。(次に彼に会いに来るときまでに、また月珠をいただいてこないといけない。醜女の君にはいつもご迷惑ばかりかけてしまうな)彼は考えながら、森の中を歩いて帰ってゆきました。

光る池のそばにうずくまりながら、男はいつまでも、「お月ちゃあん」と繰り返していました。


 
 
 
 
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2025-01-14 03:32:30 | 月の世の物語・別章

月の世の一隅に、深い杉の森に囲まれた小さな廃村があり、沈黙の微笑みの混じった白い月光が、人気の無い村を静かに照らしていました。昔ここでは、地球上で、決して伐ってはならぬ神聖な森の木々を伐り、架空の偽神のために神殿を建てた人々が、その罪を償うために働いていました。彼らは何百年かの間、森の木々のために働き、樹霊たちの愛の心に触れてゆくうちに、深く後悔し、木に感謝することを学び、罪を悔いあらためて許され、やがてみな、この村を離れていきました。
そして人々が去ったあと、杉の樹霊たちは、まだ人間には教えてはならない秘密の穢れを清めるため、ずっとこの静かな地獄にとどまり、歌を歌ったり、風を呼び込んだりしながら、長い時をここにとどまり、過ごしているのでした。

今、その廃村にひとりの青年が音もなく姿を現し、村の真ん中にある小さな空き地のベンチに座りました。するとすぐに、空き地の隅に小さな扉が現れ、その扉の向こうから、水色の制服を着た日照界の青年が現れました。彼の顔を見ると、月の世の青年は立ち上がって、「やあ」と明るく声をかけ、手を伸ばして握手を求めました。日照界の青年は、扉を消すとすぐにその手を握り、「やあ、ひさしぶり」と答えました。

「ありがとう。休みを合わせてくれて。迷惑をかけたんじゃないかな」日照界の青年が言うと、月の世の青年は笑いながら言いました。「いや、いいんだ。僕も少し休みたかったところだから。で、何だい?何か、僕に相談でもあるんじゃないかい?」すると、日照界の青年は、少し視線に影を見せながら、彼の隣に座り、背もたれに背中を落として、しばし、杉の梢の向こうに見える月を見上げました。
「月光はいいね。まるで心が清められるようだ。罪びとの心も、月を見たらそれは休まることだろうね」「…ふむ。まあね。いろいろとあるが、罪びとには確かに月は必要だ。だれかから聞いたことがある。月光を浴びていると、まるで気立てのよい美しい妻が、そばにいて寄り添ってくれているかのようだと」「…なるほど。そんな感じだな。本当に心が安らいでくる」。

月の世の青年は少し口をすぼめ、隣の青年を見て言いました。「言わなくてもわかるよ。仕事で、つまずいてるんだろ?君」すると日照界の青年はため息をついてうつむき、「ばれても仕方ないね。人はだれも、心に影が差し始めると、月光が欲しくなる」と言いました。月の世の青年は微笑み、やさしく言いました。「何があったんだ。言えよ」すると日照界の青年はしばし唇を噛み、沈黙したあと、小さく口を開きました。「ガゼルに、嫌われてしまったんだ。僕が、彼らに難しいことを教えすぎて。精霊たちにも、ちょっとやりすぎだってきつく言われてしまった」それを聞いた月の世の青年は、ははあ、と言って何かを言いかけました。すると日照界の青年はそれをさえぎるように、声を大きくして言いながら、顔をそむけました。「わかってるよ。君も言うんだろ?僕がイエスに影響されすぎてるって」「わかってるなら、少しは改めろよ。言っちゃあなんだけど、その髪も髭も、全然君に似合わない。イエスは素晴らしいお方だ。上部よりももっと上の方にいらっしゃる、清らかなお方だ。そんな高いところにいらっしゃる方の下手な真似をしても、滑稽なだけだ」月の世の青年は、遠慮会釈なく言いました。日照界の青年はしばし黙りこみ、瞳に悔しさを燃やしてじっと宙をにらみました。

ふたりの青年はしばらく黙ったまま、動かずにいました。やがて月の世の青年が口を開きました。「過ちて改めざる、これを過ちという」「それは孔子だ。イエスじゃない」「そんなことは知っている。でも今の君にはぴったりだ。みんなが君に同じことを言うのは、やはり君が間違っているからだよ。それは改めなきゃいけない」「イエスは美しすぎるんだ。そして悲しすぎる。僕は逃げられない。つらくて、悲しくて、僕があの場にいたなら、絶対彼の代わりに十字架につく。それで助けてあげたい。どうやってでも、助けてあげたい…」
月の世の青年は、日照界の青年の真剣な横顔を見つめつつ、少し困ったように眉を寄せました。そして助けを求めるかのように月を見上げたあと、しばしの間じっと考えて、少し話をそらして、彼の心を別の方向に向けようと思いました。

