「やれ、今度はまた、ずいぶんと暗いところに落ちたな」竪琴弾きは、頭上を覆う厚い木々の梢を透いて降ってくる、かすかな霧雨を浴びて、少々不快な冷気に耐えながら、鬱蒼とした森の闇の中を、月珠の光だけをたよりにして、歩いていました。「どうしてこう、僕が担当する罪びとには、変わった人が多いんだろう?」彼は、行く手をさえぎる太い木の枝を腰をかがめてくぐりながら、独り言を言いました。
やがて月珠が何かに気付いたかのように、きらりと光を強めました。するとその光を、小さな水たまりのような池が反射し、そのそばに立った太い木の幹を照らしだしました。その幹には、全体的に体が少し小さく縮んだ一人の男が、しっかりと腕をまきつけて抱きついていました。竪琴弾きはその姿を見ると胸に手をあて、おお、神よ、とささやきながら上を見上げました。男は、体の上半分は、頭の小さい貧相な醜い男でありましたが、腰から下はしっぽの生えた猿になっており、木に抱きついていなければ立って自分の体を支えられないような形になっていました。竪琴弾きはとにかく、背中の竪琴を前に回して左腕に抱えると、「やあ、久しぶりですね」と男に声をかけました。光の気配に気づいていた男は、その声に、おずおずと振り向き、「ああ、どうもぉ、ひさしぶりでやす、だんな」と恥ずかしそうに、にたにたしながら言いました。
「今度の人生は三十六年で終わりましたね。まずは復習しましょうか」竪琴弾きは池の近くに横たわった太い倒木の上に座り、竪琴を膝に載せました。霧雨はいつしか止んでいて、彼は体をぶるっと震わせ、冷たい雨の気を飛ばして衣服を乾かしました。そして琴糸をびんと弾き、目の前に何枚かの書類を呼び出して、それを手にして読みながら、言いました。
「先ず、あなたは生まれる前、怪と契約して、人生を他人から盗みましたね」竪琴弾きが厳しい声で言うと、男は木に抱きついたまま、へへ、へへ、と笑いました。「…それで本当はもっと貧しい家に生まれるはずが、怪に裏から操作をさせて他人と入れ替わり、とても裕福な家に生まれました。それで人生バラ色といきたかったのでしょうが、たいした才もないのに努力も勉強もせず、容姿的にもとりえはない上、つまらない遊びにばかりお金を使い、親の助けでなんとか学校を卒業して就職したものの、仕事も長続きせず、ぶらぶら遊んでばかりいて、しまいに家族にも嫌われて、結局は勘当同然でその家を出ざるを得ませんでした。それからあなたは都会に出て、ある街の片隅でやくざ者に拾われ、しばらく地下にある怪しげなカジノで働きました。しかしある日、ゲームで少々『危ない』人を相手にいかさまをやってしまい、それがばれて、チンピラ数人によって袋だたきにされ、それが原因で、路上に引き取り手のない遺体をさらして死にました。享年三十六歳と四カ月。…以上に間違いはありませんか?」
竪琴弾きが言うと、男は相変わらずにたにた笑いながら、「はい、そのとおりでやす。まちがいございやせん」と言いました。
竪琴弾きは、また琴糸をはじいて書類を手元から消すと、男の足を見て言いました。「その足はどうしたんです?」すると男は困ったような目で竪琴弾きの方を見て微笑み、わかってるでしょう?と言いたげに首をすくめました。もちろん竪琴弾きには、それを見たときからわかっていました。彼は怪に頼んで人生を変えてもらった代わりに、その足を怪にとられてしまったのでした。
「へ、おれ、馬鹿なもんで、なんもできなくてえ。金持ちになったら、ちょっとはましかなって…、へへ、へへ、なんとかしなきゃあって思ったんだけど、なんかおれ、なんもやんなくって、おれって馬鹿ばっかりで、なんでこんなことしかできないのって、始終そんなことばっか言われて、つまりその、つらかったですよ。それだけだな。へへ、じんせえって、つらいよなって、馬鹿だなおれって、へへ、すんません、だんな、なんもまともにできないんですよお。で、つい怪に頼んじまって…」
