人の咎をいう程の者は、自分の身に徳がないからである。徳というのは得なのであり、徳を好む人にあるのである。人の咎をのみ求めれば、咎のみあって、更に徳の住み処ではないのだと、云々。
「梅尾明恵上人遺訓」、岩波文庫『明恵上人集』208頁
他人の罪や咎ばかりをあら探しするような者というのは、結局本人の身に徳がないから、そういうことをしてしまうのである。徳を好む人というのは、本人にも自然と徳が具わるものである。よって明恵上人は徳を好む人として、生きるべきだといいたいのであろう。正直なところ、この世界には、徳なんか無くても良いといって、格好を付ける人もいる。しかし、それはそんなに格好が良いものなのだろうか?徳が無くても良いといって、世の中で困っている人に宗教的な救済を及ぼさないという場合、見苦しいことこの上ない。
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