「君の仕事はガゼルの導きだけど、日照界では、地球上のすべての生命をみんな、そんな風に導いているのかい?」すると日照界の青年は大きな丸い目をして彼を振り向き、まさか!と言いました。「僕たちがお手伝いできるのは、全体のごく一部だ。たとえば魚類や昆虫類なんかは、とても僕らの手には負えない。僕らの感覚ではまだ彼らの魂を感じることはできないんだ。ほとんどは神がおやりなさっていると言っていい。僕たちがガゼルや象や鳥や人類の導きをするのは、仕事でもあり、学びでもあるんだ。神は僕たちに、一部の幼い魂の導きをさせることによって、命の真実を教えるんだ」「なるほど、教育しながら、教育されてるわけだ」「そういうこと。月の世でもそう変わりはないだろう?」「ああ、とてもいい勉強になる。罪びとを導くのは大変だ。地獄にはあらゆる悪や愚やおかしな言い訳や卑怯な悪知恵なんかがたくさんある。僕たちにはそれに対処する高い知恵と力が必要だ。罪びとは時々、とんでもないことをする。怒りを鎮めて、それに対処する心の強い制御力も必要だ」

彼らはしばし、自分たちの仕事について、熱く語り合いました。理想や愛についても、深く対話を交わしました。そして行き着くところはやはり、すべては愛だ、というところなのでした。日照界の青年は片手を拳にしたり開いたりしながら、少し興奮した様子で言いました。「そう、すべてはそれだ。世界は愛。すべては愛そのもの。イエスの言いたかったことはそれだ。存在のすばらしさ。今自分がここにあることの幸福、神の御心の真実。世界に存在するもの、それはすべて愛、ただ一種類の愛のみだ。そしてそれが、あまりにもたくさんいる。そしてひとつとして同じものはない。この奇跡。創造のあまりにも崇高な不思議。僕たちはほとんど何もわかっていない。でも愛はいつも導いてくれる。僕たちの目が真実を見ている限り、僕たちの前にはひたすらまっすぐな愛への道、すなわち神の国への道が続いている…」「そう、すべては同じ。そしてすべては違う。僕は僕、君は君、だが僕も君も、同じ存在というものであり、愛というものを共有している。愛の中で魂が共鳴し、神の幸福の中へ導かれるときの歓喜はすばらしい。僕たちは幸福だ。限りなく幸福だ」

青年たちは、月光を浴びながら、しばし、同じ愛の元、自分たちが同じ愛であることを感じ、共鳴しあい、語り合うことの幸せに浸っていました。こうして友がいることのなんと幸せなことだろう。ふたりは同時にそう思いました。

やがて、会話に一区切りがつくと、日照界の青年はひざに手をおいて、ふうと息をつき、月の世の青年は背もたれに大きく体を預けて、月を見上げました。

静寂がしばしの時を濡らし、月光に照らされた森が、今初めてそこに現れたかのように、彼らの目の前に広がりました。杉の樹霊たちもまた、彼らの会話に共鳴し、ひそひそと愛を語り合っていました。

「僕は僕、君は君、か…」と、日照界の青年がふとつぶやきました。月の世の青年は言いました。「そう、イエスはイエス、君は君だ」すると日照界の青年は口の端を歪めて痛いところをつかれたという顔をし、苦笑しました。
「僕たちは、神に学ぶ。日々、学ぶ。そして、いつも、追いかけている。あのように高く、美しいものに、いつかなりたいと、願う。そう、きっと、何万、何億年と、永い永い年月をかけて、僕たちが学び、あらゆる高い壁を超えてゆけば、やがて空高く飛んで、あの神のように美しい創造を行うことができるようになるんだろう。しかし僕たちは決して、神には追いつけない。永遠に追いつけない。だから、永遠に追いかけ続ける。イエスも、そういう方だ。僕たちが永遠に追いかけ続ける人。決してあの愛には、かなわない。彼と同じことはできない。でも、僕は僕だ。僕は学び、僕自身の創造を行い、より本当の僕自身になってゆく。君もそうだ。髪や髭を伸ばしても、決してイエスになれるわけじゃない。あの方はあの方だ。君は君だ。あの方は、君が自分の真似をするよりも、ずっと、君が君らしいことを喜ぶと、僕は思う」

月の世の青年は熱い心をこめて日照界の青年に語りかけました。日照界の青年は唇を噛み、茫然と目を見開きながら、月光の落ちた地面を見つめていました。心の中で、何かに縛られていたものが解放され、うごめき始めたような気がしました。やがて彼は顔をあげ前を見て、神の前に決意を述べるように、「そう、そのとおりだ」と言いました。そして静かにベンチから立ち上がると、さっと顔をひと振りして、その長い髪と髭を消しました。すると金色の短髪をきれいに整えた、青い大きな瞳の青年が、月光の中に現れました。

金髪の青年は、前よりも少し輪郭が硬質になり、少年ぽさがいくぶん消えていました。月の世の青年はそれを見て少し安心し、「やあ、君」とまるで今出会ったかのように彼に声をかけました。「ひさしぶりだ。いや、初めて会うのかな。」
すると日照界の青年は彼を振り返って手を差し伸べ、握手を求めました。そして彼と手を握り合いながら、「はじめまして、君。僕は日照界からきた、僕というものだ」と言いました。

ふたりは同時に吹き出し、おかしくてたまらぬように足をばたつかせ、腹をかかえて笑いました。笑い声は高く森に響き、木々の間をこだましました。

「じゃあ、そろそろ」「ああ、だいぶ時間が経ったね」やがてふたりは、微笑みを交わしつつ、別れを惜しみました。「またいつか会おう」「うん」。

友達がいるのは、本当にいいことだな。金色の短髪の青年は胸に温かさを感じつつ、月の世の青年に向かって手を振り、扉の向こうに去ってゆきました。そしてその扉も消えて見えなくなると、月の世の青年もまた、小さな呪文を唱え、そこから姿を消しました。

