つらつら日暮らし

『衆寮箴規』に見える「律儀の再構成」について

拙僧つらつら鑑みるに、道元禅師に於ける「律儀」の再構成について、一度考えておくべきであると感じていた。ただ単純に道元禅師が『永平清規』を制定されたということだけでは、それが実際に学人にどう受け止められ、実践されていたかが分からない。また、道元禅師の場合は、まったく禅宗(道元禅師はご自身を禅宗とは名乗られない)への学びがない者達に対して、改めて教育していかねばならないという立場であられたし、しかも、叢林の修行は継続的に行われなくてはならなかった。それを思う時、以下の一節などはいわゆる「律儀」の再構成として考えることが出来るように思う。

寮中の儀、応当に仏祖の戒律を敬遵して、兼ねて大小乗の威儀に依随して、百丈の清規に一如すべし。清規に曰く、「事に大小無く、並びに箴規に合すべし」と。然らば則ち須らく梵網経・瓔珞経・三千威儀経等を看るべし。
    『永平寺衆寮箴規』冒頭


今回、この文章を「律儀の再構成」であると評価した理由としては、「仏祖の戒律」「大小乗の威儀」「百丈の清規」という三段階の「律儀」のあり方を示しつつ、そこに段階を付けていると見られたためである。具体的には以下の通りとなる。

・仏祖の戒律 ⇒ 敬遵(敬い遵うこと)
・大小乗の威儀 ⇒ 依随(依って随うこと)
・百丈の清規 ⇒ 一如(ピッタリと1つであること)


以上である。ここから、広い意味での「仏祖の戒律」については、敬うことが示されている。敬うこととは、現実から少し遠い距離感を見ることが出来る。一方で、「大小乗の威儀」は、依拠することが示されていることになる。しかし、この「依拠」だが、大小乗の戒律の全てに依拠すべきなのか?或いは、実践する側で、どの文脈に依拠すべきかを選べるのか?で、この一節の印象も大分異なってくる。

そこで、大事なのが「百丈の清規」について、一如であるべきだと示されることである。この場合の「百丈の清規」とは、いわゆる唐代の百丈懐海禅師自身が制定したともされる『百丈清規』ではないし、道元禅師よりも後の時代に編まれた『勅修百丈清規』でも、もちろん無い。この「百丈の清規」とは、『禅苑清規』に代表される、当時実際に行われていた禅宗清規の文脈を指すと見るべきであり、結果として、道元禅師は現場での実践を最優先に、その背後に敬うべき「仏祖の戒律」と、現場で選択しつつ依拠する「大小乗の威儀」とを置いたというべきであろう。

途中に引かれている「事無大小、並合箴規」は『禅苑清規』巻2「小参」項からの引用であるが、実際の現場たる「事」には大乗も小乗(声聞)も無いのだから、とにかく「箴規(清規)」を最優先に行うことを示したものであるといえる。

そこで、「仏祖の戒律」と「大小乗の威儀」なのだが、道元禅師はその看て学ぶべき対象として「梵網経・瓔珞経・三千威儀経等」を挙げている。前者二経は、まさしく大乗菩薩戒を示す経典であり、『三千威儀経』の評価は難しいが、「大小乗の威儀」の特に「小乗」とはこれを指しているのだろうとも思う。しかし、道元禅師は永平寺に入られる前の、宇治興聖寺で示された『正法眼蔵』「洗浄」「洗面」巻などに、既に同経からの影響が見られるので、いわゆるの「三千の威儀」を実践するために重視されたことは明らかである。つまりは、永平寺に入られて急にこのことが思い付かれたわけでは無く、必要に応じてご自身の清規実践の典拠や考え方を弟子達に示されたと思うのである。

以上のことなどを承けて、永平寺に入られた後で、現場の実践に於ける「律儀の再構成」が模索されたと考えるのである。そのため、『永平広録』に収録される上堂でも、巻5-390上堂、巻6-464上堂などに、清規・律儀の教えが示されているが、これなども同様の動機に依った説示であったと理解出来るように思う。

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