つらつら日暮らし

「悉多太子の妻子の数」についての議論(拝啓 平田篤胤先生13)

前回の記事は、「悉多太子の妻子の数」と題して、いわゆる釈尊がまだ在家の太子だった頃の婚姻関係について、篤胤の見解を探ってみた。なお、篤胤がこれを採り上げた理由として、一部の仏教者が、釈尊が性行為をしていない、という風という話をしたいと指摘しているようである。そして、結果として、実際の釈尊には実子がいたことを示し、要は、性行為をしていないという点での宗教性(純粋性?)を主張することを批判した。

更に、この辺は、富永仲基『出定後語』の影響もあると思うのだが、仏典について後代の改変が認められると主張したかったようである。具体的には、以下の一節からご覧いただきたい。

一体諸の仏経を、みな釈迦の説た事を記したものじやと思つて、世人はおるけれども、尽く後の出家ども、釈迦に託して偽り作つたものにちがひなく、其わけは具にこの次の処に申つもりでござる。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』26頁、漢字を現在通用のものに改める(以下、同じ)


結局、篤胤の戦略はここにあって、まずは仏教者が依拠する仏典自体の価値を毀損することと、「後の出家ども」とあるが、仏教者自身を攻撃することにあった。それで、篤胤自身は悉多太子の妻子の数をどう捉えていたかなのだが、一応、この一事を以下のように締め括っている。

此方のやうに仏経はみな後の仏者の偽り説で、釈迦の言ぬ説どもが、十にして九分ほどじやと云説を心得て、其論弁せねばならぬことが有て論弁するとも、かよふにわけを立て云人は、仏法をそしる人が、たとへば百人有ませうが、其中によくここらのわけを知ていふ人は、やうやう一人有かなしで、外の九十九人はみな釈迦をめざして謗るから、なんと後世の儒者どものしはざは、釈迦をひいきのひき倒しではあるまいか。釈迦の妻を三人、子を三人持れた事は、どういいくろめたればとて、活た眼で書をよむ人には、是非其尻つぼを見出される。
    前掲同著30~31頁


上記の通りなのだが、篤胤は仏教を批判する側の問題も指摘しているのが興味深い。転ずれば、余程自分の論弁に自信があるのだろう。更に、ここでは妻が三人、子が三人だとしている。今回、見ていきたいのは篤胤がこのように述べる根拠についてである。繰り返しになるかも知れないが、一般的に悉多太子の妻はヤショーダラー妃と、一子ラーフラという組み合わせで説かれていると思うのだが、篤胤は以下のように示す。

然ば羅睺羅一人は夫にもしてやらふけれども、外にまだ優婆摩耶といふ子と、善星と子と二人あるが、この二人の子どもをば、何ともいいくろめようがないでござる。
    前掲同著28頁


それで、改めて篤胤が参照したかもしれない文献についてだが、慈恩大師基『法華玄賛』の可能性も見えてきた。

 未曽有経・須達拏経・瑞応経、皆な云わく、羅睺是れ瞿姨の子なり。
 仏に三夫人有り、一には瞿姨、二には耶輸、三には鹿野なり。各おの二万の婇女有り。瞿姨、子無し、是れ玉女なり、彼の経に長母に従い名と為し、亦た過失無し。
 又た経に云わく、仏に三子有り、一には善星、二には優婆摩耶、三には羅睺なり。
 故に涅槃に云わく、「善星比丘、菩薩の在家の子なり」。
    『法華玄賛』巻1


字句の問題なのだが、「善星・優婆摩耶」という組み合わせが意外と少なく、そのため、この文献の可能性が出て来たのである。それで、問題は「善星比丘」についてである。当方のこれまでの理解では、いわゆる「四禅比丘」の人だと思っていたのだが、釈尊の実子だった可能性があるとのことである。

それで、『法華玄賛』では『涅槃経』を典拠にしているのだが、以下の通りである。

善星比丘、是れ仏の菩薩の時の子なり、出家の後、受持読誦して、分別して十二部経を解説す、欲界の結を壊し、四禅を獲得す。
    『大般涅槃経』巻33「迦葉菩薩品第十二之一」


ここに、確かに仏の菩薩の時の子と出ている。よって、少なくとも北伝仏教では、釈尊の実子は羅睺羅一人のみとは理解されていない場面もあったことだろう。ただし、篤胤が指摘するように、釈尊には子どもが無かったとする説も一定量存在し、例えば『梵網経』などは、「吾が名、悉達なり。七歳にして出家し、三十にして成道し、吾れ号して釈迦牟尼仏と為す」という話もある。

よって、篤胤の批判は以下のように極まる。

坊主のやうに、だゞぶだだゞぶだとばかりは読でおらず、たまさかにはいま篤胤がよんだやうに、しやんとよむ人もあるから、さうよまれてはたまらず、右申す通りもろもろの仏経ことごとく釈迦に託して、のちの仏者のいつはり作つたものではあるけれども、世の儒者なんど大かたのひとは、みな実に釈迦のくちから出て阿難が書ておいたものじやとかたく覚へておるによつて、目指ては釈迦を謗る。
    『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』30頁


「だゞぶだだゞぶ」???と思ったが、幾つかの辞書を見てみたら、「だぶだぶ」が、「南無阿弥陀仏」にかけて、僧侶が何となく読経するさまを示す言葉という。よって、「だぶだぶ」と更に誇張した表現だったと思われる。そして、以上のように、篤胤の批判の特徴は、ただ古い伝承とのみ批判するのでは無く、後代に於ける改変を積極的に認めるところにあったといえる。

これなどは、いわゆる「加上説」を主張した、富永仲基の影響だともいえよう。

【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し

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