再び人気のなくなった廃村には、しばし、彼らの残した対話の熱が残り、そこに静かに、月が温かなまなざしを注いでいました。



 
 
 
 
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2025-01-13 03:39:39 | 月の世の物語・別章

日照界に、夕日の岸辺という海辺の小さな村がありました。岸辺から遠く海の方に目をやると、そこの太陽は、すぐにも水につかってしまうかと思うほど、はるか向こうの水平線すれすれに顔を出し、いつも西空を夕焼け色に染めていました。振り返って、反対側の東の空は、うっすらと夜の色に染まり、気配だけはあるが決して姿を見ることはできない月の光が、山並みの稜線をくっきりと白く照らしていました。

日照界で、ただひとつ、日の光と月の光を同時に感じることのできるこの海の磯には、月光薄貝という大きな白い薄貝が棲んでいました。その薄貝には珍しい習性がありました。山の向こうに光だけが見えて決して姿は現さない月が、満月になると、その白い貝は不思議な脱皮を行い、その抜け殻は、水面に蝶のような形の白く薄い皮となって浮かぶのでした。

職人は、暦を正確に読んで満月の日を選び、深い長靴をはいてその磯に入り、月光薄貝が脱皮するのを待っていました。岸辺をやさしくなでる波の音を聞きながら、職人は、一枚の月光薄貝が磯の底でぷるりと震え、白い貝の皮をするりと脱ぐのを見ました。彼はその白い皮をさっそく網ですくい、それを破ったり壊したりしないように、丁寧に扱いながら、腰に下げた籠の中に入れました。そうして、二十枚ほどの貝の皮を集めると、職人は仕事を終え、磯を出て、砂浜の向こうのゆるやかな丘の上にある、大きな工房の方に向かいました。

途中、職人は、何人かの女の職人たちが岸辺に立ち、バケツのように大きな銀製の碗をいくつか砂の上に置いて、それを斜めに立てて碗の口を夕日に向けているのを見ました。日の光は月光のように汲むことはできませんでしたが、銀の鏡の中に吸い取ることはできました。彼女らは銀の碗の中に十分に夕日の光が染み込んだのを確かめると、その碗の中に海水を注ぎ込み、月の世から取り寄せた豆真珠の粉をひと振りして混ぜました。すると海水は見事な夕日の色に染まりました。彼女らはその夕日の水を三日ほどかけてじっくりと煮込み、ただひと匙の、朱色の顔料を作るのでした。

職人は工房に戻るとその裏庭に周り、そこに夕日に向かって斜めに立ててある板の上に、月光薄貝の皮をその質や大きさによって分けながら丁寧に広げて並べ、夕日の光と風の中にさらしました。そうして三日ほど干しておくと、月光薄貝の皮は蝶の形をした、かすかに虹色を帯びた貝殻質の白い薄紙となるのです。職人は空の雲の動きを眺め、風や雨の気配などを気にしながら、今度は別の板の上にある干し終わった貝の薄紙を集め始めました。

工房の中には、たくさんの職人と三人の準聖者が働いておりました。職人たちはそれぞれ自分の作業場に陣取り、各々の仕事に集中していました。ある者は、顕微鏡をのぞきこみながら、糸のように細いナイフを使って、ごく薄い水晶や瑠璃の板を削り、星の形をした歯車や蚤のようなネジやバネなどを作っていました。またある者は、遠く月の世の天の国から取り寄せたという翡翠や瑠璃をすりつぶし、緑や青の絵の具を作っていました。ほかにも、かすかな月光をじっくりと時間をかけて碗に汲み、それに日照界でとれる綿の実を浸してごく細い光の糸をよる者がいたり、絹のような手触りのきめ細やかな土をこねて、指に乗るほどの小さな虫の形の器を、オーブンのような小さな窯で焼いて作る者がいたりしました。

二階では、三人の準聖者のひとりが、片隅で敷物の上に座り、古風な服を着て鼓をたたきながら、美しい声で呪文の歌を歌っていました。その歌声は、机に向かっているひとりの準聖者の霊感を高め、彼はその霊感に操られるように、半透明の薄紙の上に蝶の形と翅の文様を描き、型紙を作っていました。ひとつの蝶の型紙が完成すると、その準聖者は机を並べている隣の準聖者にそれを渡し、その準聖者もまた霊感を受けながら、その蝶の羽の文様の中にそれぞれしるしを書き、文様の色を指定してゆきました。

職人のひとりが二階に上って来ると、彼は深く準聖者にお辞儀をして、型紙を受け取り、すぐ下の階の自分の机へと戻っていきました。彼はその型紙を、乾かした月光薄貝の紙の上に載せ、極細のペンと写し紙を使い、薄貝の紙に傷をつけないように微妙に指先の力を調整しながら、準聖者の描いた蝶の形と文様を慎重に正確に薄貝の紙に写してゆきました。彼は型紙から写した文様に、一ミリの間違いもないのを何度も目と勘で確かめたあと、それを隣の机に座っている職人に渡しました。その職人は、書かれた蝶の形の通りに、薄貝の紙を細いナイフで丁寧に切り抜き、そして型紙を見ながら指定された通りに細い筆を絵の具に染めて蝶の翅に色を塗ってゆきました。彼の前には、瑠璃の青や、翡翠の緑、夕日の朱、金色の橘の実から吸い取ったという黄、豆真珠の粉でつくった白、月光を黒檀の密室でさえぎった闇から採取したという墨などの、さまざまな絵の具を入れた小皿が並んでいました。

