青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-02-15 03:14:28 | 月の世の物語・余編第一幕

「ふぃ、ゆみ、あを、とぅ、すぬ、るき、ひて、よに」と、若い上部人は言った。それは、上部言語における、いろは歌のようなものであった。上部言語の発音の最も基礎的な音を連ねた詩のことばである。意味は要約すると、こういうことになる。「はるか高空を飛ぶ翼ある白き神魚の群れよ。その清き舌を風のように揺らし、語ることは何か」

若い上部人は、上部言語の基礎と次元魔法の基礎を身につけ、ようやく入門者の段階を卒業したところであった。彼は、最初の指導者に深い感謝をし、別れを告げた。そして、上部言語における、基本的な詩句をいくつか暗唱しつつ、次の指導者を待っていたのである。

空は藍鼠色というのだろうか。月は菜の花のようであった。彼は鋼の大地の一隅に腰をおろしながら、しばし待った。すると、一陣の清い風が彼の髪をゆらした。彼は上部に上がる前、長い黒髪をした女性であったが、今、その長い黒髪の中の一筋が、青く変わろうとしていた。上部人たちは、段階を上がるたびに、微妙にその姿を変えて行く。それは彼が、ひとつ、段階を上がりかけていると言う、証拠であった。

風は、かすかな光を粉のように巻き込んで、彼の前に渦を巻き、いつしかその中に、一人の白い服を着た上部人が立っていた。彼は目も髪も銀色で、肌は雪のように白く、容よい唇に優しい慈愛の微笑みを描いていた。若い上部人はその美しい姿に目を見張って、しばし挨拶をするのも忘れたほどであった。「す、ほるみ、ゆぃ、き」と銀髪銀眼の上部人は言った。「わたしが次の指導者である。首府の取り決めによってあなたの元に来た。あなたはこれからしばらく、わたしとともに、わたしの仕事を手伝いながら、数々の言語や魔法を学び、経験をつんでいくことになった。まずはこれを見なさい」

指導者は右手を振り、虚空に一つの曼陀羅の図を出した。若い上部人は大きな正方形の中に円と正方形の窓を正確な位置にはめ込み、その中に無数の美しい仏たちを珠玉を連ねるように並べて、極彩色の色できめ細やかに塗りあげられた、見事な曼陀羅図を見上げた。指導者は、入門言語で、若い上部人にわかりやすく丁寧に言った。

「ほつ、る、しの、きぬ、りて、あひな」…これが仏教の一つの世界観の例である。仏教を篤く信仰する者は、実際にこういう世界があると信じている。だがそれは、真実ではない。悲しいことだが、仏教の現実は、過ちに満ちている。わたしの主な仕事のひとつは、この地球世界における仏教の過ちを、正しい方向へと導くべく、様々な行動をすることである。あなたは、わたしとともに、その仕事を行いつつ、学び深め、上部人としての経験をつんでいくことになった。

そう言うと、指導者は曼陀羅図を消した。若い上部人は、答えた。「ありて、る、ゆい、とき」…わたしもそれは存じております。釈尊の語られたことを、人々は曲解しています。それゆえに、仏教はあまりに難解になりすぎ、悟りと救済がはるかな高みへと登りすぎています。そして人々は、その悟りと救済が、実は幻であることを、まだ知りません。

指導者は微笑み、言った。「ふ、ほつ」…では、最初に問う。釈尊が、本当に語ったこととは、何であったのか。
若い上部人はすぐに答えた。「い、こみ、とえ、くるつ」…はい、孔子は、仁と言い、イエスが、愛と言ったことを、釈尊は、「よきもの」とおっしゃいました。それは、当時の言葉では、そうとしか、言えなかったからです。それを、今の仏教用語にて強いて言いかえれば、「我」というものになるでしょうか。

「い、ほに」指導者は言った。…よし、良い答えである。ではまた聞く。仏教の間違いは、何より生じたのか。
「いく、ろみ、のい、えむ、つる」…はい。それは、人々が、釈尊の言葉を理解できず、それよりも、釈尊の姿の美しさとその立派なことに驚き、釈尊のようになりたいと願い、釈尊の真似をし始めたからです。つまりは、彼らは、自分自身でいるよりも、釈尊その人になりたいと、願ったのです。それが間違いのもとでした。釈尊が言いたかったのは、ただ、自分が自分自身であるという真実が、真の幸福であるということでした。しかし当時の人々にそれは理解できず、ただ、自分よりも釈尊の方がいいと単純に思い、本当の自分を捨てて、釈尊その人になろうとした。それは、釈尊の真意とまったく逆のことでした。