竪琴弾きは天を見上げて、また、神よ、とつぶやきました。そして男に向かい、「自分を馬鹿だなんて、言ってはだめですよ…」と言いかけると、男はそれをさえぎるように、言いました。「わかってやす、わかってやす、馬鹿なんですよ、おれ、わかってんだけどな。自分、馬鹿だって言って、自分で決めつけるのがいけないんですよね。何度も言われますよ。みんなに言われますよ。やめろやめろって。自分で自分を馬鹿にすんなって。だから馬鹿になるんだって。わかってんです。わかってんです。でもおれ、馬鹿なもんで、なんか、馬鹿だって言っちゃうんですよ。それで馬鹿んなって、馬鹿なことばっかりやっちまって…」
竪琴弾きは手を振り、もういい、と彼に言いました。でも男はへらへらして「つらいなあ、おれ。なんか、いやな感じだな。嫌われるんですよお。みんなに、嫌われるんですよお。つまんないことしかできないのに、陰でケチくさいワルばっかりやるって、言われるんですよお。女なんか、みんな、おれを見るとあっちへ行っちまうんだ。へへ、なんでかな。なんでかな。おれ、つらいなあ。いや、わかってんですけどね。馬鹿が、馬鹿だっていって、馬鹿んなって、馬鹿ばあっかりやってんのが、馬鹿なんですよね」といつまでも繰り言を言うのでした。
竪琴弾きはいい加減その男の相手をするのがいやになってきましたが、これも仕事だと自分に言い聞かせ、辛抱強く、語りかけました。
「では、わかっているのなら、勉強をしましょう。これまであなたは何度も地球に生まれてきましたけれど、ほとんどの人生は、だいたい似たようなもので、たいした勉強をすることもなく、ものごとを簡単にうまくやろうとして、そのためにいつも失敗して、若くして悲劇的に死んでいます。地球というところはね、ずるいことやうまいことをやって、自分だけ幸せになりにいくってとこじゃないんですよ。あそこで生きるには、強い力と正しい知恵が必要です。人類は厳しい環境を耐えて生き伸びながら学んでゆく中で、やがて強烈に愛を感じるようになるんです。それで人間は、愛を深く勉強するために、地球に行くというのが本当なんです。もっとも今は、それもだいぶすたれたような形になっていますが…」
男は相変わらずにたにたしながら、困ったような顔で、へへ、へへ、と笑いました。竪琴弾きは真面目な顔で彼の目を見つめ、言いました。「どうです?学校に行っては。月の世にはあなたのような人が勉強するための学校もありますよ。ここで罪をつぐないながら月を師として勉強するというのも道ですが、あなたのような人は、学校で直接、教師に習った方がいいと思うんですが…」
「へ、へへ、でもおれ、半分猿だしな。見られるの、恥ずかしいな。みんなに言われるな。何やってそんなことになったんだって。それ、ちょっといやかな。でも、行ったほうがいいよな。そうですよね。行ったほうがいいかな。でも、つらいしな。いや、行かないって言ってるんじゃないですよ。でもなんかな、おれ、猿だしな、馬鹿だしな…」
竪琴弾きは、深い大げさなため息をつき、もうやめろ、と言いました。男はにたにたしながら、へつらうような顔で、横目でじっと彼を見ていました。
竪琴弾きは、膝に乗せた竪琴を鳴らし、歌を歌い始めました。すると、暗い森の木々が不意にゆれ始め、頭上を覆っていた黒い梢が少し開いて空に口を開け、何かがむしばんだように深く欠けた、白い三日月が見えました。「あ、ああ、お月さま、お月さまだ、いいな、いいな、だんな、ありがとう、お月さま、好きだあ」男はそういうと、木の幹から体を離し、土の上を這いながら池の端に座り、お月さまの光をしばし浴びました。
竪琴弾きは、男が、月を浴びて泣きながら、「お月ちゃあん」と誰かを呼んでいるのを聞きました。それは、遠い遠い昔、彼の妻だった女の名でした。その頃彼の生まれた国の人々は、森の中に住み、木や葉っぱで作った簡素な家に住み、森で狩りをしたり木の実を採ったりなどして暮らしていました。