職人は、蝶の文様に色を塗っている間は、息もしませんでした。少しでも息を吐くと、薄貝の紙が揺れて、微妙に文様の線から色がはみ出し、それだけでその蝶はもうだめになってしまうからでした。職人は一ミリどころか一マイクロの間違いも許されませんでした。ただ一心に蝶の文様を見つめ、描かれた線をけっしてはみ出すこともなく、顔料と水の量、筆に吸い取る絵の具の量、筆を動かす微妙な指の動きなど、職人は経験から得たほぼ神業に近い勘だけを頼りに、神よりの使命に動かされているかのように、貝の薄紙に色を塗ってゆきました。

ひと組の蝶の文様が完成するまで、職人はたくさんの時間を使いました。そして職人が、蝶の文様の裏も表も、まったく正確に塗りあげると、彼はそれを次の作業をする職人に渡し、そこで初めて息をしました。

色塗りの職人から蝶の翅を受け取った職人は、女の職人でした。彼女は、絹の土で形作り焼き上げられた小さな虫の器の中に、極小の歯車とネジとバネで作った小さな仕組みを入れ、それを黒い薄布で覆って光の糸と針で縫いこみました。そしてさっき受け取った薄貝の蝶の翅を、豆真珠の粉を固めた極細のチョークで仮に描いたしるしのところに、一ミリのずれもなく正確に縫いつけました。こうしてできあがった蝶は、最後にまた二階の準聖者のもとへ持ってこられました。そこで、鼓をたたいて歌っていた準聖者が、少しの間歌をやめ、職人らが作り上げた蝶を左手で受け取り、右手の人差し指ですいとまっすぐに宙に線を描き、それで細い光の筆を作りました。準聖者はその針金よりも細い光の筆をとり、蝶の両の目に、す、す、と白い光の点を描きました。すると蝶は初めて命を得たように、体内の歯車がかりかりとかすかに動きだし、翅をひらひらと動かし始め、木の葉のように宙に浮かびあがりました。職人と準聖者は、開けてあった二階の高窓から風が一筋忍び込んできて、蝶をまるで盗んでいくかのようにからめとり、工房の外へと導きだしてゆくのを見ました。

そうしてようやく完成した蝶は、夕日の歓迎を受け、じっくりと温められながら、風に導かれるまま、東の山を超え、そのはるか向こうにある高山へと旅しました。そこには高山の花々が季節をかまわず咲き乱れている、極楽の花園のようなところがありました。花園にはもう、工房で作られた蝶がそれはたくさん群れており、花々の中で、雌雄は互いに呼び合い、追いかけたり逃げたりを繰り返しながら、不思議な繁殖をおこない、透明な歯車で作られた目に見えぬ光の遺伝子を交換し合い、神の魔法の中で、これほど珍しく美しいものがあるのかと芸術家のだれもが驚きおののくほどの、見事な文様の蝶が、次々と新しく生まれ出てくるのでした。そんな蝶の数はみるみる増えて、蝶の群れは大きく大きく膨らんでゆき、まるで一つの生き物のように、花園の空を舞いました。

高山の花園に潜んでいた神は、その群れをゆっくりと操り、蝶の一匹一匹に描かれた文様が、一マイクロの狂いもなく正確に描かれているのをごらんになり、とても喜ばれました。そして、ほお、と感動の驚きを見せ、その蝶の群れを祝福し、その使命を認めました。

それぞれの蝶の翅に描かれた文様は、高き神の愛の思考より生み出された言葉の一つ一つの文字を、この世界に表現するために作られたものでした。その文字を、準聖者が神よりのことばとして霊感の中に受け取り、工房の職人たちが、その誠の心と磨かれた高度な技をかけて作り上げ、愛のしるしの下、皆で協力し合って、神の御言葉をこの世界にこれ以上には正確にはできないほど正確に写しとった、それはまさに神と人がともに作りあげた美しい工芸品でありました。そして、不思議な魔法の繁殖によって膨らんだ神の文字であるその蝶の群れは、神により書きあげられた、一巻の大きな物語の中の、ある一章でもあるのでした。

蝶の群れは、このまましばらく花園に暮らし、繁殖を繰り返しながら、十分に命として、言葉として機能する準備が整うと、いくつかの群れに分かれ、あらゆる世界に神の著された物語を伝えるために旅をしてゆくはずでした。人々には、その神の文字を正しく読むことは決してできませんでしたが、しかしその文様を見るだけで深く感動し、何かをせずにはいられなくなりました。そしてそれは、その人の生きる道を導き、まるで物語の一つの役を担うように、何かの使命に導かれ、学び始め、行動し始め、美しい愛へと向かう、自分のための自分の道を探し、歩き始めるのでした。そうして、蝶はあらゆる人の魂を、神の御心への道へと導き、人々の魂はそれを追って、大きく成長してゆき、人間の、いえ、あらゆる命たちの、大きな歴史の物語を、自分たちの力で創り上げはじめるのでした。