「い、たりの、みよ、めに」…よし。そのとおり。釈尊の悲しみは、そこにある。釈尊は、人々に、愛である自分存在の幸福を教えたかったのだ。イエスのように、あるいは、孔子のように、愛を教えたかったのだ。だが、当時の人々にはそれは理解できなかった。ただわかったのは、釈尊という人の、美しさとすばらしさだけだったのだ。人々は、彼のようになりたかった。そして、釈尊の真似をして、様々に立派な言葉を書いて経文を著し、難しい修行を行った。そうすれば、釈尊のような立派な人になれると、信じて。だがそれこそが、根本的な間違いであることを、釈尊はどうしても、人々に教えることができなかった。釈尊は失意のまま、亡くなった。仏教におけるこの誤解は、今も、仏教の深部に染みつき、流れ流れ続けている。

指導者は言いながら、その瞳に青い悲哀を流した。ほう、と息をつき、しばし、苦悩に目を閉じて沈黙した。若い上部人はその顔を見上げ、その美しさに見とれ、一瞬ではあるが、それが釈迦如来の顔に似ていると感じ、慌ててそれを打ち消した。

「とみ、えも、る、ほゆ」指導者は目を開けて、若い上部人を見つめ、言った。…まずあなたが学ばねばならぬことは、ある技術である。地球上に仏の存在を信じている人が多くいるゆえに、我々は時に、仏に姿を変え、彼らの魂を導かねばならぬ。天使ならば若者にも仕事ができようが、如来や菩薩となると、我々でなければできぬのだ。

指導者は、一息の呪文を唱えた。すると、彼の白い姿が一瞬炎のように揺らめき、いつしかそこに、美しい聖観音の姿があった。若い上部人は驚いて息を飲んだ。白い衣をまとった聖観音は、真珠のような清らかな光を全身から放ちながらそこに立ち、透き通った黄水晶のような目にも眩しい光背を背負っていた。聖観音は、慈愛に満ちた目で若い上部人を見つめ、かすかに微笑んだ。若い上部人の胸に、喜びよりも、深い悲しみが生まれた。吐いたため息が、鋼の地面に落ち、白い霜がそこにへばりついた。聖観音は呪文をつぶやき、すぐに元の指導者の姿に戻った。そして若い上部人に、呪文の音韻を正確に教え、その術を実際におこなってみよと、言った。

若い上部人は、呪文を喉の奥で繰り返し、覚えた。そして、鋼の大地の上に立ち上がると、その呪文を、唱えてみた。ゆらりと、彼の姿が変わり、そこに、少し小さくはあるが、確かに、白衣をまとった聖観音の姿が現れた。聖観音は、少し足元をふらつかせた。その姿は、思った以上に、重かった。そして、悲しかった。冷たい虚無の風が頭の中を吹いた。観音の喉の奥で、鳥を裂くような悲哀の叫びが起こった。…たまらない!彼はすぐに元の姿に戻り、よろよろとその場にくずおれた。
指導者は、地に伏して震えている若い上部人の姿を、ただ静かに微笑んで見ていた。

「とり、つ、はぃ、かり、ほち」…わかったか。苦しかろう。だがやらねばならぬ。これが、できねばならぬ。あなたは、次にわたしが来る時まで、この術を繰り返し、練習しておきなさい。仏には、他にも、様々なものがある。馬頭観音、千手観音、弥勒菩薩、不動明王、釈迦如来、阿弥陀如来…。それぞれに姿が違い、役割が違い、呪文も違う。これをすべて覚えながら、地上で様々に活動してゆかねばならぬ。まだ、学びは始まったばかりだ。あなたは、やらねばならぬ。

「い、よにも、ほ、にの」…わかりました。やります。だが、なんということだ。こんなにも、仏とは、苦しいものなのか。仏に姿を変える。それだけで、なぜ、このように、わたしは重く、苦しく、寂しいのですか。

すると指導者は、深いため息をつき、本当に、仏のような悲しみの微笑みを浮かべ、言った。
「ねみ、ほり」…真実では、ないからだ。仏とは、みな、幻想の救いだからだ。

すると若い上部人は苦しそうに指導者を見上げ、しばし凍りついたようにその微笑みを見つめた。

やがて、指導者は若い上部人に別れを告げると、姿を消した。若い上部人は、鋼の大地の上に座り込み、課された重い課題を胸に抱えながら、その苦しみのために目を硬く閉じ、何度もため息を吐いた。だが、やらねばならぬ。やらねば、ならぬ。

彼は立ち上がり、もう一度、呪文を唱えた。聖観音の姿が、現れた。足元が少し揺らいだが、彼は全身の重みと、胸に現れるたまらぬ寂しさに耐えながら、何とかその姿と姿勢を保った。一息の風が吹き、観音の清らかにも白い衣の裾を、さらりと揺らした。真珠色の光が風に溶け、その冷たい寂寥の青みを、どこへともなく運んで行った。


 
 
 
 
 
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