お月ちゃん、と呼ばれた女は、美しくはありませんがそれなりにかわいらしく、少し知的な障害を持っていました。それをいいことに、村の男たちはみんなで彼女を弄び、いじめたり馬鹿にしたりしていました。そしてとうとう村の男みんなに飽きられて捨てられてしまった彼女を、たまたま彼が拾い、そのまま妻としていっしょに暮らし始めたのです。
お月ちゃんは、自分が村の男たちに何をされたのかもほとんどわかっておらず、ただ自分を拾って助けてくれた彼を、純真に信じて、愛していました。それで、いつも彼のそばにより、彼のためにできることをすべてやりました。彼はそれが嬉しくてならず、お月ちゃんをたいそうかわいがりました。そんな彼を村の人は嘲笑いましたが、男は自分に自分の女ができたことが嬉しくてならず、ずっとお月ちゃんをかわいがり続けました。そして、自分が働いてできることは、みんなやりました。彼はお月ちゃんを愛していました。確かに、愛していました。
でも彼は弱く、知恵も力も足りませんでした。結局彼は、お月ちゃんを養うことができず、とうとう餓死させてしまいました。お月ちゃんを死なせてしまったこと、それは彼の心を深く絶望の底に落とし、彼もまた彼女の後を追うように飢えて死にました。
「お月ちゃん、お月ちゃああん」月を見上げて泣く男を見ながら、竪琴弾きは、小さな息を吐きました。男は、あれから何度も人生を地球で送りましたが、あれ以来一度も妻を持ったことがありませんでした。彼は女性が怖く、彼女らに会うとただへらへら笑いながら逃げてゆくことしかできませんでした。そんな彼を相手にする女性など、ほとんどいませんでした。彼も、お月ちゃん以外の女性を愛したことは、一度もありませんでした。
竪琴弾きはポケットから予備の月珠を出して、呪文とともにそれを池に放り込みました。月珠は池の水に溶けて、水面を鏡のように光らせ、それは地上に降りた小さな月のこどものようにも見えました。たとえまた森が暗闇に戻っても、その光が彼の心を照らし、愛しいお月ちゃんの面影を彼は見ることができるでしょう。それでとにかく、男の心がこれ以上暗い所に迷わないようにすることしか、今の彼にはできませんでした。
(彼は、愚かだけど、女性に意地悪をすることだけは、できない。それできっと、どんなに馬鹿をやっても、怪に落ちることはないんだな。結局は、あのお月ちゃんが、彼にとっての救いなんだ)
心の中でそうつぶやくと、竪琴弾きは竪琴を背中にまわし、立ち上がってその場から姿を消しました。すると、木々の梢がまた月を隠し、森はまた暗闇に戻りました。しかし、ただ池だけは、まるで大地の白い目のように光り、森の一隅を明るく照らしていました。男は竪琴弾きがいつの間にかいなくなってしまったのに気付き、子供のように、うわあん、と声をあげました。
「いやだ、いやだよお。みんな、みんな、行っちまうんだ。おれのことがいやだって行っちまうんだ。誰も、おれのことなんか、好きじゃないんだよお。誰もいないんだよお。だっておれ、だっておれ、なんも勉強しないからさあ。馬鹿だからさあ。誰も、誰もともだちいないんだよお。神様、神様、おれに、お月ちゃんをくれよ。お月ちゃんがいいんだよ。おれの女、くれよお。ずっとずっと、おれのそばにいてくれる女、くれよお。そしたらおれ、勉強するよお、まじめに、仕事もするよお。神様、神様、かみさまあ」
木々の陰に隠れてその様子を見ていた竪琴弾きは、また小さく息を吐いて、やれやれ、どうしようもない、と言いながらかぶりをふりました。そして竪琴の紐をにぎりつつ、辛抱強くつきあっていくしかないか、と自分に言い聞かせました。(次に彼に会いに来るときまでに、また月珠をいただいてこないといけない。醜女の君にはいつもご迷惑ばかりかけてしまうな)彼は考えながら、森の中を歩いて帰ってゆきました。
光る池のそばにうずくまりながら、男はいつまでも、「お月ちゃあん」と繰り返していました。