このようにして、命の歴史の物語、すなわち史(ふみ)は、夕日の岸辺の磯に棲む、一枚の白い月光薄貝が、自らの古い殻を脱ぎ、新しい自分へと生まれ変わることから、始まるのでした。


 
 
 
 
 
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2025-01-12 02:56:43 | 月の世の物語・別章

日照界に、中天に太陽を仰ぐ、果てもなく続く鬱蒼とした密林があり、今、水色のスーツを着た一人の青年が、翼もなく、その上を飛んでいました。彼の顔は、まるで太陽から焼け出されたかのように黒く、髪は僧侶のようにそり上げ、磨いた黒曜石のような丸い大きな瞳は、物事すべてにまっすぐな誠の光を隠して、ただひたすらに目指すものを目指していました。

彼は密林の中を流れる一筋の河のほとりに、鰐の紋章を描いた白い旗がはためいているのを見つけ、そこを目指して降り立ちました。白い旗の立っている河岸の少し向こうには、かなり大きな鰐の群れが河の水につかっているのが見えました。彼は旗を岸の土から抜き、それを振りながら鰐の群れに近づくと、大声で、「おおい!」と叫びました。すると突然、水の中から真っ白な大鰐が現れ、それが器用に立ちあがって青年の立つ岸に向かって素早く歩いてきたかと思うと、白鰐は黒い青年の前で、同じ水色のスーツを着た青年の姿に変わりました。その青年は、肌の黒い青年とは対照的に、白髪に近い金髪に水色の目の、薄紅のほおをした背の高い白い青年でした。

「やあ、だいぶ疲れてるようだね」黒い青年がねぎらうと、白い青年は額に手をあて、少しふらつきながら、うなずきました。黒い青年は呪文をつぶやき、白い青年に向かって癒しの術を行いました。すると白い青年はだいぶ元気が出てきて、一つフウと息をつき、スーツのポケットから白い小さな玉を出しました。「これが今月の鰐の指導記録だ。ちょっと見てくれないか。気になることがあるんだ」白い青年が言うと、黒い青年は自分のキーボードを出して、白い玉をその中に放り込みました。すると、画面に一匹の鰐の姿が現れ、その下に一連の文字の列がありました。
「セムハラシム 297769873QXKIDG」

黒い青年がその文字を読み上げると、白い青年が言いました。「それがその鰐の名前だ。少し前から、あまりものを言わなくなった。鰐は普通、キバ、クチ、クウ、などとよくしゃべるものだが、彼だけは何も言わず、なぜか森の方ばかり見ている。精霊といっしょに彼と同化してみて気づいたんだが、彼はどうやら、外界の存在を感じ始めているらしい」それを聞いて、黒い青年は目を見張りました。「外界の存在を?それは鰐にしては段階を飛びすぎていないか?」「そうなんだ。鼠や蝙蝠でさえ、外界と自分との境界を知らない。あり得ないとは思うが、鰐のように幼い魂が、外界の存在の大きさを知ってしまうと、恐怖を感じすぎて病気になってしまうおそれがある。ちょっと注意して彼を見ていてくれないか」「わかった。交代するよ。君は帰って休んでくれ」

黒い青年はキーボードをしまうと、岸に旗を刺して、さっそく白い大鰐に姿を変え、河の中へ入って行きました。白い青年は川岸から宙に浮かび、精霊の起こした風に乗って森の上を飛んでゆきました。

白鰐は、群れの中を静かに移動しながら、セムハラシムを探しました。鰐たちは、ゆったりと水につかりながら、…キバ、キバ、クチ、クチ、クイモノ、クイモノ、クイモノ…などとそれぞれにつぶやいていました。セムハラシムは、群れの中ほどで、半分水から顔を出し、じっと河岸の蒼い森を見つめていました。鈍い金色の目が、時に何かを求めているかのように、くるっと動きました。白鰐は静かにその鰐のそばにより、「セムハラシム」と呼びかけました。すると鰐は、自分が呼ばれたことに鈍く気づき、グ、と声をあげました。「セムハラシム、どうした?」白鰐は呼びかけてみましたが、彼は何も答えず、ただ森の方を見ていました。白鰐は、彼の様子を見守るために、しばらくこうしてずっとそばにいてみることにしました。

十日ほども、彼はずっとセムハラシムから身を離しませんでした。セムハラシムは時々、思い出したかのように、キバ、ということがありました。クチ、クチ、クチ、クククイモノ…。しかしすぐ、かすかな悲しみのようなものが彼の目の中を流れ、彼はまた森に目を移すのでした。(鰐に悲しみがわかるものだろうか?)白鰐は十日目に、もう一度、セムハラシムの魂に呼びかけてみました。

「セムハラシム、あれが何か知りたいのかい?」すると鰐はまた、グ、と答えました。その答えには特に意味はありませんでしたが、白鰐は試みに、言ってみました。「あれは、森というものだ。神が鰐やほかの獣たちのためにお創りになった。ごらん、君にわかるだろうか。森は君を愛している。すべてが、君を愛している。君は気づくだろうか。どんなにみんなが、君を心配しているかを」するとセムハラシムはまた、グ、と声をあげました。そして目をくるくるとまわし、かすかに口を開け、牙を見せながら、河の水から半身を起しました。彼は言いました。モ…リ…。

「そう、森、だ。意味はわからなくていい。言葉だけ、繰り返してみなさい。いいかい、森は君を愛している。そしてすべてを与えている。わからなくていい。繰り返し、繰り返し、練習しなさい。森、森、森…」
そのときでした。不意に、セムハラシムは横にいる白鰐に気付き、突然口を大きく開け、目にもとまらぬ速さで白鰐の腹にがぶりと噛みつきました。白鰐はあまりの痛さに、ぎいっと声をあげ、一瞬手足をもがかせました。しかしすぐに彼は自分を落ち着かせ、その痛みに耐え、セムハラシム、とまた呼びかけました。彼は、セムハラシムの小さな魂が、鈴のように震えて、おびえているのを感じました。白鰐は言いました。「セムハラシム、愛している」セムハラシムはそれには答えず、ますます牙に力を込めました。

白鰐がしばしその痛みに耐えていると、上空から密林の精霊が一人降りてきて、セムハラシムと同化し、その小さな魂を抱きしめました。そして精霊もまた彼に、「セムハラシム、愛している」とささやきました。密林の樹霊たちも、彼に愛を送りました。精霊の愛に抱かれて、セムハラシムの魂は次第に落ち着きを取り戻しました。そして精霊は、しばしその魂を胸に休ませ、彼の代わりに彼の口を動かし、白鰐の腹から牙を離しました。白鰐はずくずくと痛む腹に魔法を塗りつけ、苦痛を一時麻痺させると、精霊と同じように、セムハラシムとの同化を試みました。

「セムハラシム、愛している」彼はささやきながら、精霊とともにセムハラシムの魂を抱きしめました。なんと幼い魂なのか。なんとおまえは小さいのか。すべてを、すべてをやってやらねばならない。こんな小さなものが、こんな小さなものが、いるのか。すべてを、やってやらねばならない。彼はまるで神のようにセムハラシムの全存在を抱きしめ、自らの胸の奥からあふれてとまらぬ愛に泣きました。

セムハラシムは森を見つめ続けました。そして彼は、かすかに魂にしわを寄せました。それは、彼が何かを言いたいのに、言えないもどかしさを感じているからでした。白鰐の魂はセムハラシムの魂と深く共鳴し、彼が語りたい言葉を探し、それを代わりに、セムハラシムの口から言いました。

ナ…ゼ…

「なぜ?なぜと言ったのか、セムハラシム」白鰐ははっと自分に戻り、セムハラシムに問いかけました。セムハラシムはまた、ナゼ、と言いました。
(セムハラシムは疑問を持ち始めた。問いかけ始めた。たぶん、森が何なのか知りたいのだ。しかし、どうしても、知りたいということがわからない。言えない。彼は違う。何かが違う。鰐が、なぜ、なぜというのだろう?)

白鰐は、ずっとセムハラシムから離れずに注意深く観察し、それを体内の白い玉に記録してゆきました。

やがてひと月が経ち、白い青年が、空を飛んで河のほとりにやってきました。白鰐は、旗を持つ白い青年の前に立ち上がり、すぐに元の黒い青年の姿に戻りました。その姿を見て、白い青年は驚きました。彼の水色の服のあちこちに、セムハラシムが噛んだ牙の跡がたくさん残っていたからです。

「何があったんだ。ずいぶんひどい様子じゃないか」彼は黒い青年に癒しの術を行いながら言いました。黒い青年は黙って、白い玉を白い青年に渡しました。「セムハラシムは病気ではないようだ。ただ、どこかが他の鰐と違うだけだと思う」黒い青年が言うと、白い青年は白い玉を自分のキーボードに放り込んで、画面に映るこの月の指導記録を読みつつ、ひゅう、と口を鳴らしました。「君、ちょっとがんばりすぎだ。ここまでやったのか」

「師たる聖者がおっしゃったことがある。幼い魂の中には、これまでわたしたちが経験し、積み上げてきた知恵だけでは計ることができない変化を見せる者が時々いると。セムハラシムはその例ではないかと思う。もちろん、稀ではあるから、今僕がそう思うだけなんだが」黒い青年が言うと、白い青年はうなずき、「よし、交代だ、引き続き観察を続けよう」と言って、旗を岸に刺しました。黒い青年は、安心したようにほっと息をつき、初めて顔に疲れを見せました。そしてうつむきながら、まるで何かに導かれるように、言いました。「…一体、我々は、どこから生まれてきたのだろう?」白い青年は、変身をする前に、彼のその言葉に振り向きました。黒い青年は続けました。「セムハラシムのそばにいて、思った。我々は一体どこから来たのか。神が、お創りになったのか。それとも、どこからか、自然に生まれてくるものなのか…」

「それは誰もが持つ疑問だ。答えを知っている者はいない。神でさえ、ご存じではないかもしれない。わかっているのは、僕たちが今存在していて、ただ、愛さずにはいられないということだけだ」白い青年が言うと、黒い青年は顔をあげ、「そう、…そうだね」と言いました。彼らは、深い森の愛に囲まれているのを感じながら、しばし、自分たちが同じ愛の中にいて、魂が共鳴していくのを感じました。ああ、愛だ。君も、愛。そして、僕も、愛。みな、同じ愛なのか。それが、この世界に、こんなにも、たくさん、いるのか…。

黒い青年は、片手で顔を覆い、うっと喉をつまらせました。白い青年はその肩に手をやり、その心を共にしました。存在というものの孤独と、喜びと、それは皆が、当たり前に持っているものでした。皆、同じでした。悲しみも、苦しみも、幸福も、すべては皆、同じでした。

白い青年は黒い青年の名を呼び、「愛しているよ」と言いました。すると黒い青年は顔をあげて、ようやく笑い、「ああ、僕もだ」と答えました。そして白い青年は再び白鰐に姿を変え、河に入って行きました。黒い青年はそれを確かめると、ふわりと宙に浮かび、精霊に助けられながら、森の上を空高く飛んでゆきました。


 
 
 
 
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2025-01-11 03:04:00 | 月の世の物語・別章

月の世に天の国があるように、日照界には日の都がありました。その都には、深い緑の森の中に、点々とたくさんの石でできた建物が散らばり、中央の丘には、磨かれたアラバスターで表面を覆われた、輝かんばかりに白い巨大なピラミッドが建っていました。

そのピラミッドの麓、一群の木々を挟んで少し離れたところに、同じようにアラバスターで外壁を覆った大きな四角い建物があり、そこが、日照界のお役所でした。今、その建物の中の一室で、ひとりの若者が、自分専用の知能器の前に座り、次々と変わる画面の画像を見ながら、風のような速さでキーボードを打っていました。

一連の情報を知能器に打ち込むと、彼は一息つき、右手で魔法をして小さなお茶の器を呼び、それを一口飲みました。そのとき、開いた事務室のドアをたたく音があり、振り向くと、そこに同じ水色のスーツを着た彼の上司が立っていました。若者はあわててお茶を置くと、立ちあがって上司に挨拶しました。上司は彼の挨拶に答えると、少し目を細めて、彼に言いました。

「…気の毒なんだが、この前の君の誕生願い、却下されてしまったよ」それを聞くと、若者は目を見開いて驚き、思わず抗議しました。「なぜです?このたび、月の世に降りたという神の御計画に参加するために、今、魔法使いや僕たちのような者が、たくさん地球上に生まれるために入胎準備をしていると聞いています。なぜ僕が、それに参加できないのです?」
「残念だが、上部のお決めになったことだ。逆らえない。君は愚かではない。わかっているだろう」そう言われると、若者は目を伏せ、素直に「…わかっています」と言うしかありませんでした。上司は彼のその顔をしばし見つめました。若者はその若さに似合わず、金色の髪と髭を長くのばし、実の年齢よりだいぶ大人びて見えました。上司は小さく息をつき、言いました。「…これは、言いにくいことだが、君は、イエスに傾倒しすぎている。それは、改めた方がいいと、わたしは思う。君が地球上に生まれたら、うかつにイエスのような真似をしかねない。そうして君がむごい目にあってしまうと、君自身の魂に悪い影響を及ぼす。賢き人に学ぶことはいいことだが、その真似をして今の自分の段階を無理に超えるような真似をしてはいけない」
「…はい、そのとおりです」若者は目を伏せたまま、答えました。上司は元気づけるように彼の肩をたたきき、「大丈夫だ。君は十分に神の御計画に貢献している。幼きガゼルの魂を導くのも、大切な神のお仕事のお手伝いだ。やるべきことを、やってきたまえ。それが神の御心だ」と言いました。若者はただ、「はい」と小さく答えました。

上司が部屋を出ていくと、若者は椅子にかけていた自分の水色の上着をとり、それに袖を通しながらお役所の外に出ました。そして森の方に向かい、木々の枝の下に入ると、指をぱちんと弾き、目の前に小さな扉を作りました。その扉をあけると、どこまでも広がる緑の広い草原があり、そのあちこちに、かわいい角をしたガゼルの群れが、散らばっていました。若者は扉をくぐると、魔法を行い、手にガゼルの紋章のついた白い旗を出しました。それを草原の真中に突き刺すと、旗は大地にそそり立つ大きな緑の木に変わりました。彼は口笛を吹いて、額にただ一本のまっすぐな角を持つ大きなガゼルに変身すると、その木の根元にゆったりと座り、とぅとぅ、と大きな声をあげて、ガゼルの群れを呼びました。するとガゼルたちは、その声に引き込まれるように一斉に彼を目指して歩き出し、やがて木の周りにはたくさんのガゼルの群れが集まりました。一本角のガゼルは、また、とぅ、と鳴き、彼らに座るように命じました。するとガゼルたちは素直に彼に従い、その場に行儀よく座りました。

「君たち、元気かい?」一本角のガゼルは、やさしくガゼルたちに呼びかけました。ガゼルたちはざわざわと答えました。

げんき?げんき、げんき、げーんーきー!

「そうか、それはよかった。君たち、この前のお話しは、覚えているかな?」

おはなし?おはなし?それなに?しらない、しらない、しらない?

「そうか。もう忘れたんだね。じゃあまた覚えよう。『愛』だよ。あい。その言葉、ちゃんと、覚えようね」

あい、あい、あーいー、しってる、あい、いいもの、とっても、いいもの。

「そう、そうだ。かしこいね。いい子たちだ。では君たち、『獅子』という言葉は、知ってるかな?」

しし、しし、いや、それ、いや、しし、きらい、しし、たべるの、がぜる、たべるの。

「獅子」と聞いただけでガゼルたちの間に不安が広がり、ざわざわと群れが乱れ始めました。中にはとても苦しいことを思い出して、きゅうきゅうと悲鳴を上げて震えだすものもいました。一本角のガゼルは高い口笛を吹いて、彼らを静まらせ、言いました。

「大丈夫だよ、ここには獅子はいない。獅子はこわいねえ。君たちに、とてもいやなことをするね。でもね、君たちがね、獅子に食べられてしまうのは、とてもよい勉強なんだよ」

べんきょう?べんきょう?べーんんきょーう?

「…そう、大切な、大切な、勉強だ。愛はね、とても大切なことを教えるんだ。獅子はね、とても苦しい。君たちがいないと、とても苦しい。おなかが減って、おなかが減って、つらくってしょうがない。でも君たちを食べると、獅子はうれしい。こどもにも、食べさせることができて、獅子はとてもうれしい。君たちはね、獅子に、とてもやさしいことをしているんだ。食べられるというのはね、自分をみんな、神様にさしあげてしまうってことなんだよ。それはね、とてもたいせつな、勉強なのだ。愛はときに、自分が壊れてしまうほど、とてもつらいことに、耐えねばならないからだ…」

一本角のガゼルは深い声で、ガゼルの群れに語りかけました。ガゼルたちは、きょとんとしました。群れがざわざわと動きはじめ、いや、いや、いや、と騒ぎだしました。

いや、いや、しし、きらい、たべるの、しし、たべるの、がぜる、たべるの、いや、つらいの、つらいの、いたいの、いたいの、いや、いや、いや!

「でもね、それが愛なんだよ、つらいことにたえるという、大切なことを、君たちは、ガゼルとして、勉強しているんだ…」

一本角のガゼルが言うと、突然一頭のオスのガゼルが立ちあがり、いやだ!と叫びました。

いやだ、いやだ、あい、いやだ、あい、きらい、きらい、あい、いいもの、ちがう!

「だめだよ、愛をきらいだなんていっては…」一本角のガゼルは言いかけましたが、ガゼルたちはもう彼の言うことに耳を貸しませんでした。一斉にその場に立ち上がると、いや、いや、いや、と声を合わせて騒ぎ、一本角のガゼルに背を向けて、あっという間にみんな向こうに行ってしまいました。

一本角のガゼルは、ガゼルたちに背かれて、ひとりぽつんと木の下に残されました。

「Oh, Jesus! なんてこった!」ふと、上の方から誰かの声が降ってきました。一本角のガゼルは元の若者の姿に戻り、上を見上げました。すると木の梢の上から、ガゼルを導く精霊の一人が、くすくすと笑いながら彼を見下ろしていました。「場所は鹿野苑てとこですが、状況はイエスにそっくりですね」精霊が言うと、若者は「からかわないでくれよ」と口をとがらせました。精霊は上司のような声で、彼をたしなめました。「ガゼルにあんな難しいことを教えても、わかるものですか。嫌われるだけですよ」すると若者は腕を組み、ため息交じりに言いました。「幼き魂を導くのは、かくも難しいんだ」。

精霊はあきれたように返しました。「あなたはイエスに感化されすぎです。せめて、その髪と髭はやめたらどうです?」そう言うと精霊は一息の風を起こし、若者の顔をなでてその髪と髭を消しました。するとそこに、まだ輪郭に幼さを残す、なんとも愛らしい青い大きな目をした少年のような顔が現れました。若者は、駄々っ子のように首を振り、すぐに元の髪と髭の顔に戻しました。精霊はやれやれ、とため息をつきつつも、そこを離れず、ガゼルたちに去られてしまった彼の胸の寂しさを、補おうとしました。

若者はポケットから蛍石のカードを出し、それをキーボードに変えて、今日のガゼルたちの指導記録を打ち込み始めました。その上から、安心させるように、精霊が言いました。
「大丈夫ですよ。さっきあなたが言ったことなんて、ガゼルはもうすっかり忘れています。みんなもう、草や水のほうに夢中だ」若者は精霊の言葉には答えず、指導記録を打ち込み終わると、一息つき、ガゼルたちの草原を見渡しました。精霊の言ったとおり、ガゼルは忘れっぽく、一本角のガゼルがいたことすらも、もう覚えていないようでした。

「僕たちにも、あのガゼルのように、小さい時があったんだろうか?」若者はふと、言いました。精霊は、「さあ?だれも、自分の魂生の全てを覚えている者はいません。わたしも、気付いたら、いつの間にか精霊をやっていて、歌ばかり歌っていました」と答えました。「でもきっとわたしたちにも、ああして幼い時があって、このように誰かに導かれていたんでしょう」精霊は遠くガゼルの群れを見渡しながら、言いました。

若者は、キーボードに目を落とすと、青いキーをポンと打ちました。すると、目の前に、黒い髪に美しい青い目をした彼の人の肖像が現れました。若者はその顔に見入り、どうしてこの人の目は、こんなにきれいなんだろう?とつぶやきました。精霊は、ふうと息をつき、「幼き魂を導くのは、かくも難しいからですね」と、言いました。

若者は、精霊が多少の皮肉をこめて言っているのにも関わらず、ただ、その人の青く澄んだ目の中に浸り、いつまでも心を吸い込まれていました。


 
 
 
 
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